1-4 獅子原琴美、火門再牙と出会う①
獅子原琴美は、暗がりの中にいた。
辺りには誰もおらず、ただ闇だけがあった。その闇が、お前はここから決して出られないのだと、静かに囁いているようで恐ろしかった。
体の芯が後戻りできないほどに冷え、湧き上がる心細さが体を動かした。ふらふらと闇の中を彷徨っているうちに、視界の中心で、とつぜん光がぼやけた。光は四角形の形をとると、まるで古びた映写機の様にカラカラと音を鳴らし、琴美の視界に映像を投影していった。
どれも、モノクロの映像だった。しかし古臭さはなく、それどころか懐かしさを覚えた。映像の中では、見慣れたテーブルを挟んで椅子に座った男女が、何事かを話し合っていた。声は聞こえなかったが、憂鬱とした雰囲気であるのは分かった。
女の方は涙を流しながら必死に何かを訴え、男はじっと姿勢を崩さず、はっきりと口を動かしていた。そんなやり取りがしばらく繰り返された。
やがて女は、回転力を失くした独楽のように机に突っ伏して、細い肩を小刻みに震えさせた。男の武骨で大きな手が、見るからに温もりに満ちていると分かるその手が、女の肩に優しく触れた。
琴美は急に、落雷に撃たれたかのような衝撃を覚えた。あの手に自分も触れたことがあると、今更のように思い出した。
遠い昔のことだ。
確か、あれは――
そこでまた映像が高速で入れ替わり、場面が転換した。
とある一軒家の玄関。女が、家を出る男を寂しげな表情で見送っている。女の隣には、少女がいた。自分と同じ顔をした少女が。
「お父さん――!」
画面の中の幼い琴美ではなく、闇に囚われた側の琴美が声を出した。出したはずだった。しかし、父を呼ぶ声は周囲の闇に完全に吸収され、どこにも届かなかった。
玄関で靴を履いた男。顔は見えないが、分かる。あれは父だ。いなくなった父だ。
男は立ち上がると振り返って、画面の中で佇む小さな琴美の頭をくしゃりと撫でた。それが、彼女が経験した最後の温もりだった。もう二度と戻ってはこない、安息に満ち足りた日々の終わりを告げる感触でもあった。
男の手がドアノブに触れた瞬間だった。猛烈に嫌な感情が襲いかかってきて、琴美は居ても立ってもいられなかった。父を止めなければと、頭の中の自分が懸命の叫びを上げていた。
「待って――!」
追いすがろうと琴美が駆け足になった途端、光の画面が急速に縮まり、あっという間に闇に呑まれた。琴美の視界は完全に閉ざされ、必然的とも言える
その静謐が問いかけていた。
なぜ追うのかと。
母を亡くした今、何故ゆえに父の姿を追うのかと。
「私は――」
問いかけは連鎖的に、それこそ水面に刻まれる波紋のように、琴美の頭の中で広がりを見せた。
なぜ、父の足跡を追おうとするのか。
そこに何があるのか。
自分は何をしたいのか。
闇に向かって掲げるべき解答は持ち合わせていたが、同時に持ち合わせていなかった。
「私は、知りたいの!」
琴美は闇の中心に立ち、ほっそりとした体を震わせながらも、あらん限りの力を込めて叫んだ。
「お父さんのことを、知りたいだけなの!」
まさしく、その瞬間だった。
『本当にそうなのか?』と、誰かが
▲
覚醒した意識の中で、琴美は飛び込んできた白い天井を見つめていた。そこに光の環があった。都市の医療施設でも使われている、リラックス効果をもたらす高輝度MLD照明灯。それが部屋一帯を照らしていた。
恐る恐る上半身を起こしたところで、琴美は初めて、自分が黒革のソファーに寝かされていたことを知った。ふと右を見ると、四つ足の低い硝子造りのテーブルがあるのに気が付いた。その上に、見慣れたポーチが置かれていた。琴美は急いで中身を確かめた。予想とは裏腹に特に失くしたものはなく、静かに胸を撫で下ろした。
そうして次に、こめかみのあたりをそっと指で撫でた。自分の身に何があったのかを思い出すための、それは無意識の行動だった。そうすることで、覚醒したばかりの頭の中が、理路整然と配列されていくように思えた。
確か、自分は伊原誠一とかいう人に出会って、そこに真っ白い服を着た男女が現れて、揉めた末に伊原に拐われて……気づいたらこの部屋にいた。
事実だけを並べてみれば、何が何だかわからない。それでもいちおう、危難だけはどうにかして遠ざかっていたのだという感覚が、おぼろげながら掴めた。精神マッサージの効果を持つ照明が彼女に冷静さを呼び戻し、部屋のつくりや調度品が醸し出す朗らかな空気感が、警戒心を拭い去っていた。
それでも、分からない事だらけだ。ここは結局どこで、誰が連れてきてくれたのか。自らの置かれた状況について、色々な考えを巡らしているときだった。
「あ、お目覚めになられましたか」
リビングの更に奥まった一室。暖簾で仕切られたキッチンと思しきスペースから、一人の少女が琴美の目覚めに気づいて姿を見せた。
「ご気分は如何ですか?」
労わるような台詞とは裏腹に、抑揚はなく、少女の整った相貌は氷のように動かなかった。見ようによっては物憂い表情に見えなくもないが、限りなく無表情に近い。
謎めいた少女の肢体を、ぽかんと口を開けながら琴美はまじまじと観察した。
ショートボブにカットされた金髪が、少女の雪のような肌に良く映えている。華奢なボディラインを包み込むのは、薄い胸元が大きくはだけた純白のボディスーツだ。腰には花柄の金刺繍があつらえられた黒い帯広のベルトをきつく巻いていて、スーツの美しさを一層際立たせていた。
琴美は漠然と思った。この少女は、こんな格好で街中を歩くのかと。どう控えめに見ても有り得なかったが、その非日常性を彷彿とさせる服装が、少女の体から妖しい雰囲気を放射していた。
しかしながら、琴美の視線は少女の衣裳もさることながら、また別のところを注視していた。
少女の肩甲骨付近。そこに、二対の腕とも呼ぶべきものがあった。両の肩から細長い透明のチューブのようなものが生えて、先端に大きな機械製の拳が取り付けられているのだ。
その攻撃的形態をとる部分から、琴美は不思議と、機能美と誇り高さを同時に感じ取った。
「ああ、この『腕』ですか?」
琴美の興味深げな視線を受けて、肩から生えた腕が自らの有用性を主張するかのように、色々な方向へくねってみせた。
少女自身の意思で動かしているというより、そこに独立した意思が宿っているかのようだった。
「これは
土地再開発。
その響きが持つところの意味を何となく理解しつつも、琴美はいまいちぴんと来なかった。来訪したばかりの土地の過去を話されても、今はどう受け止めるべきか分からなかった。琴美が今一番知りたいことは、自分の置かれた状況についてだった。
「ここ、どこですか?」
「練馬の安アパートです。貴方様が、ここから少し離れたところの路地裏で気を失っていたところを、この部屋の主人が発見して介抱したのですよ」
「主人って……貴方じゃないんですか?」
「私はただの同居人です。エリーチカ・チカチーロと申します」
どうぞよろしくと言って、金髪碧眼の少女は丁寧にお辞儀をした。
見た目は十二、三歳程度ながら、物腰の落ち着き具合はだいぶ大人びて見えた。
「私、
ソファーに座ったままおずおずと頭を下げ、慣れない自己紹介をする。
「獅子原様……変わったお名前ですね」
「良く言われます」
「そうですか。ところで、喉が乾いていらっしゃいませんか? 今、お飲み物を準備いたしますので、少々お待ちください」
まるでご主人に仕えるメイドさながら、エリーチカと名乗った少女はパタパタとスリッパを鳴らして、キッチンへと消えていった。
彼女が飲み物を準備してくれている間、琴美はぐるりと部屋じゅうを眺めてみた。見積もって十五畳ぐらいのリビングには、おもちゃ箱をひっくり返したように色々なものが置かれていた。
足の短い硝子造りのテーブルと、黒革のソファー。簡易ベッドにクローゼット。
白い壁に嵌め込まれた大型の壁面スクリーン。蔵書が詰め込まれた本棚。冷蔵庫と、その上に置かれたスチームオーブン。
ペンギン型のダストシューター。洒落っ気の欠片も無い小さな事務机。今時珍しい、タワー型のパソコン。
使い古された作業台と、重厚そうな工具箱。
AIot化を拒んだ前世代の家電類を始めとして、どれもがあるべき場所に正しく配置されていた。そのおかげで、物は多いが雑然とした感じはしなかった。室内の空気は柔らかく、埃っぽさはない。掃除が行き届いていることの証拠だ。この部屋の主人か、あるいはエリーチカが綺麗好きなのか。琴美は、何となく後者だろうと思った。
「どうぞ」
キッチンからエリーチカが戻ってきて、盆に置かれたカップを琴美に差し出した。
肩から生えた特殊な腕ではない、本来の腕を伸ばして。
「ありがとうございます」
両手で包み込むように持ったカップの中で、琥珀色に透き通った液体が湯気を立てている。紅茶にしては色が薄い。ジンジャーエールに似ているが、炭酸は含まれていなかった。
「アフター・グレイ。幻幽都市原産の茶葉から抽出したお茶です。美味しいですよ。どうぞご遠慮なく」
勧められるがまま、琴美はカップに口をつけた。芳醇な香りが鼻を抜け、舌に味わい深さが残る。ほぅ、と琴美は溜息をついた。緊張しっぱなしだった筋肉が、徐々にほぐれていく。この都市に来て、初めて心の底から落ちつけたような気がした。
「良ければ、テレビでも見ませんか?」
何の脈絡もなく、エリーチカがそんなことを言った。
断る理由もなかったので、琴美は黙って頷いた。
「丁度、私の好きな番組がやっているんです」
そう言うと、エリーチカは白い壁にぴっちりと埋め込まれた画面――壁面スクリーンと呼ばれる大型装置に向かって、手を横に振るジェスチャーをしてみせた。
スクリーンの下部に取り付けられた動作感知センサーが反応し、スクリーンの電源が点いた。
続けて、白い指先で画面を遠隔操作するかのように手を動かす。その度に画面がスライドし、テレビチャンネルが切り替わっていく。
『本日午前十時ごろ、港区芝地区のアパートにて、男性の白骨化した遺体が発見されました。蒼天機関刑事局は、この男性と同居していた三十五歳の女性を、殺人と異界生命体召喚未遂の容疑で逮捕しました。アパートからは白骨化した遺体の他、封印解除済みの海賊版魔導書も発見されており、現場は物々しい雰囲気となっております。容疑者の女性は、現実に嫌気が差したので、夫を生贄に魔神を召喚し、全てを終わらせたかったと供述しています。刑事局は、容疑者が高度の洗脳操作による精神汚染を受けている可能性も否定できないと発表し――』
『最高枢密院の
『仮想世界第七特別民間区域では、従来の仮想通貨に代わる量子暗号通貨の導入に関する有識者会議が開かれました。キャッシュレス社会の発展化に向けて、通貨導入時に懸念されるマネー・クラッキングの件も議論され、会議は当初の予定時間を大幅に延長し、つい先ほど終了を迎えました。同会議の司会役を担っていた、ゴールデン・ナンバー社代表取締役社長の大貫清太郎氏は、今回の会議を通じて次のようなコメントを―』
都市のありきたりなニュース番組には目もくれず、エリーチカは手を動かしてどんどん画面を飛ばしていく。
やがて目的のチャンネルに辿り着いたのか、彼女の指先があるところでピタリと止まった。
「ちょうど始まったみたいですね」
その言葉を最後に、エリーチカは能面じみた表情のままに、画面へ釘付けになった。それこそ、教祖の言葉を聞き逃さぬよう必至に耳を傾ける信者のように。
しかしながら、画面に映っているのは人ではなく、猫である。何の変哲もない猫たちの映像番組。生まれて数か月と思しき子猫たちがどこかの公園を舞台に、画面の向こうで仲睦まじそうにじゃれあっている。
琴美はアフター・グレイに口をつけつつ、ぼんやりと画面を見続けた。
「何の番組なんですか? これ」
琴美の何気ない質問に、ガラス玉のような紺碧の瞳で画面を注視したまま、エリーチカは答えた。
「『今日のニャンコ』ですよ。たった十五分間の番組ですが、とっても癒されるんです。見ていると、幸せな気分になれます」
琴美はまじまじと、エリーチカの横顔を見た。愉しんでいる風には見えなかったが、この精巧な造りの人形じみた少女が嘘をつくとも思えなかった。
正面だけでなく横顔も端正で、女でも見とれてしまいそうな美しさがあった。肩から伸びる腕は依然として奇妙極まるが、不気味だという印象は薄かった。
黄金比の被造体――ふと、そんな単語が琴美の脳裡に浮かんだ。
経験から引っ張り出された言葉ではない。それはどこからか沸いてきた、
時間はあっという間に過ぎていく。
十五分経過したところで、ニャンコたちは画面から消えた。
代わりに、厳めしいスーツ姿の
「ああ、終わっちゃいました」
残念がる台詞をエリーチカが口にした直後、玄関のチャイムが控えめに鳴った。
「どうやら部屋の主が帰ってきたみたいです」と言い残し、エリーチカはいそいそと玄関へ向かい、ドアを開けた。
「ただいま。チカチ、あの女の子の様子はどうだ?」
男の声が、玄関からリビングに届いた。琴美が初めて聞くタイプの声色だった。クラスメイトの男子が出す落ち着きようのない声とも、記憶の中の父が奏でるような渋みのある声とも異なる。
力強く、それでいて若さに溢れた声色だった。
「
「耳にたこが出来るぐらい聞いたぞ、その台詞……お、なんだ君、起きてたのか」
リビングに現れた男が、面白そうな顔をして琴美を見た。
琴美は呆気にとられた。男の顔に刻まれた疵痕は痛々しく映ったが、それ以上に体つきが立派であることに驚いた。
コート越しからでも分かる鍛え上げられた体躯に釘付けになりつつも、琴美は慌てた様子で硝子造りのテーブルにカップを置いて、律儀に頭を下げた。
「お話はエリーチカさんから聞いています。助けて頂いて、有難うございます」
「あー、いいよいいよ。そんなかしこまらなくて」
男は鷹揚とした調子で口にすると、腕に装着させていたガントレットの留め具を外して脱ぎ、作業台の上にどちゃりと置いた。そのままコートも脱がずに琴美の対面に――硝子のテーブルを挟んで、黒革のソファーにどっかりと腰を下ろした。
「本当は念の為、病院に連れて行きたかったんだけれど、君、見たところ《外界》から来た人みたいだったし、まだ保険証も持っていないだろ? アレがないと、請求額が桁一つ違ってくるんだ。流石にこっちも、そんな金が払えるほど裕福な身分じゃないんでね。それに、見たところ怪我もしてないようだったから、とりあえずここに運んで様子を見ようとしたわけ」
男の流れるような言葉に、琴美は相槌を打つことで答えた。彼の言う保険証というのが《外界》のそれではなく、この都市独自の手続きで発行される代物の事を指しているのは、大方察せられた。
「しかし君も難儀だったね。あんな奴に目をつけられるなんて」
「あの、伊原って人のことですか?」
「奴は根っからの
おもむろに、男はポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは真鍮製の指輪。《来訪端末》である。
「ちょっと事情があって、君の指から外させてもらってたんだけれど、返すよ」
琴美は指輪を受け取り、しばし躊躇ってから右手の人差し指に嵌めた。人工的な冷たさが、細い指を甘く締め付ける。なんだか監視されているようで嫌だったが、ひとまず我慢するしかない。
「それ、ちゃんと嵌めておいた方がいいよ。もし危険区域に侵入しても、機関に関知してもらえなくなるからね」
「危険区域……?」
「
琴美は自然と頷いていた。男の科白がよく理解できた為だ。
小学生の頃、地元に幽霊が出るという噂の裏山があった。そこへは絶対に立ち入ってはいけないと、普段から父親に言い聞かされていた。にも関わらず、琴美は好奇心に負けてその裏山に入ってしまった事があった。案の定道に迷い、なんとか自力で下山した頃には、既に夜の八時を回っていた。
家に辿り着いた時、最初に琴美が見たのは、玄関前に停まっている何台かのパトカーだった。帰りの遅い彼女を心配して、両親が警察に連絡を入れたのだと、その時知った。
琴美は『ごめんなさい』と口にする前に、涙目の父親に玄関先で怒鳴られ、顔を思い切り平手打ちされた。
あの時の頬に伝わった痛みと父親の悲しげな表情は、今でも彼女の心に深く鮮明に焼き付いている。
後にも先にも、父親が本気で琴美を叱ったのは、それが最初で最後だった。
「ところで君、お腹空いてないかい?」
過ぎ去ってしまった想い出に浸っている琴美に構わず、男はコートのポケットへ無造作に手を突っ込んで、透明のビニールに包まれた総菜パンを次々に並べていった。
そのタイミングで、キッチンに引っ込んでいたエリーチカが姿を見せた。彼女は男の前にカップを置くと、いつもそうしているかのように男の隣に座った。
男は当然のようにカップを口に運びつつ、テーブルの上に広げられた総菜パンを顎で指しながら話を続けた。
「
はじめから、琴美に食べさせるつもりで買い込んできたらしい。パンは全部で十個あった。しかしどう考えても、物理的にそれだけの量が収まるほど大きなポケットではない。不思議な光景だった。まるで手品でも見せられている気分だった。
「いったい、どういう秘密があるんですか?」
琴美が奇妙な形をした虫でも見るかのような目つきで尋ねると、男は、わざとらしく肩を竦めてみせた。凶悪な面に似つかわしくない、少しとぼけたその仕草が、何だか琴美にはおかしく見えた。
「俺も詳しい事までは知らないよ。自家製の生地を使用しているんじゃないのか?」
「パンの美味しさの秘密についての話ではなくて、貴方の、その、着ているコートについてなんですけれど……」
「ああ、これのことか」
男は質問の意図にようやく気が付くと、軽くコートの端を摘まんで引っ張った。コートを自慢げに見せびらかす、というよりも、改めてコートの存在を意識したようだった。
男がそのコートを始めて着用したのは五年前の事だったが、それよりも、もっと長い時を一緒に過ごしてきたような愛着があった。もはやそのコートは、男の日常生活には欠かせないものとなっていた。これがない生活など考えられなかった。体の一部も同然だった。
「オルガンチノって名前のコートでね。ポケットの中が異次元空間に繋がっているんだ。ポケットの口に入るサイズのものなら、どんなものでも無制限に入れられる。ポケットの中はこことは違う次元世界を内包しているから、電子機器を入れておけば、
言葉の言外に込められた意味。つまりは、ポケットの中に《来訪者端末》を入れておけば信号は遮断される。
しかしそのことに上手く気が付かないまま、琴美は「すごいですね」とだけ口にした。異次元という言葉が曖昧なものとなって聞こえたが、無制限に入れられるという点に、大きな驚きと感心を抱いたようだった。
琴美の反応が期待していた通りのものだったからなのか。男がここにきて、初めての笑顔を見せた。まるで皺のように、疵痕が大きくゆがんだ。
「元々は俺のものじゃなかったんだ。先代が譲ってくれたんだよ」
「先代というと?」
「うち、万屋なんだ。で、俺が二代目。練馬区の《
「万屋……」
よもやこんな場所でそのワードが出てくると思わなかったのか、琴美は虚を突かれた感じだったが、気づけは前のめりになって男の顔を見つめていた。
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