第三幕 向き合う姿勢/都市の人々
3-1 都市社会の光陰①
幻幽都市の『四大発展区』に名を連ねる新宿区を、鉄の珊瑚礁と形容する者は少なくない。 しかし、それら鉄の珊瑚礁が――幻幽都市の象徴の一つたる
中央新西口方面で最も異彩を放っているのは、先端部が四角錐の形に尖った、細長い塔のような建物。
堅苦しく、それなりの社会的地位にいる者達しか出入りの許されないこれら多くの高層建築物に混じって、タワーマンション群もちらほらと点在していた。
都市に選ばれたと自負する上級都民の住み家。マンションの周辺には一つの例外もなく、防護用のフェンスが張り巡らされていた。うかつに触れると高圧電流が流れる仕組みになっていて、しかも流すべき者とそうでない者とを、きちんと区別していた。
マンションの生命認証管理データに未登録の強盗集団。貧富の格差を暴力的手法で解決せんとマンションを襲撃する者たち。そういった輩に、フェンスは威厳と傲慢さを伴って、電撃の鉄槌を振り下ろしてきた。
社会的ステイタスに恵まれた一部の都民の安心と安全。それを徹底して保証せんとする中央新西口方面に比べて、中央新東口方面は、大衆の普遍的な欲望を満たす要素でいっぱいだった。
役者の心境を疑似体感できる
午後を迎えて益々人通りは多くなり、娯楽施設が提供するサービスを友人や恋人と楽しむ都民の声が幾重にも重なり合い、喧騒となって琴美の耳を突っついた。
雲一つない快晴の下、慣れない賑やかさに当てられたせいだろうか。琴美の表情に疲れが見え隠れしているのを、隣を歩く再牙が目ざとく気づいた。
「大丈夫かい?」
歩道を歩きながら、再牙は少し腰を屈めて、気を遣うように自身の目線を琴美に合わせた。彼の服装は決まっていつも通り。異次元ポケットを内蔵したコート・オルガンチノの下に黒い薄手のパワード・ウェアを着込み、紺色をした細身のフレキシブル・ジーンズを履いているという出で立ちだ。
「すいません。私、ちょっとこういう人混みには慣れてなくて……」
申し訳なさそうに、琴美は小さく頭を下げた。袖レースのついたロング丈の白Tシャツに、薄っすらと汗が滲んでいる。
「少し、あそこで休もうか」
再牙はそう言って、旧靖国通りから外れたところにぽつねんと佇む、小さな公園を指差した。他に休めそうな場所は、そこ以外に見当たらなかった。
二人は、人気のまばらな公園へ足を踏み入れた。再牙がポケットからハンカチを取り出し、近くにあったベンチに敷いて、そこに腰かけるよう琴美を促した。
彼の見せた行動は、依頼者の心象を良好に保つ手段の一つに過ぎない。だが、琴美にはそれが有り難かったようで、控えめに微笑んでからベンチに腰を下ろした。
「飲み物買ってくるよ」
再牙はその場を離れると、公園内の自販機で飲料水のボトルを二本購入。片方を琴美に差し出して、彼女の隣に座った。ボトルの側面には《貴方、超絶麗しいですわね》と、誰に向けたものか分からないキャッチコピーが大量にプリントされていた。
おかしな飲料水だと思いながら、琴美はキャップを開けてボトルに口をつけた。
「……これ、美味しいですね」
率直な感想が口の端から漏れた。ボトルの中身はただのミネラルウォーターだったが、水とは思えぬほどの深い味わいを舌の上に感じたことに、琴美は驚きを隠せなかった。
「一見ただの水に見えるけれど、実はちょっとした工夫が仕掛けてあるんだ」
再牙はそう言って浴びるように水を飲むと、口元を手の甲で拭った。別に自分が開発したわけではないのに、どこか自慢するような口調なのが、琴美には少しおかしく思えた。もちろん、良い意味で。
偶然的な出会いから始まって三日間が経過した今、琴美はほとんど理解しかけていた。この火門再牙と名乗る万事屋は、顔に刻まれた刀疵の印象が強すぎるせいで凶悪な風貌をしているが、心根まで凶悪なわけではないことに。むしろ、気遣いに溢れた彼の人柄を羨ましく思った。
だからだろう。緊張の糸がするりと解けるのを実感し、意識せずとも自然と話しかけることが出来た。
「工夫って、どんな工夫ですか?」
「『水からの伝言』って話、聞いたことないかい?」
再牙は言って、ボトルの側面にプリントされた、あの奇妙な文言を指差した。その動作ひとつが引き金となって、琴美は小さい頃に読んだ、とあるオカルト本の内容を思い出した。
「ペットボトルにマジックで感謝の言葉を書くと、水が美味しくなるっていうあれですよね。でもあれって、確かエセ科学じゃあ……」
「エセじゃない。れっきとした『オカルト科学』だよ。言霊が水分子の配列に影響を与えて味が変わる。
至極当たり前の事を口にしたという素振りで、再牙は再びボトルに口をつけた。それがルールなのだと、暗に告げているようだった。
都市のルールとはつまり、法則のことを指す。一見して荒唐無稽に思えるオカルトの数々にも、実は隠れた法則が存在することを、都市の科学者たちは突き止めたのだ。
なぜ、その現象が起きるのか。どうしてそのような行動を取るのか。
超常現象や怪異といった類をかき集めては、とにかくしらみつぶしに研究した。数々の奇々怪々をデータとしてまとめ、前後の因果関係を紐解き、それを人間に理解可能な形式――すなわち『数式』として再構築してみせた。
そうして、幻幽都市の屋台骨は、ものの数年で完成を見るに至った。オカルトと数式を混ぜ合わせた末に誕生した、このうえなく奇怪にして実用的な技術。それでいて、下手に取り扱えば全てを台無しにする現代の魔術が。
そんな魔術発動の力場となっている幻幽都市こそ、本物にして最上のオカルトだ。都市の支配域に囚われてしまえば、どんな超常現象であろうと突拍子もない理屈の下に解明され、再現することだって可能となるのだから。
果たして父は、そんな魔界めいた都市に、どんな目的があって足を踏み入れたというのか――
脳裡に悪寒めいた感覚が過ったが、それを振り払うように、琴美はぎこちない笑顔を浮かべて再牙の方を向いた。無理にでも話題を変えようと頑張った努力の痕跡を、そこに見ることができた。
「それにしても、本当に人が多いところですね、新宿って。私、ちょっとびっくりしちゃいました」
「申し訳ない。無理矢理付き合わせてしまったみたいで」
再牙は、それこそ本当に済まなさそうに眉を下げた。彼は、琴美が無理をして話題を変えたことの理由をそれとなく悟りながらも、依頼者である彼女の心を労わることを忘れなかった。
「今日会う予定の奴が面倒くさい男でね……仲介者からじゃなくて、必ず依頼者本人から事情を聞くことをポリシーにしているんだ。だからどうしても、君に同行してもらう必要があったんだが……」
「別に構いませんよ。アパートにいたって、特にやることなかったんですから。そういえばまだ聞いていませんでしたけど、今日会う予定の人ってどんな方なんですか?」
「捜索屋って職業に就いている男だ。業界での通り名はフリップ・フロップ。文字通り、
「捜索屋って、もしかして行方不明者や、失くし物を探す人のことですか?」
「その通り。万事屋みたいに『なんでもこなす』ってタイプじゃなくて、『捜索』っていう一点に特化したタイプだ。どっちもこの都市において、なくてはならない存在さ」
そこまで話を聞いて、琴美が怪訝な表情を浮かべた。確かに捜索屋という存在は、生死不明な人物を探すのにはうってつけの職業だろう。しかし、今回のような『死者の足跡を辿る』といった場合でも頼って良いものなのだろうか。
「まぁ、実際に行ってみれば分かるよ。それと、これは俺からのお願いなんだけれど、聞いてくれるかい?」
「何ですか?」
「捜索屋に事情を説明する時は、君の口から彼に直接話して欲しいんだ。三日前の晩に、俺に話してくれたように。そうしないと、納得しない奴なんでね」
その捜索屋とか言う人物は、あらゆる物事に意味を求めたがる人なのだろうかと、琴美が感じた時だった。納得しない奴、というワードが彼女の頭の中で反転し、威圧的というイメージへ翻った。そうして、反射的に再牙へ問い質していた。
「その人って、もしかして結構怖い方だったりします?」
「見た目はね。性格は怖いっていうより、とにかく気難しい。さっきも言ったように、どこまでも
「……ちょっと心配です。私、人と会話するのが結構苦手な性格をしているので……」
目を伏せて呟くような告白の後、琴美は自身の体の内側から、痛烈な視線を向けられているのを実感した。中学時代のクラスメイトや、学校関係者、それに親戚連中の顔が、冷たい質感を湛えて毒を吐くように湧き上がってきた。
彼らのうち誰一人として、父を失い、病弱だった母の介護で精一杯だった琴美の心情を理解しようとはしなかった。彼女に対して真心を以て接する努力を怠り、ついには放棄した。しかしながら、琴美が彼らの存在を恨めしいと思ったことは一度もなかった。ただ、途方もなく哀しいだけだ。
父の失踪をきっかけに崩壊した日常。それは、二度と振り返りたくはない黒い歴史だった。まさしくパンドラの箱も同然だった。そうして箱の奥底には、目も背けたくなるような囁きだけが残っていた。『お前は誰かに愛されなければ、誰かを愛せないのか』という、痛烈な問いを含んだ囁きだった。
あの呪詛めいた囁きを思い出すたびに、琴美の心はじっと沈黙を保ち、殻の中へ逃げ込むのだ。いつだってそうしてきた。辛い現実を認識するのが、たまらなく嫌で。
だというのに、今は違った。薄くリップの引かれた唇は意思とは裏腹に勝手に動き、過去を語るのをやめようとはしない。
「友達もいなかったし、学校の先生も、正直言って信用できませんでした。私、臆病でずるいんです。自分が不用意に口にした言葉で相手が傷ついたらどうしようとか、私が話しかけるのを嫌がったりしないかなとか、そればっかり考えてしまうんです」
乾いた笑いを浮かべながら、琴美は自分でも不思議に思った。
彼女は決して、同情を誘いたくて身の上話をしているわけではなかった。だからこそ説明がつかなかった。自分の心の動きに。
再牙の、フラットに接しようとする態度が、そうさせているのだと思いたかった。実際のところ家族を除いて、琴美が《外界》で出会ってきたどんな人間より、再牙は彼女の心と真剣に向き合おうとしていた。それは確かな事だった。
「でも、君はこうして俺としっかり話が出来ているじゃないか。それは天地がひっくり返っても覆らない真理の一つだ。自信を持てとは言わないが、君は君らしくいるべきだと思うけどね」
確信を込めた調子で再牙が言った。どうやら、本気でそうあるべきだと言っているようだった。琴美は特に同意の意思を示さず、手元に抱えたボトルに視線を落とした。更に再牙は続けた。
「それに、君は自分のことをずるいと評したが、そう言えるのは立派なことだ。狡さは狡猾に繋がり、狡猾は残虐に帰結する。自分がどんなに残虐な人間であるか。それに向き合おうとする心構えが、君の中では既に芽生えているってことに違いないからだ」
「自分の残虐さに目を向けるって、立派なことなんですか?」
「立派であり、大事なことだ。自分が残虐であることを自覚しなきゃ駄目だ。人は多かれ少なかれ、残虐心を抱いて発展と停滞と進化を繰り返してきた生き物だ。そうして、時に道を誤る。自らの獲得した能力や地位を、万全のものだと思いたがって暴走する」
特別な力を持っている者は特にそうだ――喉元まで出かかった一言を辛うじて飲み込んだ代わりに、再牙は眼差しを鋭く研いで、公園の外に乱立する
それらの奥に悠然と佇む、蒼天に白い切れ込みを入れるようにそびえ建つギガストス・バベルにも。
「この都市が、どうやって誕生したかについては知っているかい?」
「大体は。学校の先生が良く話していましたし、未だにテレビや雑誌で特集が組まれるくらいですから」
「だが、何故ここまで都市が成長したか。それについては知らないんじゃないか?」
「もしかして、ちゃんとした理由があるんですか?」
驚き交じりに、琴美は訊いた。心の中で燻っていた疑問の一つが、氷解しそうな予感を抱きながら。
二十年前の元日に、予兆もなく降臨した未曽有の災害。東京都が幻幽都市の名に上書きされる直接的要因となったそれこそ、俗に
その発生点と推測されている霞ヶ関跡地には、災害で亡くなった人々の亡霊が無念の想いを抱きながら、今なお彷徨っているという…………
そんな出来の悪い三流ホラー小説じみた噂話を、それっぽく生徒に聞かせていた教師は、琴美が通っていた《外界》の学校には腐るほどいた。テレビも雑誌も同じ調子で、幻幽都市の放つ雰囲気を不気味に感じながらも、基本的にはその存在を玩具にして愉しんでいた。
残酷な好奇心を都市に向けて当然という世間の風潮が、琴美の目には
たとえば、なぜ
死者数百万という数字を叩き出しておきながら、たった二十年でどうやってここまでの復興と発展を成し遂げることができたのか……
迷宮とも呼ぶべきこれら難問の数々に、それらしい解答を持ち合わせる者は《外界》には皆無だった。国境と分野を超えて、多くの学者が
しかしながら学者でも何でもない万事屋稼業に身をやつしている火門再牙は、その難問の一つに対して、これだという明確な解答を持ち合わせているらしい。
「
新たに飛び出てきた幻幽都市独特のワードに、琴美は頭が痺れるような感覚に襲われた。
「知りませんでした。そんな凄い人達が東京に……この都市にいたなんて」
「初めからいたわけじゃない。幻幽都市で暮らしていた普通の科学者が、土地の後天的影響を受けて、脳が
「さっき、科学者集団って仰っていましたけれど、集団ってことは何か目的があって集まった人達だったんですか?」
「そうだ。都市の復活と技術のさらなる進化。それが
その時だけ、再牙の薄茶色をした瞳の中に、怯えとも哀しみともつかぬ感情の
しかしながら、僅かに顔を覗かせたそこへ踏み込むのは止めるべきだと琴美は本能的に結論付けると、別の質問を再牙に投げかけた。
「その
そこで再牙は考え込むような仕草をしたが、ボトルの水を一気に飲み干すと、
「知識として、知っておいた方がいいかもしれないな」
そう前置きをしてから、口をきった。
「今から話すのは、都市に古くから住んでいる者なら誰もが知っている昔話の一つだ……
「
「人造人間のことだよ。バイオプラントと呼ばれる巨大な筒型装置の中で成人体型になるまで肉体を成長させられ、戦闘に必要なあらゆる知識と優れた力を、ゲノム編集と高次電位刺激療法の組み合わせによって植え付けられた科学技術の申し子。それが全部で十体生み出された」
人間が人間を造る。
アニメや漫画などの二次元世界で物語を盛り上げる為に、そういったガジェットが使われているのは琴美も知っている。
しかしながら、それはあくまで空想の世界に限られた話。人間の尊厳を脅かす、決して現実世界で確立されてはならない技術だったはずだ。
どう考えても人道に反した技術を現実に叶えたという再牙の言葉を、確かに耳にしているという実感を込めて、琴美は再牙の顔を凝視した。信じられないという気分以上に、そんなことまで容易く成し遂げてしまう都市の技術力に、軽い戦慄すら覚えてしまう。
「当時の都市治安は相当酷いものでね。
「その人たち、強かったんですか?」
「そりゃあもう、言葉にならないくらいにね。たったの十人しか造られなかったんだが、犯罪組織を潰し回り、屈強なアンダーグラウンドの住人たちを次々に牢獄へ送り込んでくれた。そのおかげで、都民からは英雄視され、治安も大分良くなった。みんなハッピーになれるはずだった。けれどそんな矢先、ある事件が起こった」
「事件?」
「
琴美がぽかんとした表情になるのを見て、再牙が軽く肩を竦めた。
「ほとんど戦争だったよ。反乱を起こした十人の
「ずっと街の治安維持に関わってきたのに、どうして反乱なんて起こしてしまったんですか?」
琴美の素朴な疑問に対して、再牙は直ぐには口を開こうとはしなかった。眉間に深い皺を寄せて、押し黙った。 まるで、語り出した物語をどのように終着させるべきか、考えているようだった。
しかし、それもほんの僅かな間のことで、彼がいつもの調子を取り戻すのにそれほど時間はかからなかった。
「自分達の待遇改善を訴える為に、機関長……
「
琴美が訊いた。再牙は静かに頷いた。
瞳が抱え込む光が、憐れむように揺らいだ。
「己の内に眠る残虐性を理解しなかったから、あんな結末になったんだ。自業自得だ。どっちもどっちなのさ」
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