1-5 獅子原琴美、火門再牙と出会う②
そこで、琴美には気が付かないレベルで、男の左の眉がひそかに動いた。
自分を見つめる少女の目に、男は覚えがあった。助けを乞うような瞳の色。縋りつくような感情をそこに垣間見た。万屋稼業を始めてから幾度となく、男は、そういった眼差しの人物と出会ってきた。
「もしかして、何か依頼したいのか?」
「はい! あ、あの、でも……」
琴美は飛びつくように肯定してから、ためらいがちに視線を泳がせた。犯罪者とはいえ、伊原が語っていた万屋稼業の実情が頭の中にちらつくせいだった。彼の発言が嘘であったかどうかは別にして、確かめなければならない。
「依頼料って、やっぱりお高いんですよね?」
見上げるような琴美の視線を受け止めて、
「そんなことないさ。ウチはよそと比べたらだいぶ破格だ。安心してくれて構わないよ」
男は、琴美の予想に反してあっさりと答えた。
「雑務関連で五千。物探しだと一万~三万。人探しだと、基本料金は十万
男は両膝を叩くと、決断を迫るような顔つきになった。もう琴美を客として扱っている態度だった。琴美もそれを嫌がらなかった。むしろ金額を聞いて安心した。
五十万――小学校の頃からちびちび溜めていた貯金と、母が遺した遺産の一部を足して合わせて届いた数字。
それが、今の琴美が持っているカードであり、切るべきカードだった。
「人探しです。ただ、ちょっと事情が複雑なんですが」
「分かった。良ければ話を聞かせてくれても、いいかな」
男は少し目を細めて、そう促した。彼の口調に強制的なところはなく、あくまで琴美の自主性に任せるという口ぶりだった。
琴美には、それがなにより嬉しかった。自分を一人の人間として扱ってくれているようで。クラスメイトや教師や親戚が、どこか冷然とした態度で自分に接していたのとは、全く異なっていた。
琴美は頭の中を整理し、ゆっくりと何度か深呼吸をした後に口を開いた。
「探して頂きたいのは、私の父の足跡についてなんです」
言って、ポーチの中から一枚の写真を取り出すと、テーブルの上にそれを置いた。
男は壊れ物でも扱うような手つきで写真を手に取り、じっと記憶するように見つめた。写真に写っているのは、銀縁眼鏡を掛けたスーツ姿の男性だった。
「それが私の父です。名前は
「叡王大学というと、あの中央都にあるっていう国立大学か」
「ご存じなんですか?」
「
嫌味の欠片すら感じさせない万屋の言葉を受けて、琴美は少し気恥ずかしかった。そんな風に父を褒めてくれたのは貴方だけだと言いたげに、彼女は万屋を見つめると話を続けた。
「私たち家族は元々、宮城に住んでいたんです。その頃、父は東北大学で教鞭を取っていたんですが、研究者としての腕を見込まれて叡王大学に招聘されたんです。それで、私たち家族は中央都に引っ越しました。六歳の時でした。父は……すごく仕事熱心で、休日もほとんど大学に籠りっきりでした。でも、たまの長期休暇には私と母を旅行に連れていってくれたり、映画も一緒に見に行ったりしてくれて……優しい父でした」
「仕事に一生懸命で、家族を大事にする父親か。そんなのは理想だと思っていたが、本当にいるもんなんだな」
感心した様子の万屋が、写真をテーブルに戻した。琴美はしかし、写真をポーチの中に戻そうとはせず、目元に陰をつくり、先ほどよりもやや声のトーンを落として話を続けた。
「今から七年前の、二〇三三年の春先……私が八才の時でした。父が何の前触れもなく、突然家を出て行ってしまったんです」
口に出す時、どうしても声が震えてしまった。幼い記憶に残る父の後ろ姿がフラッシュバックして、衝動的に涙が出そうになる。琴美は、それをぐっと堪えた。
万屋も、そしてエリーチカも、何も言わなかった。ただ黙って、少女の口が再び動き出すのを待っていた。そこに、二人の静かな気遣いが込められているのを、たしかに琴美は感じた。
「当時の私は、突然父が家を出て行ったことに混乱して……自分でも引いてしまうくらい、取り乱したのを覚えています」
「貴方様がそのようなご様子でしたら、お母さまの受けた衝撃も、相当なものだったでしょうに」
エリーチカの同情するような口ぶりに、しかし琴美は静かに頭を振った。
「それが、母は私と違って落ち着いていました。まるで、こうなることが分かっていたかのように。当時の私には、そんな母の態度がどこか不思議で恐ろしくて、何も聞き出せずにいました」
「それで、君のお父さんはそれ以来、ずっと行方不明なのかい?」
「いえ……亡くなりました。この都市で遺体が発見されました。他殺だったんです」
万屋が、声にならない呻きを上げた。
「訃報が知らされたのは、父が家を出てから三年後のことでした。二〇三六年の十二月十九日。その日のことは今でも覚えています。寒い冬の日で……家に帰ると、黒い服を着た男の人が二人、玄関先で母と何かを話していたんです。母は私が帰ってきたことに気が付くと、駆け寄ってきて、私を急に抱きしめて……」
『どうしたの?』と驚き交じりに琴美が尋ねると、彼女の母・花江は一言『お父さんが亡くなったのよ』と、それだけを口にした。
一瞬訳が分からず、琴美が再び聞き返しても、母は言葉を口にしなかった。代わりに、琴美を抱きしめる腕にますます力を込め、やがて堰を切ったようにして泣き始めた。
琴美はゆっくりと、その細い腕を母の背に回した。不思議と、涙は流れなかった。
見えない衝撃が全身を貫いて、それが哀しみに昇華されても。彼女の瞳からは一滴の雫もこぼれなかった。
彼女自身にも、その理由は判然としないままだった。十五歳になった今でも。
琴美の話に出てきた黒い服の男――万屋には、それが誰なのか直ぐに分かった。
幻幽都市が日本から切り離れた独立行政都市であるにせよ、列島に存在する以上、国との軋轢や摩擦はどうしても発生する。そこから端を発する諸問題を平和的に、時には暴力的な手段を用いて解決するのが、外事交渉部の主な仕事だった。
彼らは常に都市と《外界》の境目に立ち、個人に纏わる問題も綺麗に掃除する。都市で亡くなった者の親族が《外界》にいるとなれば、訃報を伝達するのも《出島》の仕事の範疇だ。
「父が亡くなった後の私と母の生活は、自分で言うのも変ですけれど、ひどいものでした。元々病弱だった母は、体を壊して寝込むようになってしまったんです。父の遺した貯金を切り崩してなんとか生活していましたが、どんどん母は痩せ細っていって……三か月前に、亡くなったんです」
琴美の話によれば、彼女の母親は女子高を卒業したばかりの頃、半ば駆け落ち同然で錠一と結ばれたらしい。そういった経緯もあってか、両家の親からの二人に対する印象は最悪で、金銭的援助は全く無かったという。
琴美が生まれてからも、その状況は変わらなかった。駆け落ちしても、孫の顔を見れば考えを改める親も世の中にはいるらしいが、彼女の祖父母は、そういう類いの人間では無かったのだ。
「亡くなる前、病院のベッドで母は口にしました。お父さんは貴方を捨てんじゃない。お父さんが家を出たのには理由があって、どうしようもなかったんだって。でも、その理由までは話してくれませんでした」
「それを話せば、君がどんな行動を取るか、お母さんには分かっていたんだな」
万屋の正鵠を得た言葉に、琴美は黙って頷いた。
「母の遺品……母が毎日つけていた日記帳に、この街の事が書いてあったんです。父は何らかの目的があってこの都市にやってきて、それで殺されたんです……あの、万屋さん」
それまでどこか俯き加減だった琴美が、面を上げた。瞳は静かに揺れて、決然とした意志が込められていた。
「どうかお願いします。父が何を目的にこの街にやってきたのか。なんで殺されてしまったのか。それを調べて欲しいんです。母の日記にも、父が幻幽都市を訪れた理由までは書かれていませんでした。貴方だけが頼りなんです。どうかお願いいたします」
この通りですと、琴美はソファーから立ち上がると律儀にも頭を下げた。
十五歳の少女がその身一つで示せる精一杯の誠意をどう受け取るべきか。万屋の答えは一つだった。
依頼人が信用に足る人物かどうか。それを見抜くのも、万屋の技量の一つである。
獅子原琴美は信頼出来る依頼人だと、男はここまでの流れでそう判断し、心の中で彼女に合格の判子を押した。
「分かった。受諾しよう。君の依頼を」
「本当ですか!?」
力強い万屋の言葉を受けて、琴美の顔に光が宿った。そんな彼女の迫力に気圧されつつも、男は琴美にソファーに座り直すよう促し、ふわりと言ってのけた。
「この
堂々とした面持ちの
似合わないことを無理して口にする必要はないと、言いたげな様子だった。
▲
夜がきた。
濃くて甘ったるいネオンの洪水が繁華街で人々の欲望を駆り立てている一方、住宅密集地へ繋がる練馬区の路地は、冷たい静けさに満たされていた。
足元を照らす外灯に目をやれば、どこからか彷徨い飛んできた
住宅地と道路を隔てる土塀。そこに投影された琴美の細長く濃い影の存在にすら、気がつかないほど夢中になって。
万屋の主人――火門再牙に依頼内容を伝え、散漫とした雑談に付き合っているうちに、すっかり日が暮れてしまった。手配されたアパートが
琴美は二階建てのアパートの階段を駆け上がり、一番奥の部屋の前で立ち止まった。二〇五号室。そこが、琴美が異界で過ごすのに割り当てられた寝倉だった。
鍵を開けて、部屋の明かりを点ける。八畳の部屋と三畳のキッチン。風呂とトイレは共同。カーペットの敷かれた床を歩くと、ぎしぎしと音が鳴った。
部屋の中央には、旅行ケースが主人の帰りを待つかのように置かれていた。門番がちゃんと届けてくれたことに、琴美は心のどこかで安心した。
薄い羽毛布団が敷かれたベッドに座り込み、琴美はポーチの口を開けて総菜パンを取り出した。助けてくれた上にご飯もご馳走になるのは気が引けると断ったが、再牙の勢いに押されて、結局一つだけ貰ってきたのだ。
ビニールを破り、誰かに見られているわけでもないのに遠慮がちに齧る。再牙は随分とパンの味を褒めていたが、琴美にはよく分からなかった。もぞもぞとした感覚だけが、やけに口の中で強調された。
自分の味覚がおかしいのか。あるいは、まだ幻幽都市に馴染んでいないためなのか。なんとなく、後者のような気がした。
半分ほど食べたところで、琴美はパンを再びビニールに包みなおしてポーチに入れた。残りは、明日の朝に食べようと思ってのことだ。
そのまま、ごろりとベッドに横になる。正直、布団の触り心地はいまいちだったが、贅沢は言っていられない。遊びに来たわけではないのだ。父の足跡。それを辿るための
どうして今になって、自分は父の事を知りたいと思ったのだろうか。ふと、琴美はそんなことを考えた。それが自らの心の内側と相対することに気が付かないまま、彼女はじっと沈黙し、思考の渦に自らを委ねた。
この街で父の事を知ることが、何となく恐ろしいとさえ思えた。そこに、自分の知っていた父の面影がないような予感があった。家を出た父に自分が向ける感情の波がどのようなものか、自分でも上手く掴めていないせいで、そんな風に感じてしまうのだろうか。
何もかもが、今の琴美には分からなかった。
父はどうして家を出たのか。幻幽都市とは一体何なのか。火門再牙は、なぜあんな安い価格で依頼を引き受けたのか。エリーチカと名乗る少女は、果たして人間なのかどうか。
脳内で撹拌され続ける無数の疑問の中で、どういうわけか、一つだけ明確な衝動があった。過去を
父の事を知りたい――ある種、狂気的とも言える慕情に身を任せる。
それが、彼女の身を正しく都市に繋ぎ止めて置く唯一の手段だった。
なにより琴美自身、それでいいと思った。
今は、ただそれでいいと。
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