第七幕 彼と彼女の選択/再牙とバジュラ

7-1 持つ者と、持たざる者

 遠い過去の記憶が、少しずつおぼろげになっていく。


 漠然とした不安定な雰囲気が、ゆっくりとではあるが確実に、現実味のある世界へと変貌を遂げていくのが、彼の中で確かに感覚された。


 緩やかな覚醒。

 瞼に僅かな痺れを感じながら、火門再牙は静かに目を開けた。

 途端に鈍くも眩い光が視界に飛び込み、軽い眩暈を覚えた。


 もつれた糸が勢いよく解けるようにして、全神経の感覚が一気に現実へと引き戻された。


 背中に、羽毛のような柔らかい感触を覚える。

 意識して手足を動かしてみる。体の痛みが嘘のように消えていた。

 口元を拭おうとしたが、何か固いものが邪魔をする。

 再牙はそこでようやく、己が機関傘下の総合医療局が保有する医療用ポッドに収納され、呼吸用のマウスピースを嵌められているのだと悟った。


 医療用ポッドの型式は再牙が機関に所属していたときよりもずっと新しかったが、それでも基本的な設計は変わっていなかった。

 マウスピースを煩そうに取り外しながら、右足でポッド底部に備え付けられた開閉スイッチを踏み押す。

 炭酸が抜けるような音と共に、ガラス製のポッドの蓋が左右にスライド。

 一層眩い天井灯の光が網膜を刺激する。思わず両目を素手でこすりながら、再牙はゆっくりと身を起こした。


 彼が運ばれた治療室は、消毒液が放つ独特の匂いで隙間なく満たされていた。


 地面に顔を出すモグラのようにポッドから抜け出ると、再牙は音も立てずに、白い床に立った。

 薄水色の野暮ったい患者服という、実に締まらない格好で。

 

 ぼやけた視界が徐々に輪郭を取り戻していくのを感じながら、再牙は周囲を観察した。

 そう時間もかからず、壁に、あの黄色いコート――オルガンチノが掛けてあるのを発見。

 縋りつくようにしてコートを手にすると、それで身を守るかのように、袖を通した。


 瓶が詰め込まれた棚の方へ視線を向けると、アナログ時計があるのに気付いた。

 時間は、夜の十一時三十分――再牙の能力が回復するまで、あと三十分。


 近くに置かれていた丸椅子に腰かける。

 そこでようやく、心を落ち着かせる準備が整った。


 オルガンチノのポケットから灰煙草ミネラル・シガーを取り出し、火をつける。

 治療室が禁煙であろうことはそれとなく察せられたが、構うものかという気分だった。


 肺を香ばしい灰分の煙で一杯に満たし、思いきり口から吐き出す。

 それを何回か繰り返しているうちに、頭の中がようやくはっきりしてきた。


 「バジュラ……」


 うっそりと呟く。


 獅子原錠一から託されたデータを解析したとき、再牙は無意識のうちに願っていた。

 全てが嘘であって欲しいと。

 バジュラが都市を滅ぼす野望を抱くなんて、そんな結末を選択してしまったなんて、決して思いたくはなかった。


 だが、現実は無情である。

 かつての同胞は瞳に暗がりを宿し、部隊にいた頃には無かった凶悪さを、再牙にぶつけてきた。

 その圧倒的な力を抑え付けるだけの言葉を、彼は持ち合わせていなかった。


 バジュラは言っていた。

 アヴァロ、貴方になら分かるはずよ、と。

 一体私が、何を考えてこんな行動を起こしたのか、直ぐに理解が及ぶだろうと。


 全くその通りだ。

 彼女が纏う憎悪に満ちた衝動は再牙の理解を超えてはいたが、そこに至る根拠については身に染みて理解できる。

 あれだけ暴力による自己肯定を批判していた彼女を、ああも変えてしまった原因について。


 つまるところ、復讐だ。

 それを成し遂げるために、彼女は十年前のあの日から研鑽を積んでいたのだ。

 彼女なりの正義は年月を掛けてとっくりと熟成され、それは今や、恐ろしき異形の刃へと姿を変え、都市を奈落へ叩き落さんとしている。


 再牙の心は、既に一つに決まっていた。

 昔の仲間とは言え、どうにもならないことだってある。

 誰に命令された訳でもない。

 紛れもない己の意志で、あの恐ろしき次元操作能力を操る魔女に、立ち向かう心構えを決めていた。


 再牙は、オルガンチノの裾を強く握り締めた。

 火門涼子の忘れ形見。

 持ち主の体格に合わせて身の丈を変える魔性の装束。

 纏えば、いつだって勇気が沸き起こる。


 涼子の下に身を寄せた当初は、まさか自分がこのコートを羽織ることになろうとは思いもしなかった。

 でも、今は非常に重宝している。

 気持ちが弱りそうになった時には、何時だってこのコートが傍にあった。

 涼子の魂が、常に励ましの言葉を送っているような気がしてならなかった。


 力を持つ者は、持たざる者の為に生きなければならない。


 涼子と暮らした五年間。涼子亡き後の五年間。

 合わせて十年間。

 再牙は数多くの経験を積み、学んできた。

 楽しいことも、辛いこともあった。

 その集大成が、彼を一つの頂へ辿り着かせていた。


 不遇の死を遂げた獅子原錠一の遺志を、無駄にするわけにはいかない。

 火門涼子の愛したこの街を、壊滅させてなるものか。


 決意は鋼の如く揺るがない。

 紅蓮の灼熱が内側から静かに湧き上がるのを、再牙は感じた。

 早く彼女を止めなければという想いが迸り、心臓の音を速めていく。


 と、その時だった。

 不意に、建物全体に強い揺れが奔った。

 部屋全体が細かく震え、それが収まらぬ内に、さっきよりも強い振動が襲ってきた。

 壁が崩れる気配は無い。

 しかし、外で何やらこれまで以上に物騒なことが起こっているのは、容易に推測できた。


 次第に揺れが収まり、静寂が戻る。


 そして、今度はドア一枚を隔てた廊下の向こう側から、足音が近づいてくるのを知覚した。

 その足音の主が誰なのか、再牙には考えなくとも大方検討がついた。

 

「十年ぶりの医療ポッドでの寝心地は、どんな感じだい?」

 

 ドアが横滑りにスライドした途端、出し抜けに大嶽左龍がそんなことを口走ってきた。

 頃合いから見て、もうそろそろ目を覚ましていると、当たりをつけていたのだろう。


 灰煙草ミネラル・シガーを吸っている再牙を見ても、注意の一つすら寄こさない。

 遠慮しているのではなく、君の好きにすれば良いという、それは大嶽なりの好意的態度の表れだった。


「最高だな」と、特に最高でもなさそうな調子で言ってから、再牙は手の中で灰煙草ミネラル・シガーを握りつぶし、ぱっぱと手を払った。


「いつまでも寝て居たい気分だった……っと、そんな事より――」


 身を乗り出して確認を迫ろうとしたところを、大嶽の言葉が制した。


「獅子原琴美と、エリーチカ・チカチーロの容態について、だろ? あの二人についてなら、問題ない。既に回復しきっているよ。治療棟ここの二階にある休養室で、今はゆっくりと休んでもらっている」


 全身の力が抜けるような安堵感と共に、再牙は大きく肩を下げた。


「そうか……そいつを聞いて安心した」


「都市の情勢については、全く安心できないんだけどね。事態はまさしく急転直下の最中にあるんだから」


「……どういう意味だ?」


 すっと、大嶽の紫色をした瞳に、真剣な色が灯った。


「バジュラの居場所が判明した。だが、迂闊には動けない」


「動けない?」


 再牙が理由を問い質そうとしたところで、再びの震動。

 さっきよりも大きく、そして長い揺れ。

 体が一瞬、浮いたかのような錯覚を覚えるほどに。


「まさか、バジュラが『あんなもの』を用意していたなんてね」


 心底まいったといった具合に、大嶽がぼやいた。


「彼女は自分の手で都市を破壊しようとしていたんじゃない。邪神の手を借りたんだ」


「邪神……一種の、神降ろしって奴か」


「ああ。今は大禍祓局ゲオルギウスの面々がなんとか対抗してくれているところだけど、相手の名前が分からないから、呪術的決定打を撃てないでいる」


 バジュラ率いるテロ組織の本拠地が分かった以上、大嶽としては一刻も早く空挺艦を飛ばしたいところなのだろう。

 だが敵の拠点を目指して移動している最中に、あの百メートル以上もある邪神に襲われないとも限らない。

 半三次元空間を潜行すればステルス機能が発揮されるが、果たしてそれで、あの恐るべき異形の眼から逃れられるかどうか。

 確固たる道筋が保証できない以上、多くの部下を預かる機関長としては、ゴーサインを出せないでいる。


「邪神の名前が分かれば、対抗策は打てるのか?」


「おそらく。あの怪物は最初から名前があったはずだ。それが現世に出現した際に名を喪失し、その属性を限りない程に拡大解釈してしまっている。ああいう神的・霊的存在との戦いで重要なのは、その属性を取り扱いやすい位置に固定できるかどうかだ。その上で、名前による行動の縛りは有効なのさ」


「なるほどね……邪神か……」


 再牙は顎に手を当て、目元に挑戦的な雰囲気を乗せた。

 大きな障害を乗り越えようとするその独特の癖に、しかし今は、一世一代の賭けに打って出んとする、凄腕の賭博師めいた意志の強さが現れていた。

 自身が持ちうる情報を、どのタイミングで切り出すか。それを見計らおうとしているようだった。


「……邪神ソイツの名前なら、心当たりがあるぜ」


 切るべきカードを、一息の下に切った瞬間だった。

 大嶽の表情に――その鋼鉄と人肌が入り混じった相貌に、驚きと緊張とが同時に稲妻となって駆け抜けるのを、再牙は見逃さなかった。


「嘘じゃないだろうね」


 獲物を前にした肉食獣のような声色。それとは反対に、表情は夜の水面の如く落ち着き払っている。

 再牙の言葉が帯びる真実性がどれほどのものか、見定めようとしているのだ。

 その深い、どこまでも深い紫の瞳から、一切目を逸らすことなく、


「さぁて、どうだか」


 と、敢えてはぐらかす物言いをしてみせた。

 再牙の勿体ぶった発言を受け、しかし大嶽は気分を害するどころか、何かに納得したように小さく顎を引いた。


「なるほど、交渉というわけか。駆け引きとは君らしくもないけど……乗ってみようじゃないか」


 再牙は一拍置いてから、


「俺を戦艦に乗せてくれ。それで、バジュラのところに連れて行って欲しい」


 大嶽にしてみれば、それは意外な科白だったのだろう。

 呆気にとられた様子で、まじまじと再牙の顔を見て、それから、次になんと言葉を発して良いか分からないのか、口をもごもごとさせた。

 常に飄然とした態度を崩さない彼が、この時ばかりは再牙の一言を前に、情けない位に振り回されてしまっている。


 だが、相手が予想外の反応に出てきたというのは、再牙にしてみても同じことだった。

 責任ある立場に就いている人物とは思えない、大嶽の狼狽した態度にわずかな苛立ちを覚えつつ、詰る様にして言った。


「アンタが言ったんだぜ? けじめをつけるべきだってな。この展開は、まさしくアンタが望んだ通りのものじゃないのか?」


「確かにそう言ったけれど……いや、まさか君の口からその言葉が出てくるとは、夢にも思っていなかったことでね」


「信じていなかったのか? 俺のことを」


「まさか。ただ、どこまで信頼を置けるか、正直不安だったのさ。部下の前では、君の事は信頼に値する人物だとは言っていたけれど、それでもこっちとしては半信半疑なところがあって……」


「女々しい野郎だなぁ、オイ」


 右手でドンと己の分厚い胸元を叩き、再牙は朗々と宣言した。


「別にな、お前に言われたからじゃねぇ。これは俺が決めた事だ。バジュラを止めるってのは、この俺の意志だ」


 相手に伝えるというよりも、まるで自分に言い聞かせているかのような言葉だった。


「ソイツを信じてもらえねぇとなると、取引材料は渡せねぇな」


「ま、待った! 分かった。要求を呑むよ……といっても、こっちは願ったり叶ったりで、すごく助かるのだけれど」


「よし、言質は取ったからな。あとで『やーめた!』とか抜かすなよ」


 再牙は少し笑ってから、こめかみの辺りを強く押し込み、電脳を起動させた。


「どこで手に入れたかは教えられないが、こいつはまず間違いなく、この都市を救うための剣になるはずだ」


 電脳回線を通じて、膨大なデータの数々が大嶽の電脳へと送られる。

 獅子原錠一が、その身に深い絶望感を叩き込まれながらもかき集めた、暗黒のデータ群。

 それが今、ようやく一人の万事屋の手で、あるべきところに収まった。

 実に、七年近い歳月を経て。


「……確かに、こいつは剣だ。とんでもない……これは……Xivalver(シバルバー)……?」


 視覚野上でデータを読み込んでいた大嶽が、その違和感極まりない単語を見て、怪訝そうに眉根を寄せた。


「それが邪神の名前だと思うんだが、違うかな?」


「いや、恐らくこれだ」と、大嶽が確信を持った調子で言った。


「シバルバーというのは、古代マヤ文明の神話に登場する『冥界』の名前さ。シキリパット、アハルプー、チャミアパックといった、死を司る神々の宮殿でもある。これがあの邪神が本来持っていた名前となると、なるほど、敵さんも考えたものだね」


「どういう意味だ?」


「神々の固有名詞ではなく、『場所』を示す名前を始めに与えたことで、その行動を抑制させやすくしたんだろう。『場所』は生き物ではないし、動けない。邪神が本来持っていた名前が神の固有名詞ではなかったから、異なる文化の神へ憑依させたとしても、力が反発し合う事もない。だからこそ、神を依り代に新たな神を生み出すなんていう、馬鹿げた儀式が成功したんだ。いや、正確には『神に土地を与えて別種の神へ神化させた』と言った方が正しいか……」


 大嶽はデータを圧縮させると、それを直ちに統合指令本部へと送りつけた。

 直ちに現場へ情報共有させるように、という但し書きもつけて。


「ありがとう、再牙・・


 今まで聞いた事の無い大嶽の澄んだ声を受けて、あからさまに再牙がぎょっとした。


「なんだよ気味悪いな。お前に礼を言われる筋合いはどこにも……」


「いや、言わせてくれ。言わなくちゃならない。我々が、君たち・・・にしたことをの愚かさを思えば……努めて言うが、君に危機を打破する為の剣を授けられたことを、これっぽっちも恥とは思っちゃいない」


「だったら、俺の方からも言わせてもらう」


 オルガンチノの裾を、抱くようにして左手で握りながら、再牙は真っ直ぐに大嶽の目を見据えた。


「お前たちが俺達を騙し続けていたことを、俺は正直、今でも根に持っている」


「……」


「でも……反省もしている。騒乱ストームなんか、起こすべきじゃなかったんだ」


 漏れた声は小さいながらも、それは強かに大嶽の鼓膜を打った。と同時に、彼の太い首が上下した。

 いつものように皮肉めいた口調で言葉を被せることも、相手の心へ無遠慮にも入り込んでくるような発言もしなかった。

 ただ、目の前にいる一人の男が、造られた人生の果てに何を会得したのかを、見極めているようだった。

 それがまるで、自分に課せられた使命であると、背負い込んでいるようだった。


「この都市で生きる上で、暴力は必要だ。でも時と場合というのがある。俺はあの時、何のビジョンも無く、激情のままに力を奮った。多分、行き場のない怒りを発散したかったってだけじゃなく、殻を破りたかったんだろうな」


「殻を……?」


「なんつーのか……自分を縛り付けている運命みたいなものに、抗いたかったんだ。腐る未来が分かっている卵の中に、いつまでも居たくはなかった。殻に包まれたまま、ただ死を待つだけの人生が嫌になった。だから俺は殻を破った。結果として、殻の破り方を間違えたことに遅れて気が付いた」


 再牙は、そこでほんの少しだけ目を伏せた。

 自省するかのように。昔に貰った愛情の在処を確かめるように。


「本当だったら、とっくに飢えて死ぬはずだった。でも、そんな俺を……薄汚れた雛鳥を拾ってくれた人がいた。その人のおかげで、俺は自分の人生を獲得できた」


「火門涼子、だね」


 再牙が、ぎょっとして大嶽を見た。

 どうしてお前がその名を知っているのだ。

 そう口に出す前に、大嶽の、決定的な言葉が場に流れた。


「彼女は、の部下だった女性だ」


 頭をハンマーで殴られた衝撃と共に、目の前の空間が、くらくらと陽炎に覆われたかのような錯視を覚えた。

 しかし告げられた事実を受けてなお、再牙の中で怒りや嫉妬……あるいは、それらに準じる感情は、不思議と湧き上がってこなかった。

 むしろ、脳裡を埋め尽くすは疑問符だらけで、過去の出来事を思い出しながら、完成したパズルを色々な角度で眺めることに努めた。


「あの当時、機関は在野にいる人物の中から、腕利きの者をスカウトする方針を重視していた。二〇二四年……ちょうど、君たちが生まれる一年前のことだよ。新宿で腕利きの万屋として名を馳せていた彼女と接触し、機関に引き込んだのさ。そこから三年間、彼女は僕の手足となって、立派に働いてくれた」


 大嶽の口から吐き出される真実を耳にしながら、再牙は記憶の水底から、涼子との語らいを拾い上げた。

 彼女が、新宿から練馬へ万屋の拠点を移すことになったその間。

 再牙にさえ明かそうとはしなかった空白の三年間が今、白日の下に晒された。


「まさか、あの人が機関ここに……?」


 大嶽の言葉通りなら、練馬に移り住む以前の火門涼子は、蒼天機関ガーデンに籍を置いていた事になる。

 一度も顔を見た事がなかったことから、恐らくは当時、副機関長の立場にあった大嶽の、個人的な仕事ばかりをやらされていたのだろう。

 

 そして時期的に考えると、致死攻性部隊サイトカインの面々が反乱を起こすより以前に、彼女は機関を辞めていることになる。

 一体なぜ――しかし新たに浮かんだその疑問は、すぐに氷解することになった。


「彼女と僕とは、個人的に親密な関係にあったんだ。とは言っても、僕が勝手に彼女の器量に惚れこんでいただけなんだけど」


「……」


 先ほどよりも輪をかけて告げられた衝撃的内容を受け、再牙の心中に一迅の突風が吹付けてきた。

 だが、努めて平静を装った。

 涼子が誰と関係を持っていようが、彼女が再牙にとって『大事な人』であるのは、変わりない。


 傷面は月光に照らされた林のように静かで、再牙は唯々、大嶽の言葉を待った。


「結局、上手くはいかなかった。僕と彼女の関係はそう長いこと続かないうちに破綻して、彼女は機関を出て行き、練馬区に移り住んだ。そこで君と出会ったという訳だ……驚いたかい?」


「まぁな。あの人、練馬に来る前の話はほとんど口にしたことなかったから」


「君に知られるのを、恐れていたんだと思う」


 大嶽の言葉を噛み締めるように、再牙はゆっくりと首を縦に振った。

 自分が機関の人間であると話せば、再牙の精神状態が著しく不安定になると、涼子は危惧したのだろう。


 再牙も当時のことを思い出しながら、果たして彼女に真実を話された時、心に幾ばくのさざ波も立てずにいられたかどうか、確証は持てない。

 彼女に対して不信感を抱きたくはなかったし、何より、そんな感情を抱いてしまっていたかもしれない自分を、きっと許せない。


「この際だ、十二時を回るにはまだ時間があるから、全てを話そう……君たちが騒乱ストームを起こした後、最高枢密院グレート・テーブルの長老たちから、僕を含む機関の上層部に勅命が下ったんだ」


 勅命――その仰々しくも重大性を帯びる言葉は、再牙にしてみれば決していい響きではなかった。


「アヴァロとバジュラ……闘争の果てに逃亡した二人を呼び戻し、洗脳し、再び手足として使うようにと、ね」


「あのロクでもないジジイ共が考え付きそうなことだな」と、再牙は深く溜息をついた。

 大嶽も同意を示すように、顔の左半分だけを苦々しく歪めながら首肯する。


 彼には彼なりの矜持があった。都市を守る者としての、宿命とも呼ぶべき矜持が。

 それと同時に、巨大な組織の歯車として身を動かさねばならない役目も背負っていた。

 どちらを優先するべきか――きっと途方もないくらいに悩んだに違いないと、再牙は思った。


「命令には逆らえなかった。僕はそう時間を要することもなく、君の居場所を突き止めた。まさかそこに、涼子がいるとは思いもしなかったけれど」


「全然気づかなかったな、お前の気配には」


「デッド・フロンティアで、ベヒイモスたちの眼につかないよう行動することを心がけて任務に取り組んでいれば、嫌でも隠密技能は身につくさ」


「口喧嘩の技能は? そっちは磨かれなかったのか?」


 大嶽が、わざとらしく肩を窄めて首を横に振った。


「どんなに言葉を尽くしても、涼子の態度は頑なだった。こちらが幾ら説得しても、君を決してこちら側に渡そうとしなかった。強硬手段に出ようとしたこともあったけれど、流石にそれは……出来なかった。だから、彼女の言葉を信じることにして、長老たちには嘘の報告を上げた。涼子と面と向かって話すより、あの耄碌もうろく共を相手に一芝居打つことの方が、精神的にはずっと楽だったね」


「……なんて、言っていたんだ? 涼子先生は」


 再牙の問いに、大嶽はどこか遠くを見る眼差しになり、古代の石板を読むような調子で口にした。


「あの子の事は、私に任せて欲しい。あの子には、光を与えてやるべきだ。その一点張りだった」


 無意識のうちに、再牙は唇を噛んだ。

 大嶽から伝わった彼女の覚悟と愛情を、胸の中にしっかり押し留めるような態度だった。


 全身が熱くなってきていた。

 自らが立つべき舞台を、しっかりと再牙は意識した。

 その舞台で、自分がどんな振る舞いをするべきなのかも。


「人生は、分からないことだらけだ」


 不意に、そんな言葉が漏れた。


「俺のような人間が今日まで生きて、あんなに優しいひとが交通事故であっさりと死ぬ……不公平だと思った時もあった。けれど、大嶽、アンタからの言葉を聞いて、やっと自覚できた」


 絞る様に、再牙は言った。

 油断すれば、涙が零れ落ちそうだった。


「俺は、生かされているんだ。あの人の意志に」


 それは、彼と同じく人造生命体ホムンクルスとして生み出された殺戮遊戯グロテスクが置かれていた境遇とは、まるで異なっていた。

 彼らは最初からドクターの手で運命を決められ、そのレールから外れないようしっかりと管理された人生を送り、咲き誇る血の海に沈んでいった。

 一切の光を与えられることもなく、ただ暗闇の中に葬り去られた。


「恵まれているんだな、俺は」


「だからこそ、君にはバジュラを止める資格がある」


 大嶽が、硬い眼差しで再牙を見下ろして、言った。


「持つ者と持たざる者……どっちに人生の舵が切られるか、それは誰にも分からない。正しい選択をしたからと言って、正しい人生を歩めるわけじゃない。幸せになろうと努力して、幸せになれるわけじゃない」


「運命ってのは、ままならないものだな」


「だからこそ、人はそれを運命と呼ぶんだと思うよ」


「全くだ。けどよ、だったら運命なんて奴は、さっさと人生のレールから追い出すに限るな」


 すっくと、再牙は立ち上がった。

 その身に、愛情で包まれたコートを羽織って。


「俺はただ、俺の信じた道を歩く。今がその時なんだ」


「……本当に、涼子はいい仕事をしたと思うよ」


 大嶽が、顔の左半分を朗らかに崩した。

 思わず、再牙も控えめに笑った。

 二人の間に、過去の因縁がしゃしゃり出てくる隙間は、わずかほどもなかった。


「もう、時間のようだね」


 時計の針は、ちょうどてっぺんを指していた。


大禍祓局ゲオルギウスの動向を確認後、問題が無いことを確認したら、直ぐに空挺艦を飛ばそう。時間になったら迎えの者を寄こすから、それまでここで待機していてくれ。その恰好じゃ気が引き締まらないだろうし、着替えを持ってこさせるようにするよ」


「それは助かるが、此処にいろってのはちょっとできないな」


 再牙が、オルガンチノのポケットから何かを取り出しつつ言った。


「俺本来の仕事を、先に終わらせなきゃならない」


 古びた黒革の手帳を、これ見よがしに見せびらかすようにして。

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