09 あの横顔をもう一度見たい③

 指揮のトミー先輩が振り上げた手を下ろすと、最高潮に達した緊迫感が一気に緩んだ。

 練習にも関わらず、見学していた新入生の集団から感動の拍手が起こる。


 数十人の演奏というものを初めて目の前で体感した私は、拍手をするのも忘れてただただ圧倒されていた。


 この迫力。この熱量。そして、この充実感。


 すごい──!!


 「今のはサン・サーンスが書いた『サムソンとデリラ』というオペラの中の有名な一曲なの。ヘブライ人の英雄で怪力の持ち主サムソンが、敵対するペリシテ人の美女デリラに惑わされて捕らえられてしまう。ペリシテ人が勝利の酒宴を開いているときに流れるのがこの『バッカナール』という曲で、最後には怪力を取り戻したサムソンがペリシテ人を巻き込み神殿ごと破壊して自らも死ぬ、というのがオペラのあらすじよ。六月に行われる文化祭はこの曲がトリになります。新入生にもなるべく演奏に参加してもらうつもりでいるからよろしくね」


 その場に立ち上がった咲綾部長が新入生達に向けてそう告げると、周囲にいる彼らから喜びと不安が綯い交ぜになった声が上がった。


 その後はパートごとの確認とか部分練習とかの細かなチェックが行われるということで、新入生はこの場で自由解散となった。吹奏楽経験者は各パート部屋で練習していってもよいとのこと。私以外の見学者はみんな経験者らしく、このまま残って練習していくとのことだった。

 上級生達の迫力ある演奏に刺激を受けて、やる気のスイッチが入ったみたいだ。


 というわけで、未経験者で特にやることのない私は一人早めに家路に着いたんだけど――


 頭に浮かぶのは、鷹能先輩のことばかり。


 わざわざ教室まで迎えに来た鷹能先輩。

 マウスピースに苦戦する私の横顔を見つめて「いいな」と微笑んだ鷹能先輩。

 どぎまぎする私を見て声を上げて笑った鷹能先輩。

 私の凛とした横顔をもう一度見たいと言った鷹能先輩――


 心臓が掴まれたようにきゅうっと苦しくなるのに、彼の表情の一つ一つを思い出すことを止められない。

 そんな甘く柔らかなシーンに加えて、合奏中に垣間見た硬質で高潔な姿が私の胸をちりちりと熱する。

 銀色のトランペットを口に当てた、ため息が漏れる程に端正な横顔。

 フェンシングの剣のように正面を突き刺すシャープで透明感のある音色。

 私の胸が高鳴ったのは音楽のせいだけじゃない。

 私の頬を紅潮させたのはサン・サーンスじゃない。


 暴力団がらみのヤバい噂とか、青雲寮に住んでいるかもしれない疑惑とか、鷹能先輩について確かめるべき謎はまだ幾つも残っている。

 踏みとどまろうとする理性はそう警告しているのに、心の方は眼前の深みへと今にも吸い込まれようとしている。


 そんな飛び込み台の上に立っているかのような葛藤に囚われているうちに、いつの間にか新興住宅地の一角に建つ我が家の前に着いていた。

 電車を下りて改札をくぐった記憶もないのに、よくここまで辿り着けたものだ。


「ただいまー」

 玄関を開けながら声をかけると、「おかえりー」とキッチンから届く母の声に出迎えられる。

 一度二階の自室に行き、部屋着に着替えてリビングに下りると、妹の知景ちかげがソファに寝転んでドラマの録画を観ていた。

「知景がこの時間に家にいるなんて珍しい」

 多少の皮肉を込めて声をかけると、テレビに固定していた視線で私を一瞥した後、だるそうに体を捻ってこちらを向いた。

「だってぇ。中学生のお小遣いじゃ毎日マック行くわけにいかないじゃん。おねえちゃんはいいなー。これからバイトするんでしょ? あたしももっとお金欲しいなぁ」

「お小遣い足りないってお父さんにしょっちゅうねだってるくせによく言うよ」


 二歳年下の知景は要領がいい。

 たいして勉強もしていないのに、テストでの点の取り方をわかっている。だから、内申のために部活動を頑張らなくてもそこそこの高校へ行けるんだと言って毎日のように友達と遊び呆けている。

 部活が忙しくてお小遣いの使い途がなかった私とは対照的に、友達とのお茶代や洋服代でお小遣いを使い果たし、足りなくなると父親にねだる。

 思春期に突入した途端愛想の悪くなった妹を腫れ物のように扱う父は、猫なで声で知景にねだられると良い顔をしたくてすぐに財布の口を開くのだ。


 長女の私はそんな風に調子よく立ち回ることはできないけれど、妹のようにお気楽な青春の楽しみ方を密かに羨ましいと思っていた。

 だから高校に入って、自分もそうやって何の憂いもなく楽しもうと思っていたのに。


 思っていたのに――


「私、やっぱり部活やろうかなって思ってるんだ」

 ぽつりと呟くと、すでにテレビに向き直っていた知景はどうでも良さそうに「ふうん」と相槌を打った。

 その代わり、夕食の準備の真っ最中である母がキッチンカウンターから顔を覗かせた。

「あら、そう。また剣道をやるの?」


「ううん。……吹奏楽部に入ろうかなって思ってる」


 その一言で、とうとう飛び込み台の先端に足を掛けてしまった。

 その先に待っているのは迫力の吹奏楽と怪しげなうんりょー、そして高潔なギリシャ彫刻。

 飛び込んでしまえば、その深さや息苦しさにもがくことになるのかもしれない。

 けれども、その水面は憧れていたはずの帰宅部ライフよりもずっとずっと煌めいて私を誘っていた。

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