火門再牙という生き方
一体、どれだけそうしていたんだろうか。
ようやく泣き止んで、涼子の胸元から顔を離した。
既にグランド・ジャットの群れは消え去り、辺りには元の暗闇が広がっていた。
月は雲間にすっぽりと隠れて、静寂とした夜の囁きだけがあった。
「ありがとう。なんか、落ち着いたよ」
声に少しの震えを乗せながら、瞼をこする。目の下はきっと、赤く腫れていることだろう。
人前であんな大声で泣くなんて、人生で初めての体験だった。
だが、それを恥ずかしいことだとは思わない自分がいた。
この人に泣き顔を見られても、別に構いやしない。
火門涼子。本当に、不思議な女性だ。
「泣きたくなったら、またこうして胸を貸してあげるからね」
にっと、綺麗に並んだ歯を見せて涼子が笑う。
思わず苦笑して言った。
「男なのに、それじゃみっともないだろ?」
「全く、意地っ張りなんだから」
微笑みつつ、涼子は手を後ろに回すと、そのまま大きく伸びをしてみせた。こうしてみると、なんだか年の離れた姉のように見える。
そんなことを考えている時だった。おもむろに、彼女が口を開いたのは。
「ところでさ、君……これからどうするの?」
「え?」
「あ、別に『早く出て行ってくれ』とか、そういう意味じゃないからね。誤解しないでねっ!?」
言い方を誤ったと思ったのだろう。涼子は見るからに慌てた様子で、発言を取り繕った。
彼女の慌てる様を見るのは初めてで、それがとても新鮮に映った。
「私としては、ずっとウチに居てくれてもいいんだけれど。その……何時までも家に閉じこもっていちゃ、君の精神衛生上、悪いんじゃないかなぁと思ってさ」
確かに、涼子の言う通りだ。
彼女と出会って以降、俺は指名手配されていたこともあって、外出を極力控えていた。
すぐに慣れると思っていたが、外の空気を浴びないというのは、思っていたよりもかなり心にきた。
ヘドロのようにじわじわと溜まるストレスをどう発散するべきか。そんなことばかり考えていた毎日だった。
都市そのものを敵に回したという現状は、こちらの行動範囲を狭めるだけでなく、精神すらもその手にかけようとしていたのだ。
だがそれでも、自暴自棄に陥ることはなかった。涼子やエリーチカが、親身になって俺の話を聞いてくれたお陰に違いない。
十分に良く理解しているつもりだ。何時までもこのままじゃいけないと。
涼子は優しいし、とても頼りになるが、何時までも甘えていては男が廃る。
毎日毎日部屋の隅でうずくまることに時間を費やすのも、もう終わりにするべきだった。
なにせ、俺に残された人生は、あと十五年しかないのだ。
その残りの十五年の人生を、どのように使っていくべきのか。
答えは既に、頭の中で弾きだしている。
あとはそれを、はっきりとした形で意思表示さえすれば良いだけだ。
「やりたいことなら、あるさ」
ふと、己の両手へと視線を落とす。
――生命の冒涜者。それは、君の方ではありませんか?
記憶の片隅に追いやったあの時の言葉が、今更になって甦ってきた。
しかし、体が震えることはなかったし、心は平準を保っている。
――あなた達の脳みそに詰め込まれているのは、紛い物の知性なんですよ。
それを決めるのは、お前じゃない。
この俺だ。
「俺は……」
汗でにじむ両手を、硬く握り締める。
その時、指先に絡みつくようにして、血の幻影が浮かんだ気がした。
この手で殺してきた人々。その亡霊たちが、指の一本一本に絡もうと必死でいるのが感覚された。
人殺しのお前が、人生の新たな扉を開くことなど許さない。そう無言で告げているようで、一瞬、気後れしかけた。
だけれども、もしもここで過去に縛られていたら、俺はどうなるだろうか。
きっと、どこにも辿り着けないまま、死んでいく。そんな結末を迎えるのは嫌だった。
わがままかもしれないけれど、どうせ死ぬんだったら、生きる価値を知ってから死にたかった。
「俺は」
あらゆる雑念を振り払って顔を上げた。
目の前に、涼子の顔がある。
優し気な瞳で、こちらを見ている。
「俺は、あんたの仕事を手伝いたい」
絹のような夜風が、静かに草たちを撫でていった。
吐露した決意が意外なものだったのか。涼子が目をぱちくりさせている。
「手伝うって……君、もしかして万事屋になりたいの?」
「なりたいっていうのとは、ちょっと意味合いが異なってくるかもしれない」
「どういうこと?」
要領を得ないといった面持ちの涼子を前に、俺は、慎重に言葉を選んで想いを伝えることに決めた。
「理由は二つある。一つは、あんたに恩返しがしたいんだよ」
またもや意外だと感じたのか、涼子がぽかんと口を開けた。
「恩返しって……」
「こんな野良犬同然の俺を助けてくれて、今は本当に感謝している。でも、感謝しているだけじゃ、駄目だと思ったんだ。はっきりと、形にして返したいと思った。あんたの役に立つことでそれが返せるのなら、良いと思って」
「……二つ目は?」
「生きる理由を知りたいからだ」
誰かに想いを伝えるというのは、こんなにも緊張するものなのだろうか。
さっきから、心臓が高鳴ってしょうがない。
早口にならないよう、一言一言を噛み締めるようにして、乾燥した唇を動かす。
「知りたいんだ。俺が俺である理由を。俺がこの街に生まれてきた理由を。この街で生き続けなければならない理由を。人は何のために生きるのか。自分のためなのか。それとも、誰か別の人の為に生きるのか。そこに一体、どんな価値があるのか。どんな世界が広がっているのか。誰かに言われたからじゃない。ちゃんと自分の意志で、そういった事を考えて実行していきたい。でも、一から始めたんじゃ、どうしようもない。俺に残された人生は、あと十五年だからな。だから……あんたから、学びたいんだ」
「……私みたいなちっぽけな人間から、一体何を学ぼうって言うの?」
「人生を全力で生きようとする姿勢だ。ちっぽけだって? 冗談じゃない。あんたは眩しくて、いつも目に映って離れないんだ。あんたの生き方に、いつの間にか惹かれていたんだな。だから、万事屋っていう仕事を通じてあんたの生きる姿勢を学んで、生き方を定めたい」
しばしの沈黙。たまらず、苦笑が漏れた。目線が、逃げるように涼子の顔から外れた。
「と言ってはみたものの、正直不安なんだ。今まで人を殺す手段しか学んで来なかった俺が、もう一度ゼロから始めていいものなのかって。亡くなった人に、申し訳ないっていうか……」
「…………」
「でも、億したら駄目なんだ。過去に起こした罪は、どう頑張ったって決して消えない。なら、背負うしかない。俺は俺がやったことの全てを背負い込んで、前へ進みたい。そうしなきゃ、どこにも行けないから」
「君は……」
「頼む。あんたから、学ばせてくれ」
この通りだと、俺は柄にも無く頭を下げた。
こんなに純粋な気持ちでお願い事をするのは、後にも先にもこれが最後だろうと、なんとなく予感する。
涼子は黙ったままだ。後頭部に、彼女の視線をひしひしと感じる。
彼女は今、どんな感情で俺を見ているのだろうか。
呆れているのか。それとも、喜んでいる?
駄目だな。全く分からない。
だけれども、言いたいことは全て言葉にした。
後悔は微塵もなかった。
「頭を上げてよ」
言われて、恐る恐る涼子の目を見た。これまで以上に、彼女は真剣な表情をしていた。
こちらを品定めしているような、胸の内を曝け出してやろうというような、挑戦的な態度に見える。
そうして彼女は、その美しく長い髪を軽く書き上げると、深く息を吐いて、
「前に私がした、『正しさと幸福』の話、覚えている?」
「ああ。人は、正しさと幸福のどちらを選んで生きていけばいいのか、だっけ?」
「そう。そこで質問なんだけど」
涼子が、半歩踏み出す。
「君は、どっちを手に入れたい?」
決断を迫る様な言葉に当てられたのか。風の騒めきが弱まり、世界には俺と涼子の二人だけが残された。
彼女の二つの瞳。薄茶色の大きな切れ長のそれの奥で、火が燃えていた。それは覚悟の火であり、暗闇に閉ざされた道を照らし出そうとする光でもあった。
だが、迂闊な返事をすれば、光は消えて道は閉ざされる。よくよく言葉を吟味して、だが偽りなく伝えなければいけない。俺の言葉の真贋を、彼女は見極めようとしているのだから。
その誠意の込められた対応に、こちらも誠意を以て応えなければならなかった。
正しさと、幸福。
「どちらもいらない」
涼子はうんともすんとも言わない。その先の言葉を――つまりは理由を知りたがっていた。
「俺は、俺のやりたいことをやり遂げたい。俺の納得する形でそれを実行に移せるんなら、正義も幸せも必要ない」
正直な気持ちだった。
きっとこう言えば正解なんだろうとか、浅はかな推測の下で導き出した回答では断じてなかった。
それは自然と、胸の奥から湧き上がるようにして、はっきりと自らの言葉として世界に表明できた。
俺のやりたいことをやる。だがそれは、決して欲望に塗れて好き放題にやるということではない。
自身が定めた『生き方のルール』に則って、やるべきことをやるということ。
「それが、今の俺が導き出した答えだ」
決然として向かい立った俺を、涼子はしばらくの間じっと見つめていたが、緊張が解れたように相好を崩した。
「合格」
「はい?」
「題して、『火門涼子の助手になりたいんだよ試験』に、君は晴れて合格したってこと」
「もしかして、俺を試したのか?」
「ま、そういうことになるね」
涼子はコロコロと笑い、恐らく困惑の表情を浮かべているであろう俺の手を、慈しむように取った。
手のひらに刻まれた皺を一本一本伸ばすようにして、優しく触れる。
くすぐったくて、心地よかった。
「ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいよ」
「本心を言っただけだ」
「でも、本当にいいの? 万事屋の仕事って、結構大変だと思うけど」
「だから、言っただろう? あんたから、学ばせて貰うって」
「そっか。うん。そうか…………って、あっ!」
そこで何かを思い出したように、突然、涼子が驚きに似た声を上げた。
「忘れてたっ!」
「何を?」
「名前だよ。君の名前、まだ聞いてなかった!」
あちゃぁと、涼子はおでこを掌でパチンと叩いた。
見た目にそぐわない、なんだか古臭い反応だった。
「うっかりだなぁ。出会って半年も経つのに、同居人の名前を知らないなんて……君が
「報道規制……あぁ、そういやそうだな」
自分でも分からなかった。何でそんな大事なことを失念していたんだろう。
「部隊にいたころは、アヴァロって呼ばれていたけれどな」
「アヴァロ……ふーん……」
でもさ、と怪訝そうに眉根を寄せて、涼子はしげしげと俺の顔を眺めて言った。
「アヴァロって感じの顔じゃないね」
「コードネームだからな。聞いた話じゃ、仏教の神様の名前を弄った名前らしいけど」
自分の名前を誇らしいであるとか、愛着を抱いた事は一切なかった。
血の通った本当の名前なんて、俺には縁の無い存在だとも考えていた。
「自分でも、あんまり気に入ってなかったんだよな」
「だったら、私が名付けてあげようか」
出し抜けに涼子が口にしたその発言の意味を理解するのに、俺はほんの少しの間を必要とした。
驚きと感動と緊張とで感情が泡立つのを実感し、なんと口にすればよいか、直ぐには判断できなかった。嬉しいのは嬉しいが、遠慮する気持ちもまた同時にあった。
「嫌だったら別にいいんだけど」
反応が無いのを見て、涼子が遠慮がちに笑った。
慌てて、顔の前で手を振った。
「いや、その。別に嫌って訳じゃないけど……」
「あ、そう? じゃ、決まりだね」
こちらの曖昧な返答を了解とみて取ったのか。涼子は安心したかのように笑顔を見せると、これで話は終わったとばかりに、さっさと石畳の階段を降りようとした。
「おい。この場で決めるんじゃないのか?」
慌てて呼び止めると、不思議そうにこちらを振り返った。
「何言っているの。名前を決めるんだよ? それも、私の『弟子』となる子の名前を。そんな大事な事、カップラーメンみたいにささっと決めれるわけないじゃない」
なるほどそれもそうだと思い、俺も彼女の背中を追って、石畳を下った。
それから十日ばかりの間、涼子は俺の事を普段通りに「君」と呼び続けた。
そんな日常がほんの少しばかり変化を見せたのは、十一日目の朝の事だった。
「君の名前、考えてみたよ」
朝飯を食っている時に、涼子は一枚の和紙を取り出し、大事そうにテーブルに置いた。
思わず焼き魚をつつく手を止め、箸を置いて和紙を手に取った。横から、エリーチカが覗いてくる。
「どうかな? 音の響きからして、結構いいと思うんだけど」
自信満々に言う涼子の言葉と、目の前に書かれた文字とがリンクした。
胸の奥に、熱い火花が散った感じだった。
「
「いい名前だと思います」とエリーチカ。涼子が「やっぱり?」と言って、嬉しそうに笑った。
火門再牙――涼子と同じ苗字。全く新しい俺の名前。
「火門再牙……か」
これが新しい人生の始まりなのだと思うと、不意に目頭が熱くなった。
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