火門涼子という生き方

「あたし、火門涼子って言うの。よろしくね」


 その日の夜。

 ちゃぶ台に置かれた小料理の数々を半ば無理やり食わせてきた後、女は朗らかな笑みと共に自己紹介をしてきた。


「脳みそに花でも咲いてんのか」


 頭に浮かんだ科白が、そのまま口をついて出た。

 口調は意識して露悪的にしてある。相手の心理に揺さぶりをかけるためだ。

 こちらが悪態をつけば、向こうもムキになって、本来の目的を漏らすに違いないと考えた。


 こちらの読み通り、火門涼子と名乗る女は俺の粗雑な口調に気分を害したのか、わずかばかり顔をしかめた。

 しかし、それも一瞬のこと。

 今度は残念そうに眉根を下げると、大仰に溜息を吐いた。


「悲しいなぁ。折角こうして助けてあげたのに、その言い方はあんまりじゃない?」


「恩着せがましい奴だな。さっきは油断していたからあんな失態を晒しちまったが、勘違いするなよ。俺の力を使えば、お前なんか――」


 軽く威嚇する意味も込めて、能力を発動しようと全身に力を込めようとした。

 だが、何も起こらなかった。それどころか、うなじの辺りに激痛を覚える始末だ。

 金属片の尖った部分で神経を引っ掛かれたような。

 次第に額に脂汗が浮かび、若干の息苦しさも覚えた。


「まだ回復しきっていないんだから、無理しないで」


 女が慌てた様子で俺の傍へ近寄ろうとする。


「黙れ」


 片手で制する。近寄らせてはいけない。

 他人に隙を見せたら、今度こそおしまいだ。


「いい加減にしろ」


 こちらを労わるような表情を崩したくて、ぶっきらぼうな調子で言った。

 だがそれでも、女は怯えや怒りといった感情からは遠く離れた目で、俺を見つめてくる。

 その殊勝臭い態度が、ささくれ立った俺の神経を無性に逆撫でてきて仕方なかった。


「何時まで化けの皮を被っているつもりだ!」


 たまらず大声を上げた。相手の心理に揺さぶりをかけるという当初の目的が、女の瞳に絡めとられているうちに、何処かへ吹き飛んでいった。

 激情が駆け巡り、怒りの螺旋が形成されていく感覚があった。

 女を前にしているというのに、それは特定の誰かに向けたものではない。

 むしろ、この不条理な世の中へ向けられた憤怒と言って良かった。


「お前の正体には見当がついてんだよ! どうせ機関の差し金だろう? 俺を保護すると見せかけて、すぐ近くに仲間たちを配備させているんだろうが! わかった、いいぜ。やってみろよ。俺を殺してみろ! テメーらの造ったおもちゃを、テメーら自身でぶっ壊すんだよ!」


 口から出る歯止めの効かない無茶苦茶な暴言の嵐に巻かれて、己の理性すらも感情の渦巻きに呑まれかけた時だった。

 言葉の嵐を掻い潜るかのように、女が急に、俺の背中に細い腕を回してきた。

 それは、これまで一度も経験したことがない、力強くて暖かい抱擁であった。


「ちょ、おま――」


 突発的且つ予想外の行動に、どう対応して良いか分からない。

 だが、そんなことは考えなくても良いのだと訴える様に、女は俺の背中を優しくさすりだした。

 抵抗できなかった。戸惑いだけが、怒りで穿たれた心の隙間に潜り込んできた。


「大丈夫だからね」


 心なしか、女の声が震えていた。涙声のようにも聞こえる。

 実際に涙を流しているのかどうかは、分からない。

 そもそも、女が俺の為に涙を流す理由が思い浮かばない。


「貴方の事は、知ってるわ。ニュースで何度も見たことがあったから」


 女の手がリズムを刻んで俺の背中を叩く。

 すると自分でも不思議だったが、あれほど燻っていた怒りの炎が、まるで女の手の平に吸い込まれていくかのように、みるみるうちに落ち着きを取り戻していったのだ。


「私は貴方を信じてる。貴方が、ニュースで報道されているようなことをする人じゃないって。だから、お願い」


 女はゆっくりと俺から体を離すと、真っすぐにこちらの瞳を見つめ、唇を動かした。


「私のことも、信じてほしいの」





 △





 火門涼子に俺が『介抱』されてから、三ヶ月が経とうとしていた。


 ガラス窓から差し込む昼の光を浴びながら、俺は簡易ベッドの上で胡坐を組み、考え込んでいた。

 今の、この状況が正しいのか、それとも間違っているのかという点について。

 俺の中での判断基準は、常にそれだった。

 正義か悪か。正しいか正しくないか。この世には、そのどちらにも分類されないグレーな部分が多い事を理解しつつも、強制的にどちらか一方の領域へ投げ込んできた。


 だが今回のケースをどちらか一方に仕分けする作業は、実に困難を極めた。

 火門涼子が俺を助けた理由について正しい解答を導き出せない限り、この状況を良いものとして受け止めていいのかどうか、判断を下せないでいた。


『俺を助けて得することなんて、何一つないはずだ。なのにどうしてアンタは俺を匿うんだ』


 こういった類の質問を、俺はこの三ヶ月間に渡ってしつこいくらいに繰り返し尋ねた。

 でも、上手い具合ににはぐらかされるのが常だった。

 火門涼子はこちらの問いかけに対し、明確な答えを寄越さなかった。

 ただ、ニコニコと笑顔を浮かべるだけで――何も心配しなくて良いと、無言で告げてきた。 


 本当に変わった女だと思う。

 自他共に認める俺の凶悪な面構えを見ても、なんてことない顔でいやがる。

 大体のやつらは、俺が致死攻性部隊サイトカインの一員であるということを知りながらも、怯えたようなぎこちない笑みを接してきた。

 それも、生まれつき宿している顔面の刀疵の印象と特殊な出自ゆえと考えれば、納得がいく。

 きっとそれは、普通の人間が俺のような存在を前にして見せる、ごく当たり前な、正しい反応なのだろう。


 なのに、あの火門涼子とか言う女だけは、この顔の疵を前にしても特段なんとも思わずに俺に話しかけてくるのだ。


 そして奇妙な事に――自分でも全く不思議に思うが――アイツと会話をしていると、どうしたわけか心が落ち着いた。無意識のうちに、自分が帰るべき場所に帰ってきたような安心感を覚えてしまう。


 だがその一方で、拭いきれない不安もあった。

 もし、彼女が俺に対して嘘をついていたら?

 本当は機関側のスパイで、俺を油断させるために芝居を打っているのだとしたら、どうだろうか。

 考えるだけで肌が粟立つ。断崖絶壁に立たされて、背中を強く押されるかのような恐怖感だ。


 彼女を斃す事が困難だからというわけではない。

 彼女がもしも俺を裏切っていたら。俺に嘘をついていたのだとしたら。

 本当に二度と誰も信じられなくなるであろう孤独な未来が、ありありと想像出来たからだ。


「なぁ」


 俺は窓から差し込む太陽の眩しさから目を逸らして、部屋の片隅でうずくまるようにしている『もう一人の同居人』へ視線を向けた。


「なぁちょっと。訊きたいことがあるんだけど」


 同居人はこちらの声など聞こえないとばかりに、一冊の写真集に没頭していた。

 子猫達を特集した、紙ベースの写真集。骨董品だ。

 今の時代に写真集と言ったら、立体映像ホログラフィックが主流だろうに。


「おいってば。聞いてんのかよ」


「…………」


 だんまりを決め込んでいる。まだ、俺に心を許しちゃいないんだろう。

 そう、それが普通の反応だ。

 何せ、俺は蒼天機関ガーデン機関長暗殺未遂事件の最重要容疑者で、指名手配犯という事になっているのだから。

 火門涼子が、アイツが特別なだけだ。

 しかしだからと言って、この無口な機械仕掛けの同居人の口を割らせる方法が無いわけではない。


「……ピュグマリオン・コーポレーションの秘蔵っ子。『重機よりも人間よりも良く働きます』がモットーの、当代最高の《ガラテイア・シリーズ》に名を連ねる、超優秀にしてアフロディーテも裸足で逃げ出す程の美少女アンドロイド、エリーチカ・チカチーロさん。貴方様に一つ御聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」


「はい。何ですか?」


 白磁めいた肌のアンドロイドは、不愛想とも無感情ともつかぬ顔で、ようやくこっちに視線を合わせた。


「ちょいと訊きたいことがあるんだけどよ」


「何が目的で火門涼子は俺を助けたか――訊きたい内容とは、そんなところですか」


「驚いたな。ガラテイア・シリーズには読心能力リーディングでも付与エンチャントされてんのか?」


「ここ最近の貴方の様子を伺っていれば、それくらいの事は赤ん坊でも察しがつきます」


「赤ん坊でも可能かどうかはさておくとして、なぁ、どうしてだ? なんでアイツは、俺を何時までもこの場に置いておくんだ」


 エリーチカは答えない。

 彼女は写真集から視線を外すと、その能面のように無感情な貌で、じっと見つめてきた。

 こちらの心を見透かすかのような、紺碧の瞳。

 気のせいだろうか。そこに若干の否定的な感情が垣間見えたのは。

 質問に対する回答は己自身で見つけるべきだと、そう訴えているように思えてならない。


「……気が付かないものでしょうか」


 呟くようにして、エリーチカが言った。


「何が?」


「何でもありません。今の言葉は忘れて下さい」


 それ以上何かを聞かれるのを拒むように、彼女は俺から視線を外すと、再び写真集へと視線を転じた。

 壁に掛けられたアナログ時計の刻む音を耳にするたびに、エリーチカとの精神的距離が遠ざかっていくように思えた。きっと、錯覚なんだろうが。


「あの人が貴方を助けたのは、あの人が万屋だから。そういう回答じゃ、納得いきませんか?」


 万屋。

 今や幻幽都市においてメジャーな職業になりつつある、女には向かない職業。

 火門涼子はそれを生業として日銭を稼いでいた。

 助けられた日の晩に、そう教えられた。


「万屋がどういう職業なのかは、俺も曲がりなりには知っている。慈善事業じゃないんだ。こっちは助けて欲しいなんて一言も口にしてない。それなのに、彼女は万屋だからって理由だけで、俺を助けたってのか」


「あの人は、そういう人なんです。困っている人を見ると、放っておけなくなる」


「職業病ってやつか」


「いえ、それとは似て異なるもの。元からの性格がそうなんでしょう。そこに金銭的対価が無くても、自ら進んで助けに向かう。そういう性格の持ち主だからこそ、同業者の間では変人扱いされているようです。私としては、大変遺憾な評判なワケですが」


 なるほどな。そりゃあ確かに変人だ。


 女が万屋をやるというだけでも目立つ話だというのに、金銭に対する執着が殆ど無い。変人を通り越して、もはや異常と言っても良いだろう。

 お金にならない仕事でも、きちんとこなす。そんな生き方があったなんて、今まで知らなかった。

 俺が暮らしていた世界では、物事を進める上で見合った対価は必ず存在したし、皆がそれを重要視していたからだ。


 十分な金銭的対価が貰えずとも仕事はやり遂げる――そんな生き方、どう考えても不器用で要領が悪い。

 誰だって、己の仕事ぶりに見合った金銭を欲しがるに決まっている。

 人間も人造生命体ホムンクルスも、そういう生き物だ。

 俺はそう学んだ。あの白い巨塔の地下で『人間とは何か』という事について、教え込まれた。

 もし、その考えが必ずしも正解ではないのだとしたら、彼女は『何の為に』万屋をやっているというのだろうか。


「あの方は、とても優しい人です」


 エリーチカが、壁に視線を向けて言った。

 本来なら、いつもそこに掛けられているはずの衣服――仕事の時にだけ、火門涼子が着用する黄色のジャケット・オルガンチノ。

 今はハンガーだけが律儀にも、主人の帰宅を待っている。


「冷蔵庫や電子レンジと何ら変わらない、ただの家電製品として社会で認知されている私のような者でも、家族同然に接してくれる。そればかりか、こうして暖かい家に住まわせてくれている。誰にでも出来ることじゃありません」


「お前、何が言いたいんだ」


「きっと涼子先生は、貴方に学んで欲しいのだと思います。貴方がそれを学び取るまで、ここに置いておくつもりなのでしょう」


「学ぶって……万屋の仕事をか?」


「いえ」


 エリーチカは、再び俺の方を見て、言った。


「生き方を、ですよ」





 △





「どうして私が万屋をやっているのかって?」


 夜。仕事を終えて帰ってきた火門涼子と一緒に夕食を取りながら、ためしに聞いてみた。

 エリーチカは既に電源を落として就寝している。横やりが入る心配ないし、今しか聞けるチャンスはなかった。


「俺の知っている範囲で話すなら、万屋なんてのは金の亡者だ。世間一般も同じ認識だろう。金さえ用意すれば、奴らは平気で人を殺す……中には、自ら進んで犯罪シンジケート専門の万屋を名乗る奴もいる始末だ。奴らは、金の為なら平気で人を殺す」


 そういった奴らを血肉の塊になるまで徹底的にぶち殺すのも、俺の仕事だった。

 金に意地汚く、自己中心を体現化したかのような人種。それが万屋の本質だ。

 悪党の片棒を担ぐような悪しき存在を殺すのに、良心が痛むほど都合よく出来ちゃいない。


「アンタのような万屋を見るのは、初めてだ」


 箸を置いて、火門涼子に向き直った。

 涼子は料理に箸を伸ばすを止め、こちらを見つめた。


「仕事から帰ってきたアンタからは大抵、血の匂いがしない。今日もそうだ。仮にしたとしても、ほんのごく僅か。俺が今まで関わってきた万屋連中とは、大いに異なる。奴らの体からは、鼻がひんまがるくらいの濃い血の匂いがしていたからな。殺人に手を染めている何よりの証拠だ。あんたにはそれがない。つまり、少なくとも『人殺し』はしていない。せいぜいが重傷を負わせるくらいのものだ。当たってるか?」


「正解だね。それにしても血の匂いが分かるなんて、キミ、なんだか犬みたいだね」


「能力のおかげだ。それにエリーチカからはこうも聞いた。アンタは金銭的対価にそぐわない依頼内容でも率先してやると。なんでだ? 人が仕事をするのは金を稼ぐ為じゃないのか? 金にならない仕事をして、一体それが何になるって言うんだ。無駄じゃないか、そんなのは」


「ちょっと違うと思うな。やりがいっていうのも、仕事をやっていく中で大事な要素の一つだよ。それにお金を沢山稼いだとしても、決して幸せになれるとは限らない」


「何をバカげたことを」


「馬鹿げたことかなぁ?」


「馬鹿げてるさ。金があれば何だって買えるだろう」


「何だって買えるかもしれないけど、何でも買えることが幸せかどうかは分からないよ。物欲を満たす事を、私は幸せだとは思わないなぁ」


 彼女の言葉と行動には、矛盾が見られなかった。

 身の振る舞い方を見ていれば、一目瞭然だ。

 こんな練馬区の安アパートを住処にしているだけでなく、調度品はどれも安物で、家具の類も格安の品ばかり。

 どうやら生活に必要な最低限のものだけあれば、それで満足ということらしい。


 だからと言って、売れない万屋の痩せ我慢には聞こえない。

 不覚を取ったとはいえ、彼女は俺を投げ飛ばして床に伏せさせてしまうほどの実力者だ。

 エリーチカの話では名前もそこそこ売れているようだし、依頼を寄こしてくる人も多い。


 商売は繁盛しているのだ。それなのに、この質素な生活。

 驚きを通り越して呆れ返ってしまう。


「例えるなら、お金っていうのは遊園地の入場チケットだよ」


「チケット?」


「そう。あれば良いに超したことはないけど、持ちすぎても扱いに困る。結局、ほどほどが一番良い。まぁ無かったら無かったで、別に問題ないってね。そんなもんなんだよ、お金なんてのは」


「ふん……」


 どうにも会話の主導権を握れない。自分で言うのも変な話だが、こんなケースは珍しい。

 大体の場合、こちらが威嚇したり脅したりすれば、相手は怖気づきながらも情報を全て吐き出してきた。今まではずっと、それが当たり前だった。

 でも、この女にはきっと、そんなやり口も効かないんだろう。

 そう思ってしまうだけの泰然自若とした静かな覚悟が、彼女からは感じられた。


「ねぇ、そっちばっかり質問してズルイよ。私にも聞かせてよ」


「何をだよ」


「キミの話。例えばさ……好きな食べ物とか知りたいな」


「なんだその質問。ふざけてるのか」


 俺が眉をしかめると、彼女はちょっと不機嫌そうに小鼻を鳴らした。


「難しい話や、真面目な話ばかりしてると、人生楽しくないよ。あ、そうだ」


 唐突に両手をパンと叩くと、何が面白いのか。彼女はとびきりの笑顔を向けながら、やや早口で聞いてきた。


「最近大通りの近くにできた、聖菓堂ってお店、知ってる?」


「知るわけねぇだろ」


「パン屋さんなんだけど、そこのカレーパンがすっごく美味しいの」


「ああ、そう。そりゃよかったな」


「今度買ってきてあげるから、食べてみてよ。きっと気に入ると思うよ」


「分かった分かった……で、話を元に戻すとだな」


 コップに注がれたソリッド・コーヒーを一息に飲み込み、話の路線を元に戻す。


「アンタ、さっき言ったな? やりがいも、仕事を続けていく上で大事な事だと。それはきっと、金よりも大事なものなんだろう。教えてくれ。アンタにとって、やりがいとはなんだ」


「決まってるよそんなの」


 あっけらかんとした顔で、火門涼子は当然の様に言った。


「困ってる人を助けたい。ただそれだけの為にこの仕事を続けてるの」


「……俺を助けたのも、もしかしてそれが理由か?」


「うん」


「本当に?」


「本当だよ。傷ついている人を見て見ぬふりなんて出来ないよ。でもさ、それってキミも同じなんじゃない?」


「何?」


致死攻性部隊サイトカインって言ったっけ、キミの所属していた部隊」


「……ああ」


「キミがそこの部隊にいたのも、人助けの為だったんでしょう?」


 彼女の何気なく放ったその一言は、何処か遠くの海で不意に鳴り響いた、さざ波に似ていた。

 まるで反響音のように、胸の内に木霊する問いかけに直ぐには答えらず、俺は黙って俯くことしかできなかった。

 以前の俺ならば、もっと違う反応を示しただろう。自信をもって胸を張り『そうだ。人助けこそが俺の生き甲斐なんだ』と断言したに違いない。


 今でも、その思いは確かにある。数字が全てを物語っていた。

 致死攻性部隊サイトカインの昼夜を問わない働きもあって、都市の犯罪率は格段に低下したし、治安も良くなった。どのメディアも、そんな報道を繰り返していた。

 それを耳にするたびに、俺はますます確信を強めていった。

 自分のやっていることの正しさを。正義の道を歩いているのだという自負を。


 ――――だが、本当にそうだったのだろうか。


「分からねぇよ。俺には」


 聞こえるか、聞こえないかの声量。深く息を吐いて、おもむろに顔を上げる。

 火門涼子の、何とも言えない瞳の色が目に入った。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、憐れんでいるのか。

 あるいはまた別の感情が込められているのか。


「いい人生を送れると思ったんだよ。正しい行いを続けていれば、幸せが掴めるはずだって。そう、教えられてきたからな。でも、そんなのは全部、嘘っぱちさ。所詮は、利用されるだけの人生だったわけだ」


 他人に向かって弱音を吐くなんて、今日の俺はどうかしてる。

 今までこんなことは一度たりとて無かったのに。

 この女を……火門涼子を前にすると、感情の波が押し寄せてきて、留めることが出来ない。


「正しさも、幸福も、どちらも手に入れたい……か。欲張りだねぇ」


「悪いかよ」


「悪くないよ。寧ろ全然、普通の事だと思う」彼女は続けて言った。「誰もがそうなんだよ。こんな街だからこそ、皆が正しい道を歩みたがっているし、幸せを掴みたいと願っている。悪事を働いている人たちだって、きっと思いは一緒なんだよ」


「それ、どういう意味だ?」


 聞き捨てならない科白だ。まるで、悪人の肩でも持つかのような。


「キミさ、私のことを『変人』だと思ってるでしょ」


 屈託の無い表情でそんなことを言われたから、返答に窮してしまう。

 そんな俺の反応を『図星』と見て取ったのか、火門涼子はゆっくりと、一つ一つの言葉を丁寧に紡いでいくように話を続ける。


「私にも、その自覚はあるんだ。万屋は高額な依頼料を支払わないと動かないってのが常識になりつつある中で、馬鹿みたいに格安の値段で依頼を受けている。加えて、一番金が稼げる殺人案件に一つも手を出さないなんてどうかしてる。同業者に、白い目で見られることもある」


「それは、アンタが金を稼ぐ事を第一としていないからだろうが」


「それもあるけどね。でも、一番の理由は違うの。人を殺したくないのよ」


「なんだよそれ……例えば殺しの標的が、人の命を奪うのに一切の躊躇も無い、世間の恨みを百パーセント買っている、絶対に許しがたい殺人犯であってもか?」


「うん、そうだね。その人を殺して欲しいって依頼が来ても、私はそれを丁重に断るだろうね」


 逡巡することも無く、火門涼子は首を縦に振った。

 心の底から驚愕して、ますます声を詰まらせてしまう。

 何だその生ぬるい考え方は。そんな甘いやり方で、よく今日まで生きてこれたもんだ。


「なんでだよ。殺しちまえばいいだろうが。相手は極悪非道の犯罪者。生かしていい事なんて、一つも無い」


「社会に与える影響の話じゃないんだよ。人の生き死にっていうのは。たとえ悪人だろうと、そうなってしまったきっかけというのは、誰にでもあるものなんだよ」


「それに関係しているのが、さっきアンタの漏らした、正しさと幸福だって言うのか?」


「良く気が付いたね。その通り。さっきも言ったけど、人は誰だって、正しくもありたいし、幸せでありたいと願う生き物なの。ううん、人間だけじゃない。最近巷で話題になっている人造生命体ホムンクルスや……」


 火門涼子は一旦言葉を区切ると、既に活動を停止して壁に背中を預けているエリーチカに視線を寄越した。


「エリーチカちゃんのようなアンドロイドも一緒。知性を持つ生命体は誰しもが、正義と幸福を求めている。でも、そのどちらも手にすることって、すごく難しいんだよ。どうしてだか分かる?」


 答えにくい質問が飛んできた。直ぐに回答が出ず、「分からない」と素直に答えると、彼女は俺へと向き直り、こんな例え話を始めた。


「例えばね、ある会社で一つの企画を通そうとする人がいました。企画の立案者を仮に『山田さん』とします。その企画は、成功すれば莫大な利益を会社にもたらすけれど、失敗すれば社のイメージダウンにも繋がる。失敗するか成功するか、確率は五分五分。まさに、一世一代の賭けってやつだね。で、山田さんにとっては、この企画を上層部に認めて貰って成功させることこそが、自分が取るべき『正しい行動』だと認識していたし、同時に、利益を上げて自分の評判を良くすることが、自分の『幸福』に繋がるとも思っていた。だけれど、失敗した際のリスクを恐れるあまり、会社のイメージを崩したくないって意見の人達が団結して、山田さんの仕事を邪魔しにかかる。さて、仮に君が山田さんだとしたら、どうする?」


「そりゃあ……まずは反対する人達を説得するだろうな。企画が成功することのメリットについて、あれこれ話して協力してもらう」


「そうだね。それが理想だね。でも、人を説得するのって、物凄く体力のいることなんだよ。時間もすごくかかる。頭ごなしに否定してくる人達相手ならなおさらね。その人達一人一人を相手に、じっくり、丁寧に企画を進める事の重要性を、自分が正しい道を歩んでいるんだと胸に誓いながら、説明を続けなきゃいけない。きっと、長い長い時間がかかるだろうね。周囲との軋轢は増すばかりで、会社での居心地も段々悪くなっていくかもしれない。そこで説得に失敗したら、言わずもがな。信頼を失った山田さんは窓際に追いやられ、『幸福』な人生から遠のいてしまう」


「でも、成功したらどっちも手に入るんだろう?」


「いや、そうとも限らないよ。確かに企画を成功したら、彼の『正しさ』は証明される。でも、そこまでに費やした精神的・肉体的労力はかなりのものだよ。疲れ果てて仕事に対する熱意を失くしてしまうか、家庭を顧みないワーカーホリックになってしまっている可能性も大いにある。それに、彼が成功したことを嫉んで、いらぬ妄言を流布されることも、あるかもしれない。つまり、穏やかな人生を送れなくなってしまうってこと。これって、幸福とは言い難いよね」


「……ああ、なるほど」


 彼女の言いたいことが、なんとなく理解出来た。


「つまり、正しさも幸福も求めようとすると、人の心は正常なバランス感覚を失ってしまうという訳か。二兎を追う者一兎も得ず。虻蜂取らずって感じで」


「バランス感覚を失う。まさにそうだよ。犯罪を犯す人も、結局はどちらも求めようとして、何処かで歯車が狂ってしまった末にそうなってしまっただけで、元々は私たちと変わらない、ただの普通の人。そう考えれば、全人類が犯罪者予備軍なんだよ。誰だって、ちょっとしたミスがきっかけで、犯罪に手を染める。正しさも幸福も、どちらも手に入れようと足掻いた末にね」


「でも……犯罪者を野放しにしておくことは許しちゃいけない」


「私だって、罪を犯す人達の行動を肯定しているわけじゃない。そういう人達を懲らしめてやるのも、万屋の仕事の一つだしね。ただ、流石に個人的制裁の結果として、彼らを殺すのは間違ってるって思うの」


 俺がいた部隊とは真逆の考え方だ。

 そもそも致死攻性部隊サイトカインが結成された理由は、手っ取り早く治安を回復させたいという機関側の意志が働いたからこそだ。

 法廷における裁判制度では、犯罪者一人一人を裁くのに時間が掛りすぎる。俺を始めとする部隊員一人一人に犯罪者への生殺与奪権が与えられたのは、この問題を解決する為だ。


 機関に仇為す者は、理由を問わず即刻殺害。

 それは絶対的なルールとして、常に頭の中に棲み付いていた。

 行き過ぎた権力を握りしめていることを自覚もせずに、俺は今まで何の疑問も無く力を行使してきた。 


 ただ、与えられた指令を忠実にこなし、自らの拳で死体の山を築き上げていく。

 それだけで、ただ満足だった。

 誰かの声に盲目として従っていれば、幸せを手に入れられると思っていた。


 果たしてこれからも、そんな生き方のままでいいのだろうか。

 俺は、俺の望むがままに、都市を守っていたのだろうか。

 ただ、他人に命令されたから、そうしてきただけじゃないのか。


「だから、キミには」


 芽生え始めた疑問の蔦に思考が絡め取られていたところで、現実の声が呼び覚ます。


「もう、誰も殺さないで欲しい。例え、相手が許しがたい悪人であっても」


 火門涼子の瞳に、俺は確かに哀しみの色を見た。顔の疵が疼いて、たまらなかった。

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