27 立ち往生する恋心②
「さて……。何から話せばいいだろうか」
冷たくなったコーヒーの残るマグカップに視線を落とす私の前で、鷹能先輩が独り言を呟くように口を開いた。
「先程は一度に沢山の情報が入って、知華を混乱させてしまったかと思う。気になることは何でも質問してほしい。誠心誠意答えるつもりだ」
「……今は何を聞けばいいのかすらよくわかりません。ただ……先輩は、一体何者なんですか?」
ぐちゃぐちゃに絡まった情報と私の感情を丁寧に
「俺自身としては、藤華学園高校三年で吹奏楽部員の紫藤鷹能、ただそれだけだと思っている。だからこれまでも知華にはありのままの自分の姿を見せてきたつもりだ。しかし、周囲は俺がその属性だけを纏うことを許してはくれないらしい。そういう意味で俺が何者であるのかを説明するならば、
槇川藩──
それは江戸時代にこの藤央市と我が家のある藤北市、藤鈴町、南藤市一帯を領地としていた小藩で、規模の割には豊かで活力のある藩だったと社会科の授業で習った記憶がある。
藩主、つまりお殿様の名前はすっかり忘れていたけれど、そう言えば代々紫藤なんちゃらっていう名前だったような……。
ということは、鷹能先輩は世が世ならば次にお殿様になる人で、現代では財閥の後継者という立場ってことなの?
「そんなすごい人が、どうしてうんりょーに住んでいるんですか? しかも、中学時代はホームレス生活までしていたなんて……」
「それについては二つの理由がある。一つは、代々紫藤家の嫡男に課される試練によって今の状況にあるということだ。紫藤家は戦国時代より嫡男を勢力の強い他家に人質に出したり、参勤交代で幕府の人質として江戸の屋敷に住まわせたりしてきた。その歴史の中で、ある習わしができたのだ。十三歳から十八歳で成人の儀を執り行うまでの五年間、紫藤家の嫡男は家を離れてできる限り自力で生活をし、見聞を広め強靭な精神を養うことを求められる。もっとも、学問や武芸、芸術を嗜むことも嫡男として必要な素養なので、それらに支障がないよう生活費やその他必要な援助は武本を介して受けてもよいことになっているのだがな」
「それでホームレス生活していたんですか? 中学生の試練としては厳しすぎませんか?」
「そうだな。それについては二つ目の理由と関わってくる。……志桜里とのことだ」
先輩の口から彼女の名が出てきて、心臓を掴まれたように息苦しくなる。
彼女が花束を差し出した時に鷹能先輩に向けていた、蕩けるような熱っぽい視線。
彼女はずっと鷹能先輩のお嫁さんになりたかったのだと言った海斗の言葉。
それらのことからも、先輩と志桜里さんがただならぬ関係であることは明らかだ。
「文化祭ステージに来ていた彼女、
旧華族の家柄のお嬢様──
旧槇川藩主の家柄である先輩といい、なんだか違う時代に生まれた人のようだ。
「俺にとって志桜里は妹のような存在だったのだが、俺が十二歳の時に父親から彼女が俺の結婚相手となる予定だと聞かされた。十八歳の誕生日にかつての元服つまりは成人の儀が執り行われ、紫藤家の正式な跡取りと認められた後、俺には様々な宿命が待っている。多角的経営を行う紫藤グループの事業の一端を担うという重責が出てくるほか、跡取りとして紫藤の家を存続させ未来永劫に渡り繁栄を続けさせるという使命も負う」
先輩の境遇はスケールが大きすぎて、一般庶民で一介の女子高生に過ぎない私にはどうにもピンと来ない。
けれども、紫藤家の嫡男であるという重責こそ、以前トミー先輩が言っていた鷹能先輩が背中に負うものだということなのだろう。
そんな先輩の荷を軽くすることなんて、本当に私にできるんだろうか。
混乱した思考が少しずつ整理されていく一方で、私の感情を覆う濃霧のような不安はますます濃度を増していく。
私の顔を眼差す先輩の表情も苦しげで、端正な顔を僅かに歪めながら言葉を続けた。
「つまり、次代の後継者を確保するために、紫藤家の嫡男は十八歳になると同時に婚約するのが習わしなのだ。そういった経緯があって、志桜里が将来の俺の婚約者として選ばれたというわけだ」
志桜里さんは、先輩のお父さんが決めた婚約者──
彼女の先輩への眼差しと海斗の言葉が一つの事実と結びつき、不安の濃度がさらに増す。
「しかし、俺はそれに納得しなかった。志桜里のことは妹のように可愛かったが、元々自由に生きられない宿命を負う中で、せめて人生の伴侶くらいは自分で決めたいと父に訴えた。父はそんな俺を頭ごなしに否定することはしなかったが、お互いの合意の元で話をまとめた水無瀬の家の手前、すんなりと俺個人の意思を受け入れることはできないと言われた。そこで父の出した条件が、元々十三歳になったら親元を離れる予定だったところを勘当同然の扱いで放擲するということと、成人の儀までに結婚相手を見つけられなかった場合は取り決めどおり志桜里と婚約するということだった。その条件を受け入れたが故に、俺はただ親元を離れて暮らすよりも厳しい環境での生活を余儀なくされた。もっとも、武本が取り成してくれたおかげもあり金銭面で困窮することはなかったのだが」
家柄が良いということは、必ずしも幸運な星の下に生まれたということではないのかもしれない。
生まれた時には既に自分の歩む人生が決められていて、そこから外れることは許されなくて。
せめて自分の意思を通せるところは自由にしたいと思う鷹能先輩の気持ちは理解できるけれど、それを通すにはそれなりの代償が求められるのだろう。
ふと顔を上げると、先輩は濃い琥珀色の瞳を揺らしながらもわたしを真っ直ぐに見つめていた。
瞳が合ったことを確かめて、一旦引き結んだ唇を開く。
「親元を離れ厳しい環境で生活する中で俺は多くのものを得た。その中には知華との出会いも含まれている。君を知り、君と過ごす時間の中で、俺はやはり人生を共に歩む女性は自分自身で決めたいと考えた。そして願わくば──その相手は知華、君であって欲しいと思っている」
「先輩……」
頭の中で絡まっていた情報はだいぶすっきりとまとまって、ぎくしゃくしながらも思考回路は働き出している。
けれども、そんな自分の内に見えてくるのは、重くのしかかる衝撃と、もやもやと立ち込める不安。
そして、先輩への疑念。
「今の私には先輩の言葉をそのまま信じることはできません。先輩は私を利用して決められた人生に反発しようとしているだけなんじゃないですか?」
しばしの沈黙。
その後、再び俯いた私の頭上に深いため息が落ちてくる。
「知華……。すぐに俺のすべてを信じろというのは確かに無理な話かもしれない。だが、俺は本当に君のことを……」
「だって、先輩と私が言葉を交わすようになってまだ二ヶ月足らずですよ? そんな私と結婚まで考えちゃうなんて、それは先輩に婚約までのタイムリミットがあるからなんじゃないですか? 決められた結婚から逃れられるなら、先輩は相手が私じゃなくてもいいんじゃないですか?」
胸の内に収まりきらなくなった疑念を一気に吐き出すと、私は隣のパイプ椅子に置いたリュックを手に立ち上がった。
「知華! それは誤解だ。どうか俺の目をきちんと見て話を聞いてほしい」
「ごめんなさい。今日はもう私のキャパがいっぱいいっぱいで、とても冷静に話を聞ける状態じゃありません」
頭を下げてボーン部屋を出て行く私を鷹能先輩が慌てて追いかける。
「今日はもう暗くなったし、俺が送ろう」
「大丈夫です。まだそんなに遅くないし、一人になりたいんです」
「そうか……。では来週、また二人で話ができるだろうか」
「……わかりません。ごめんなさい」
「…………」
先輩はそれきり言葉を発することなく、靴を履いてうんりょーを出て行く私を見送った。
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