28 立ち往生する恋心③

 日曜日は文化祭ステージ翌日ということで、部活動は久しぶりの休みとなった。

 月曜日からはいよいよ夏のコンクールに向けての練習が本格的にスタートする。

 今日一日をゆったりと過ごし、明日からは気持ちを切り替えて練習に励まなければいけない。それなのに、昨晩から私の胸の内はネガティブな感情が心臓や肺を圧迫するほどに膨らんでいて、息苦しさにベッドから起き上がるのも億劫なくらいだ。


 知景ちかげは昼前から友達の家に遊びに出かけたみたいだし、父はどうせリビングでゴロゴロとテレビを観ているだろう。母は私が文化祭で燃え尽きたと思っているようで、今日はほとんど声を掛けてこない。

 今はそんな放置気味の環境がありがたい一方で、一人でいると余計に色々と考えてしまいどんどん苦しくなっていく。


 どうして私はこんなに苦しいんだろう。

 その理由は自分でももうわかっている。




 私、やっぱり鷹能先輩のことを好きになっていたんだ────




 先輩がうんりょーに住んでいるのには、やむにやまれぬ事情があるとは思っていた。

 ただ、トランペットを吹く彼に魅かれ、私をうんりょーに連れて来た思いを聞き、無機質な表情に色がのる瞬間を見て、毎朝ボーン部屋でその人柄に触れるうちに、先輩の事情がどんなものであれ、きっと私はそれを受け入れられると思っていた。


 それなのに──

 先輩が自分の境遇を語り、重い荷を負う自分と共に歩んでほしいと私に手を伸ばしてきたのに──


 私はその手を取ることを躊躇してしまっている。


 結婚という十五歳の私にはまだまだ実感の湧かない人生の選択をいきなり突きつけられた戸惑いや、先輩の家柄への気後れももちろんあるけれど、それ以上に私の心を重くさせているのは、志桜里さんの存在と、先輩への疑念だ。


 踏み込めないならば断ち切ってしまえばいい。

 その退路を残すために、先輩は敢えて壁を作ってくれていたのだから。

 わかっているのに、私の心は未だにその場にうずくまり、未練がましく目の前の壁を見つめているのだ。




 先輩を好きになってしまったから。

 だから私はこの場から動くことができずに苦しんでいるんだ────




 🎶🎺🎶


「文化祭が終わったから朝練がなくなったの?」


 月曜日、遅めの登校時間に戻った私にキッチンに立つ母が声をかける。


「うん……」


 ダイニングテーブルに置かれたお弁当と入れ代わりに歯切れの悪い返事を残し、バッグに荷物を詰めた私は玄関へと向かう。


「行ってきます」

 外へ出ると今にも泣き出しそうな濃灰色の雲が空をすっかり覆っていて、私は慌てて玄関の中へと戻り折り畳み傘をバッグの中に追加した。


 通勤客のピークが過ぎて制服姿の学生が目立つ駅前に着き、改札へ向かう階段を上りながら定期券を取り出す。

 上りきったところで改札を見やると、通り過ぎる人々の視線を吸い寄せる端麗な佇まいの人物が立っている。


「鷹能先輩……」


 改札へ流れ込む人の波の中に私を見つけると、先輩はゆっくりとこちらへ近づいてきた。


「おはよう」

「おはよう、ございます……。どうしてここに先輩が……?」

「きっと今朝はうんりょーに来てくれないだろうと思い、君を迎えに来たのだ」


 何て返していいのかわからなくて無言で改札を通ると、先輩も私のすぐ後を追ってくる。

 ホームに立つと、黙って隣に立つ。

 嬉しさと、気まずさと、戸惑いと、緊張と。

 整理のつかない感情を持て余し深いため息を一つ吐くと、俯いた頭上から先輩の低い声が降ってきた。


「一昨日はすまなかった。もっと段階を踏んで少しずつ俺の境遇を理解してもらうつもりだったのに、君の信用を失う結果になってしまった」

「……少しずつ話を聞いていたら、私は先輩のことを信じることができていたんでしょうか。それとも、上手く言いくるめられて引き返せないところまで連れて行かれてしまったのかな……」

「俺は君を言いくるめるつもりなど全くない。これまで君に見せてきた俺も、君に伝えてきた言葉も、すべて嘘偽りのないものだ。君が俺の境遇を知った上で俺とこれ以上の関わりを持ちたくないというのであれば俺も諦めて身を引こう。しかし、俺の心を疑っているのであれば、その誤解は解いておきたいのだ」


 先輩がそこまで言ったときに、目の前に電車が滑り込んできた。

 既に混雑している車内に乗り込むと、先輩は「こちらへ」と私の手を引いて二人が立てるスペースへといざなった。

 後から乗ってきた人に押され、向かい合う先輩の胸に額が触れそうになる。

 慌てて先輩に背中を見せて、閉め切ったドアと向かい合った。


 ドアに嵌め込まれたガラス越しに景色がゆっくりと動き出す。

 同じ電車に乗り合わせた学生達の話し声がそこかしこで聞こえてくるけれど、私達二人は無言のまま、ただ黙って流れる景色を見つめている。


 次の停車駅ではさらに乗客が増えた。

 個人に与えられたスペースはさらに狭まり、先輩の体が私の背中や髪に触れる。

 私を圧迫しまいとドアに手をついた先輩の細く長い指が目の前にくる。

 梅雨時の湿気が立ち込める車内の空気は不快なのに、背中から伝わる先輩の体温はずっと感じていたくなる心地良さで。

 時折髪を微かに揺らす先輩の吐息に胸がきゅっと痛くなる。

 先輩の存在を感じることがこんなに苦しいのに、この時間が長く続けばいいなんて思う私はどうかしている。


 誤解を解きたいと言った先輩は、結局藤華学園前駅に着くまでの間一言も発することなく、ただ車内の圧迫から私を隔ててくれていた。


 🎶🎺🎶


 駅の改札を出ると、アスファルトにぽつぽつと黒い染みがつき始めたところだった。


 バッグから折り畳み傘を取り出しながらふと先輩を見る。

 IC乗車券を二つ折り財布にしまい、それを制服のズボンのポケットに入れる先輩は一度うんりょーに戻るつもりなのだろう。通学用のカバンも傘も持っていない。


「傘……。折り畳みなんで小さいけど、入ります?」

 思いきって声を掛けると、文化祭以来ようやく端正な顔に桜色の微笑みをのせた先輩が「ありがとう」と声を弾ませた。


 傘を持つ先輩の夏服から露出した腕が、歩く度に私の腕に触れる。

 その度に跳ね上がる心臓に耐えきれなくて少し体を離そうとすると、「濡れてしまうぞ」と傘を傾けられる。

 それでは先輩が濡れてしまうからと躊躇いつつも距離を詰める。


 そんなことを何回か繰り返すうちに、絹糸のような細い雨筋の向こうに校舎が見えてきた。


「傘に入れてくれて助かった。ありがとう」

 うんりょーへ戻る先輩が傘の柄を私に手渡しながら微笑んだ。


「いえ……」

「明日もまた改札で待っている。知華と再びうんりょーで朝食を共にできるようになるまで、俺は毎日君を迎えに行くつもりだ」


 さりげなく私に傘を傾け続けていたせいで、先輩の右肩は濡れたシャツが貼りついている。

 受け取った傘を慌てて傾けると、私を真っ直ぐに見据えたまま、先輩は柄を持つ私の右手を骨ばった大きな左手でそっと包み込んだ。


「いくら言葉を並べ立ててもきっと君の誤解は解けないのだろう。ならば俺は行動で誠意を伝えていくことしかできない。もしもそれを不快に思うのならば、今はっきりとそう告げてほしい」


 逃げることを許さないと言わんばかりに、濃い琥珀色の瞳の中に私の姿が閉じ込められている。

 僅かに力の込められた手の温もりに、はち切れそうな思いがとうとう胸を突き破り、言葉となって溢れ出た。


「先輩に関わりたくないと思えるなら、こんなに苦しい思いなんてしてません。先輩を信じることができるのなら、苦しい思いから抜け出すことができるのかもしれません。でも今は……どちらもできないから、こんなに苦しいんです!」


 私を包む手を振りほどくように踵を返すと、私はうんりょーと先輩に背中を向けて昇降口に向かって走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る