19 うんりょーの朝③
「覚悟……ですか」
先輩のために何かをしたいと思う気持ちに一体どんな覚悟が必要なのだろう。
心の扉をあっさりと閉ざされてしまい、私は為す術もなくマグカップに入った黒い液体を見つめた。
先輩はミルクと砂糖の入った小さなバスケットを戸棚から出して私の前に置くと、自分も部屋の真ん中にある大きな調理台にコーヒーを置いてその前に座った。
「先輩は私をうんりょーに連れてきて、吹奏楽に誘ってくれました。中学の部活で後悔を残してしまった私は、ここで新しいことに打ち込んでみようと決意しました。そんな前向きな気持ちになれたのは、先輩のおかげなんです。だから、私にできることなら何かお返ししたいって思ったんです」
「そのことについては、知華の凛とした横顔をまた見たいと思った俺のエゴでもあると言っただろう。だから礼などは必要ない。恩返し程度で俺の事情に踏み込んだら、きっと君は後悔する」
「どうして後悔するんですか? 」
「俺が知華をこちら側に引き込んだら、君を一生道連れにすることになる。君は弱冠十五歳でその後の人生が決められてしまうのだぞ。そして、それは俺にとっても知華の人生について責任を取るという覚悟を必要とする」
うんりょーで一人暮らしをする鷹能先輩を手助けすることが、どうしてそんな大げさな話になるのかわからない。
けれど、先輩側の事情に踏み込ませまいとする空気の中で、これ以上深くを聞き出すのは無理なような気がする。
黙っていると、マグカップを口から離した鷹能先輩が穏やかに私を見つめた。
「今朝はこうして俺の様子を見に来てくれて嬉しかった。しかし、君はもうあまり俺に構わない方がいい。君をわざわざ教室に迎えに行ったり、手を握って無理矢理ここまで連れてきたことも軽率だったと今は反省している」
優しく突き放すその眼差しには、重い荷物を一人で背負い込む先輩の決意が込められている。
そう感じるのに、なおも──ううん、だからこそ先輩に近づきたいと思ってしまう私は、熱に浮かされてでもいるんだろうか。
「先輩は私との間に “縁” があると言いましたよね? だとしたら、先輩の心に溜まった澱を私が少しでも掬い出すことはできないんですか?」
「ならば知華は吹奏楽に打ち込んでくれればいい。俺は君のあの横顔を見られれば、それで十分なのだから」
散り際の桜のように鮮やかな、けれどもどこか寂しげな色の微笑み。
このまま先輩の表情にのる色を見ることはなくなってしまうのだろうか。
言葉を繋げられないまま先輩の淹れてくれたコーヒーを口に含むと、優しい香りとは裏腹に深い苦味がじわりと広がった。
🎶🎺🎶
「知華、今日はなんだか元気がないね。部活で何かあったの?」
昼休み、教室で机を向かい合わせて一緒にお弁当を食べていた茉希が心配そうに私を覗き込んだ。
「ううん。部活では何もないよ……」
卵焼きを箸で弄びながら、私は作り笑いを顔に貼り付ける。
茉希がヤバいと思い込んでる鷹能先輩にもっと深く関わりたいなんて言ったら、彼女はなんて言うだろう?
箸でころころと卵焼きを転がし続けていると、茉希が浅くため息を吐いた。
「あーあ。そのうじうじした感じ、知華らしくないなあ」
「…………」
「私はまだ知華と友達になって日が浅いけどさ。それでも結構わかってきてるよ、知華の性格」
「……私の性格?」
「うん。一見ほわんとしてるけどその実好奇心旺盛で、興味を持ったことには一直線に向かっていくところがあるよね。」
「そ、そうかな……」
「今も一直線に向かっていこうとして、壁にぶつかってるところなんじゃない?」
「……茉希ってばエスパー?」
図星を言い当てる友人に半分本気でそう尋ねると、彼女は可笑しそうに笑った。
「吹部に入った時もそうだったけどさ、知華って一度自分が向かう方向を決めたら、周りの目とか噂とか気にせず一直線に向かっていくよね。そういう人って、壁にぶち当たってもそう簡単に諦めたり方向転換したりができないんだよね」
「仰る通りです……。でもね、その壁が誰かの手によって敢えて作られたものだとしたら、それを壊して進むことは相手の迷惑にもなるのかなあって」
「それでも知華は壊して前に進みたいって思ってるんでしょ? もし相手の迷惑になるようなら、その時はすみませんでしたーってバックして、壊した壁を修理しちゃえばいいんだよ」
「そんな簡単に元に戻せるものかなあ?」
「まるっきり元通りにはならないかもしれないけれど、壁の前でうじうじ悩んでいても仕方ないじゃない? 後退が嫌なら前進あるのみ、でしょ」
「……茉希ってば、破壊の伝道師?」
「どっから出てきたのよ、その肩書き」って笑う茉希につられて、私も思わず笑ってしまった。やっと大きく開いた口にそのまま卵焼きを箸で突っ込む。
そう。
壁の前でうじうじ悩んでる時点で、進みたい方向は既に決まっているんだ。
鷹能先輩が作った壁の向こう側に私は行きたい。
一生が決まるほどの覚悟というのが何なのか、それがどれほど重大なものなのかはわからない。けれど、そんな漠然としていてよく見えないものに感じる後ろ向きな気持ちよりも、重い荷物を一人で背負い込もうとしている鷹能先輩を助けたい、孤独からくる無機質さにもっと温かな色をのせていきたい、そう思う前向きな気持ちの方がずっと強いんだ。
だったら茉希の言う通り、目の前の壁を壊して進んでいくしかないよね!
🎶🎺🎶
「おはようございまーす」
翌朝。ギイイと重たい扉を開け、うんりょーの中へ向かって声をかけると、ボーン部屋からエプロン姿の鷹能先輩が驚いた様子で廊下へ出てきた。
「知華……。なぜ今日もここに──」
「先輩、もう朝ごはんは食べたんですか?」
「いや、これから用意するところだが……」
「よかった! 私、おにぎり握ってきたんです。よかったらそれを朝ごはんにしませんか?」
不安と緊張でほどけそうな笑顔を精一杯保ちながらボーン部屋に入り、おにぎりの入ったトートバッグを調理台の上に置く。
「お茶、入れさせてもらってもいいですか? おにぎりは私が握ったのであんまりうまくないですけど、具は梅と鮭フレークだから味は問題ないと思うんですよね」
「知華」
気まずい空気を作らないよう忙しなくお茶の準備を始めた私を鷹能先輩が呼び止めた。
「俺にはもう構わない方がいいと言っただろう? なぜ今朝もここに来た」
その低い声は困惑で微かに揺れていて、戸惑いと警戒を込めた瞳は咎めるように私を見据えている。
気圧されまいと握り拳をつくり、私もまた鷹能先輩をまっすぐに見つめ返した。
「私、イノシシなんです」
「……は? イノシシ?」
「一度前に進もうと決めたら、方向転換やバックができないんです。壁を作られても、壊してでも前に進もうとしちゃうんです。だからもう止められないんです。……先輩に関わっていくことも」
先輩の瞳が揺れる。
「それは……恋の告白ととらえてもいいのだろうか」
「え……っ? ええっ!?」
先輩からの指摘に、全身の血が超高速で頭に集まり、ばふん! と暴発するくらい顔が熱くなった。
そそそそそ、そうなの……!?
先輩に近づきたいと思うこの気持ちは、好奇心でもお節介でもなくて、恋心なの──!?
否定も肯定もできなくて、全身から変な汗が吹き出してくる。
そんな私の狼狽ぶりを見た鷹能先輩は、冷ややかだった目元を緩ませ、ははっと短く笑った。
「からかってすまない。自分をイノシシに喩えた告白など前代未聞だと思い、面白くてつい突っ込んでしまった」
先輩は私の横に立つと、沸いたヤカンの火を止めて、急須にコポコポとお湯を注いだ。
ヤカンを再びコンロの上に置き、私に向き直る。
「ありがとう。知華が踏み込む決意を固めてくれるのならば、俺はそれを全力で受け止めよう」
鷹能先輩の腕が私を引き寄せて、ふわりと抱きしめられる。
「君を引き込むのを躊躇うことは俺ももう止める。──引き込んだその先に、たとえ苦難が待ち受けていようとも……」
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