1-6 果たすべき約束

 練馬区は古血吸龍巣園ドラキュリア・パークの近く。

 雲間からの月明かりに照らされるは、一棟の安アパート。その一〇八号室のドアの奥では、普段通りの静かな夕食光景が広がっていた。


「どうも気になるな」


 黒革のソファーに腰かけた再牙が、カレーを口にする手を一旦止めて、ぼやくように言った。

 彼の対面にはカレーの作り手であるエリーチカが行儀よく座り、アルミパック製の魂魄安定剤入りゼリー飲料を、何の感慨深さもなく吸い飲んでいる。再牙に比べれば随分と簡素な食事だが、エリーチカにはこれだけで十分だった。


「普通さ、自分の父親が殺されたなら、まず犯人を捕まえて欲しいって、そう頼むものじゃないかね。なぁ、チカチ」


「その質問に答える前に、一ついいですか?」


「なんだ?」


 ゼリー飲料をすっかり飲み終えたエリーチカがアルミパックを両手で潰しながら、氷の表情で再牙の口元をじろりと見やった。


「食事中は無駄口を叩かないでください。食べることだけに集中してください」


「はいはい」


「はい、は一回」


「はい」


「あと、ちゃんとよく噛んで食べてください。早食いは体に悪いですよ」


「はい」


 まるで母親のようなエリーチカの口ぶりも、情感が欠落した声色のせいか、再牙の機嫌を損ねるには至らない。再牙としては、どこかこの状況を楽しんでいるようにも見えるが、無論、エリーチカにはそんなことはどうでもよかった。この状況における彼女の最大の望みとは、再牙が自分の仕込んだ料理を黙って味わい、胃に運んでくれることに他ならない。


「ごちそうさん。美味かったよ」


「どうもお粗末様です」


 再牙は立ち上がって空になった皿とスプーンを手にキッチンに向かうと、水道の蛇口を捻った。自分の皿は自分で洗うのが、二人暮らしの基本的なルールであった。

 とは言っても、専ら皿やコップを汚すのは、再牙だけであったのだが。


「でさ、さっきの話の続きだけど……」


 スポンジにたっぷりと洗剤を垂らしてから、再牙は蛇口の水音をかき消すくらいの大声を張り上げた。


「普通さぁ、自分の父親が殺されて、しかも彼女の話だと、犯人が捕まったって連絡は届いてないっていうじゃないか。そんな状況で頼む内容が父親の足跡の洗い出しって、なんか変じゃないか? 犯人を捕まえて欲しいって依頼のほうが、全然しっくりくるよ」


「それは私も同感です。もっと言うと、あの方は何かを隠している気がします」


「何かって?」


「分かりません。もしかしたら彼女自身が、自分が隠しているものに気が付いていないのかもしれません。自分という存在と、正しく向き合い切れていない感覚がします」


「ふぅん……まぁそれでも、彼女の人間性は信頼してもいいと思うけれどね」


「そこには私も、一点の疑いの余地を抱いてはいません。ただ、依頼人の心のケアまで行うのが、一流の万屋ですよ。涼子先生もそう言っていました」


「分かってるよ」


 再牙は手早く洗い物を片付けてリビングに戻ると、下は紺色のジャージ、上は黒い薄手のパワード・ウェア一枚という恰好のまま、身を投げ出すようにソファーに座った。

 そこでエリーチカが、遠い目をしながら口にした。


「それにしても不思議な依頼ですね。亡くなった人の経歴を洗い出すというのは、私が涼子先生と組んでいた時も受けたことがありません」


「へぇ」


 再牙は軽く背を仰け反らせて意外そうな声を漏らすと、目元に挑戦的な気配を漂わせて顎に手をやった。大きな障害を乗り越えようとする時に彼が見せる、特徴的な仕草だ。


「なら、これは俺が涼子先生を超えられる、またとないチャンスって訳だ」


「その理屈は良く理解できませんが、私に協力できることがあれば協力しますよ。それで、手応えはどんな感じなんですか? さっき、ネットにアクセスしていましたよね」


「それがさぁ」


 困ったように、再牙は頭の後ろを掻いた。


幽歩道ゆうほどうとか機関報きかんほうとか……まぁ取り敢えず人探しの時と同じ要領で、住居検索サービスにアクセスしてみたわけよ」


「どうでした?」


「駄目だ。箸にも棒にも引っ掛からなかった。錠一氏が都市にやってきたとされる六年前まで記録をさかのぼってもな」


「つまり、この都市に来てからの錠一氏の住居記録が何処にもない、というわけですか。密入都でも働いたんでしょうかね」


「公安のスパイならともかく、大学の先生が密入都をするとは思えない。ちゃんと正規の手続きを踏んで都市に入ったとみるのが妥当だろう。幻幽都市このまちが鎖国を敷いていた昔と違って、今は身分証一つあれば、誰だって入ろうと思えば入れる時代なんだから」


「すると、偽名を使っていた。住居登録書も偽名でサインされていた。そういうことですか」


 エリーチカが口にした可能性の一つに、再牙は頷くことで同調の意を示した。


「その線が濃厚だな。偽名を使って身分を偽っていたということは、つまり、やましい考えを抱えていたということだ。錠一氏は粘菌の研究をしていたんだろ? それ関係の研究資料を盗むためにこの都市にやってきたのかもしれないな……そういえば粘菌コンピュータなるものが十五年くらい前に、交通ネットワークのモデリングに利用されていたよな」


「既に廃れた技術ですよ。今はその手の技術は、ヴェーダ・システムに一本化されています」


「《外界》の奴らからしてみれば、喉から手が出るほどの技術であることに変わりはないだろ。きっと、そいつを求めて都市ここにやってきたんじゃないのか?」


 仮説を展開しながらも、しかし再牙は訝し気に首を傾げた。そんな安直な解決策があるかと、もう一人の自分が囁いていた。少ないパズルのピースを無理矢理嵌め込んで、まだ虫食いが残っている絵を完成形と偽っているようなものだ。

 獅子原錠一が偽名を使っていた可能性があると口にしたエリーチカ当人も、自分の言葉にどこか奇妙さを覚えたのだろう。じっと黙り込んでしまっている。何より偽名の件が真実であったとして、錠一氏殺害の理由はどこからも見えてこない。


「手詰まり、ですかね」と、エリーチカが言った。再牙は渋い顔のまま頷いた。


「せめて、獅子原錠一がどんな名前で、この都市で過ごしていたのかが分かればなぁ」


「仕方ありませんね。正攻法が無理なら、もう一つの方法に頼るしかありません」


「頼る、ねぇ」


 相棒が言わんとしている内容を予見し、再牙の表情に曇りが生じた。目の前で己の弱みをぶら下げられているような気分だった。せめて遠回しに言ってくれるように願ったが、エリーチカは率直に提案を告げた。


「捜索屋さんにお願いしましょう。それが一番です」


「やだ」


 にべもなく再牙は口にし、そっぽを向いた。


「あんな気分屋・・・の手は借りん。先月だってあいつに頼ったばかりじゃないか」


「またそうやって我儘を言う」


「勘違いして貰っちゃ困るな。これは決意って奴だよ」


 一転して開き直るような態度で、再牙がエリーチカの紺碧の瞳を見つめ返した。


「チカチ、もうちょい俺の腕を信用してくれよ。そりゃ、涼子先生と比べたらまだまだかもしれないけれど、でも俺だって、一人でやろうと思えばやれるんだぜ?」


「独力で何かを成し遂げようとするその心意気は立派だと思います」


「だったら――」


「でも、それとこれとは話が別です。再牙、確かに貴方は成長しました。この十年の間で。出会った頃の、野良犬のようだった貴方の面影は何処にもありません。しかし心構えは立派でも、思考性に柔軟さを持たせなければ意味がありません。仕事をする上で重要なのは、自らの欠点を認めながらも、誰かの手を借りるというある種の図々しさです。人は一人では生きていけない。そのことを真に理解できない限り、貴方はずっと半熟卵ハーフボイルドのままです」


「固ゆでになれと? 言っとくが、俺は固ゆで卵ボイルドより半熟卵ウフコックのほうが好きなんだよ」


「冗談を言っている場合ですか。無駄足を踏んでいる時間はないんですよ。彼女は二週間経過したら、この街から出て行ってしまうんですから」


 二週間――その言葉が鉛となって再牙の喉元に食い込んできた。

 依頼内容の難易度に比べてあまりにも短い期間だというのを、これまでの経験則から再牙ははっきりと自覚した。だからこそ、彼は引くに引けなかった。厳しい条件に縛られれば縛られるほど、彼の決意は燃え滾った。

 元々、そういう性格をしていたのだから、どうにもならない。生まれた時から、彼はそういう人間だったのだ。

 そして、相棒の言葉一つで鎮火できるほど、内に秘められた炎の威力は弱くはなかった。


「お前の言っていることは大体理解できた。だからこそ、俺からも言わせてくれ」


 再牙はおもむろに右手をエリーチカの前に出し、指を三本立てた。


「三日だ。明日からの三日間。俺一人で調査させてくれ。それで何も糸口が掴めなかったから、捜索屋を頼ろう。それでいいか?」


 しばし沈黙が流れた後、エリーチカは僅かに頷いた。呆れながらも認めているのだと、彼女の反応を再牙はそのように受け取った。事実、それで間違いはなかった。

 エリーチカの顔は造り物で、それこそ月が千変万化に姿を変えるのに比べれば、あまりにも表情の変化に乏しい。しかし、再牙には分かっていた。彼女と過ごしてきた――そこに、今は亡き一人の女性を交えて――十年の歳月が、人間と初期型アンドロイドの相互理解を実現させていた。


「ところでチカチ。話は変わるんだが」


 そう切り出しながら、再牙はソファーから立ち上がると、ハンガーに掛けられているオルガンチノの異次元ポケットから清涼飲料水のボトルを取り出し、キャップを開けて口に運びながら、またソファーに座り直した。


「彼女……獅子原さんとは、どうだ? うまくやれそうか?」


 赤の他人が耳にすればまるで要領を得ない言い方だったが、エリーチカには再牙の言わんとしていることがたちまち理解できた。その証拠に、エリーチカの氷のような表情に、ほんの少しばかり振動が波打った。

 触れても分からないぐらいの微細な振動――彼女の頭部に埋め込まれている、文字通り脳と精神を司る人工魂魄ノウアスフィアが、再牙の言葉の裏側に潜む真意を汲み取っていることの証拠だ。

 言葉の解体と再構築を駆使して、ニュアンスを正しく把握する能力。元来備わった力のおかげで、エリーチカをはじめとするアンドロイド群は詐欺師の天敵となった。

 彼女に、あらゆる嘘は通用しない。

 エリーチカは再牙の発した言葉の意味を瞬時に正しく理解すると、少し迷った風に視線を泳がせ、呟くようにして言った。


「友達には、なれそうにないかもしれません」


「どうしてそう思う?」


 決して、責めるような口調ではなかった。

 友人が悩める友人へ送る、純粋な疑問に近かった。


「今日、一緒にテレビを見たんです。再牙も良く知っている、猫が沢山出てくるアレです。私から見て、彼女の反応はいまいちでした」


 番組が流れている間、エリーチカはずっと画面を凝視しているように琴美の目には映っていたが、実はそうではなかった。

 エリーチカの双肩から生えた腕。特建型電子機構砕拳プロジェクト・ナックル。それは重量物を運ぶ以外に、感覚器官としての役割も果たしていた。無数のセンサーが、そこに内蔵されている。それは言わば、エリーチカが宿すもう一つの耳であり鼻であり、なにより目だった。

 あの番組が流れていた十五分間、彼女はずっと、特建型電子機構砕拳プロジェクト・ナックルのセンサーを介して琴美の様子を伺っていたのだ。琴美が番組を通じて、自分にどのような反応を抱いているのかを、読み取ろうと努力していた。


「ずっと、不明瞭な感じでした。それに、意味を求めているようでした。あの状況に対して、そこにどんな意味があるのかを。自分がいま、ここにいていいのかどうか、迷っている風でもありました。多分その迷いを引き起こしているのは、他ならぬ私自身だったのかもしれません」


「考えすぎだ。彼女がまだこの都市まちに慣れていないことの証拠だ。別に、彼女の心的状況から不快感に類似した痕跡は読み取れなかったんだろう?」


「はい」


「だったら気に病むことはない。二週間と時間は短いが、彼女と良き友人関係を築き上げることを、俺も涼子先生も願っているんだから」


 言いながら、再牙は同意を促すような眼差しを事務机の上に置かれた写真立てに向けた。

 ホロ・フォトグラフではない、前時代的なフィルム。そこに一人の若い女性が写っていた。   

 女性は写真の中で、今では再牙の所有物となっている摩訶不思議な黄色いコートを――オルガンチノを羽織っていた。目元にやさしい印象を残し、艶やかな長い黒髪が、止まった風の中でそよいでいる。控えめな笑顔が本当に良く似合うと、再牙は写真を見るたびに思った。


 再牙とエリーチカにとって、このたった一枚の写真こそ、何物にも代えがたい正真正銘の宝だった。これに比べたら山ほどに積まれた札束など、ただの紙屑同然に等しかった。そんな物質的な幸福よりも、ずっと得難い精神的な幸福を獲得できたことが、二人にとっての最大の自慢だった。

 人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉を糧に生きるのだと、世界的宗教の祖がその昔に唱えた。まさにその通りだった。女が口にしてきた言葉の一つ一つが再牙とエリーチカの心を温め、時に奮い立たせてきた。

 女がった後も、それは大いなる遺産として二人の魂に宿り続けている。


 五年前。女が都市という名の檻から天へ召された時、再牙は事情があって死に目には会えなかった。代わりに、エリーチカが遺言を受け取っていた。

 女は死ぬ間際まで、都市が生み出す社会病理に見舞われ続けることになるであろう二人の身を案じ、ある『約束事』を遺していた。どうかそれを実現して欲しいというのが、彼女の最期の願いだった。それを実現するだけの心を身につければ、もう何も心配は要らないのだと、そんな風に告げているようだった。


 人間の友人をつくる――エリーチカに課せられた約束事に、エリーチカ当人はもちろん再牙も頭を抱えた。追記すれば、同年代くらいの、十二から十五歳の人間の女の子と友達になれという。

 一見簡単そうに見えるが、エリーチカがどういう存在なのかを理解していれば、この約束事がどれだけの難易度を誇るかは、想像に難くない。

 その約束事に何らかの意図が含まれているのは、再牙もエリーチカも分かっている。だが、本質は未だに掴めていなかった。エリーチカに人間の、それも同年代の友人が出来ることで何がどう変わるというのか。


 答えが分からないまま、五年もの歳月が経過していた。

 過去に仕事仲間こそいたものの、ついぞ友人と呼ぶべき存在に恵まれなかった再牙は、エリーチカに正しい助言を与えてやることも出来ずにいた。


「まぁ、そんなに落ち込むなよ」


 こんな、当たり障りのない台詞しか思いつかない自分が、酷く不甲斐なく思えてくる。それでも、再牙は何かを口にせずにはいられなかった。偶然とはいえ、獅子原琴美と関わり合いを持てたこの機会を、エリーチカの友人作りに役立てようと必死になっているのだ。


「友人というものは、作ろうと思って作れるものじゃない。そうだろう? 些細な会話の中で、自分と相手との共通点を見つけ出せれば、あとは自然の成り行きに任せて問題ないさ。そうだ、数式と同じだよ! 共通項が見つかれば、因数分解なんてお手のもんだろう?」


「もし、共通点が見つからなかったら、どうするんです?」


「……他にも、互いの欠点を認め合う事から、人と人との繋がりは始まるとされる。確か以前読んだ本に、そんなことが載っていたな。うん、俺もそう思う。だからまずは、彼女の欠点を見つけることから始めるのが一番だ。そうしよう。いや、そうするべきだ」


「なにか、間違っている気がします」


「……あとは、お酒に頼るという手段もある。日本人が生み出した伝統的にして確実的なコミュニケーション・ツールだ。強烈なアルコールの一撃を喰らえば、きっと相手は心を許して――」


「獅子原さんは十五歳です」


「……お手上げギブアップ


「少ない引き出しですね」


 反論の余地もなく、がっくりと再牙は項垂うなだれた。


「ま、三日間で貴方がどれだけやれるか、涼子先生の兄弟子として見届けさせてもらいますよ」


 結果は既に分かりきっているとばかりに、エリーチカが言った。

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