まるで嵐のように……
変化というのは、いつも突然に、まるで嵐のようにやってくる。
生き物って奴は、他人から見て些細な事であっても、当人にとっては何物にも代え難いくらいに重要な経験を獲得して、成長していくものだ。
人間も、
何故なら、涼子と一緒にグランド・ジャットの群れを目撃したあの日以来、俺の意識の深いところで、何かが着実に変化していったからだ。
『私から学ぼうとするその姿勢は嬉しいけれど、私の真似事になっちゃダメだからね』
彼女から新しい名前を頂戴し、万事屋の助手として日夜てんやわんやの仕事に追われる中、涼子は良くそう言って聞かせてくれた。
多分、彼女なりの優しさだったんだろう。俺が俺の人生を踏み出そうとしていることを、応援してくれていたんだ。
本当に嬉しかった。今までただ言われた通りに己の手を血で汚してきた。そんな俺に惜しみないほどの暖かな光を注いでくれる人がいる。
枯れた大地のようだった俺の心に、もう二度と緑は芽吹かぬであろうと思われた俺の足元に、彼女はいつだって、潤いと勇気を与えてくれた。
万事屋の仕事。内容は多岐に渡った。
犬の散歩から遺失物の調査。
身元が分からぬ子供の保護、探し人の捜索に、揉め事の仲介役。
殺人や暗殺以外の業務は、全てやったといって良かった。
彼女と一緒に仕事を続けていけばいくほど、俺の中での涼子の存在は、どんどん大きくなっていった。
その余りにも的確で迅速な仕事っぷりを見ていれば、尊敬の念が沸いてくるのは自然の成り行きだった。
『涼子先生だなんて、そんな畏まった言い方はやめてよぉ』
口では面倒くさそうに言ってのけるが、その頬が緩んでいたのを、俺は今でも覚えている。
世辞なんかじゃない。俺が今もこうしていられるのは貴方のお蔭だと正直な感想を口にすると、彼女は生まれて初めて表彰状を貰った少女のように、照れてはにかんだ。
英雄――
英雄だ。貴方たちは救都の英雄であると。
そうやってちやほやされることは、悪い気分ではなかった。
人間とは違う出自を持つ俺達でも誰かの役に立つことが出来るんだと、むしろ胸を張っていたものだ。
だけれども今になって思うのは、俺達は紛い物の英雄だったってことだ。
信念も使命もなく、ただ言われた通りの仕事をこなしていたんだから。
もう一つ、
この異能の力が、俺の社会的存在意義であったのと同時に、背負うべき業でもあった。
力だけを崇められる者。そんな奴は英雄じゃない。
英雄っていうのは、本当のヒーローっていうのは、称賛を乞うたりはしない。
名声や地位なんかには目もくれない。事態を損得勘定の天秤に乗せたりなんかしない。
ただ、己の意志の衝き動かすがままに、困っている人を助ける。
たったそれだけの為に命をかける人。それが英雄だ。
そういう意味で考えれば、涼子先生はまさに、俺にとっての英雄だった。
彼女といると、不思議と勇気が湧いてくるのだ。
この人の生き方を見習いたいという想いは日に日に強くなり、俺は死に物狂いで彼女の仕事を学ばせてもらった。
その過程で、彼女が昔の事を話してくれたことも何度かあった。
火門涼子。彼女は練馬区出身じゃない。
生まれは新宿で、五歳の頃に
紆余曲折を経て万屋を開き、廃棄処分になりかけていたエリーチカを救い、最初の弟子に選んだ。
万屋として彼女がまず初めに活動拠点として選んだのは、故郷の新宿区だった。
幻幽都市成立からそれなりの年数が経った今でも、新宿区の歌舞伎町と言えば、悪党どものの巣窟として名高い。
闇市場に、地下に広がる違法流通物品のオークション。戸籍の無い人間を拉致して臓器売買の仲介をする
彼女はそこで、多くの仕事をこなしてきたらしい。
それは生きる為に彼女が望んだ選択で、誰かに強要されたものではなかった。
颯爽と現れては揉め事を解決し、颯爽と立ち去る。後には何も残さない。
それが何時もの、彼女なりのやり方だった。
噂が秘めた拡散力を、侮ってはいけない。
火門涼子の名が新宿中に広がるのに、それほど時間はかからなかったのも、当然と言えば当然だった。
それは同時に、彼女の事を快く思わない同業者や、彼女を目の仇とする者達の手で、命が脅かされることを意味していた。
それがきっかけとなったのかは知らないが、名が新宿中に広まった直後、涼子先生は行方を晦ました。
雲隠れに費やした期間は、三年。
その間、どこに身を隠していたのかは誰も知らない。俺にも最後まで教えようとはしなかった。
そうして長い沈黙を破り、彼女が練馬区に活動拠点を移したのが、俺と出会う三週間前のことだったと聞いた時は驚いたものだ。なんというタイミングで、彼女と出会ったんだろうと。
『色々とあったんだよ。色々とね』
彼女が自分の過去について語る時、最後は必ずそう言って話の締めとした。
お決まりの科白であるかのように。
色々あった。
辛い事や、悲しい事が。
『でも、これからはきっと楽しい事の方が多くなるよ。再牙君が来てくれたからね』
俺が彼女の弟子となってから一年後。
話の締めに、そんな一言がつきはじめた。
△
変化というのは、いつも突然に、まるで嵐のようにやってくる。
変化にも色々ある。環境の変化。人間関係の変化。
けれども、それよりもずっと大事な変化があることを、俺達は毎日の生活の中で忘れている。
肉体の変化だ。直接的な言い方をすれば、それは死である。
幻幽都市が建都されはじめたばかりの頃は、多くの都民が死の恐怖と背中合わせで過ごしてきた。
治安が今よりもすこぶる悪かった時代は、みんな自分の命を明日に繋ぐのに精一杯で、他人の事になんか構っている暇なんかなかった。
だが、殺伐とした空気に幻幽都市が満たされていたのも、今では昔の話だ。
年が経つごとに、治安は良くなっていった。人々の間にも余裕が生まれた。
そうして自然と、彼らは学んだ。
自分の命を繋いでいくには、誰かの力が必要であることを。
その結果として、近隣住民同士の互助会のようなものが出来上がったり、緊急時に迅速な行動に移せるよう、各区毎に生活する上での明確なルールが設けられた。
でも俺だけはずっと、自分の命の事を考えるのに精一杯だった。
限られた命であることに変わりはない。
だが俺の場合は、その具体的な年数を図らずも知ってしまっている。
人生という名の旅路。その終着駅がどこにあるのかを。
それを自覚すればするほど、涼子先生の役に立ちたいという思いが日に日に強くなっていった。
命が潰えるまでに、あの人から一つでも多くの事を学びたいという熱意も。
焦りと頑張りだけで毎日を生きた。だから俺は全く、他の事に頭を巡らせることが出来なかった。
でも、俺だけじゃない。
誰だって、そんな事にまで考えが及ばなかったに違いない。
あんな結末を先生が迎えるなんて、一体だれが予測できただろうか。
△
『涼子先生が、交通事故に遭いました』
俺が彼女の下で働き出してから五年が経過したある日。
家で留守番をしていた俺の下に、エリーチカからそんな連絡が入った。
その日はうんざりしてしまうくらいの大雨が降っていて、客足もめっきりなかった。
丁度梅雨入りした時期で、今年の雨季は長引くだろうとの報道がされていた。
恨めしそうな表情で、軒先にぶら下る
『来週の分の買い物、今のうちにエリーチカちゃんと済ましてくるから、家で大人しく待っていてね』
エリーチカの通信を受けながら、俺は壁にかけてあるアナログ時計を見上げた。
時刻は午後の六時を回っていた。
涼子先生が家を出てから、もう一時間以上も経過している。
『涼子先生が、交通事故に遭いました』
電話口から聞こえてくるエリーチカの声色は当然のことながら無機質で、肝心な情報は何一つ教えてくれなかった。
どういう状況で事故にあったのかとか、どこで事故に遭ったのかとか、肝心なことは何一つ。
酷く嫌な予感がした。
アンドロイドに搭載されている
衝撃的な事実に直面した際に精神のバランスが崩れないように配慮したシステム。事実だけを取得して、そこに付随する当人の感情の一切を、シャットアウトしてしまう。
シャットアウトされたエリーチカの感情。
それは、心が破壊されてしまうほどの強い哀しみではないだろうか。
電話の向こうで、エリーチカは馬鹿みたいに繰り返す。
涼子先生が交通事故に遭ったと、ただそれだけを。
余計な感情を、全て廃した無感情な声色で。
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