幻想の蝶々

 千綺葉社せんきはやしろ――大禍災デザストルの影響下で誕生した台地にして、練馬区の新たな名所として知られているこの小高い丘こそが、涼子の『お気に入りの場所』らしい。 


 あの未曽有の大災害が幻幽都市の地形にもたらした影響は、大なり小なり色々だったが、人々の暮らしにマイナスであったことがほとんどだ。

 異常進化した土地の多くが、凶悪な有害獣ダスタニアの巣窟になったり、危険区域の烙印を押されている。それらはどれも、平和な日常を求める都民にしてみれば畏怖と憎悪の対象でしかない。


 だが、千綺葉社せんきはやしろだけは例外中の例外だと涼子は言った。


「ここには有害獣ダスタニアもいないし、危険区域にも指定されていないの。十一月ぐらいになると、思わず見とれちゃうくらい紅葉が綺麗なんだよ。カップルとか家族連れで訪れる人も、結構いるみたい」


 入口に当たる社の前でブレーキを駆け、倍力電動自転車バイキ・バイクから降りる。

 手頃な場所に自転車を駐車させながら、涼子が言う。


「ここからは歩いて頂上を目指すわよ」


「自転車、ここに置いていくつもりなのか?」


「盗まれるんじゃないかって? 大丈夫よ、これがあるから」


 そう言って、涼子はズボンのポケットから一枚のお札を取り出した。結界に使われる簡易呪符だ。

 涼子は慣れた手つきでそいつの封を切ると、金と銀の刺繍が施された呪符を、ぺたりと自転車のサドルに貼った。


「さ、早く登ろうよ」


 実に自然な流れのままに、涼子の細くてしなやかな指が、絡みつくようにこちらの右手を握ろうとする。

 俺は、それをさっと避けた。


「い、いいよ。それよりも、ほら、早く行こうぜ」


 石畳の階段に足をかけ、涼子の方を振り返ることなく、ぶっきらぼうな口調で言い放つ。


「はいはい。わかったわかった」


 涼子はちょっと残念そうに眉を下げたが、すぐに笑顔に戻った。

 彼女のコロコロ変わる表情は、見ていて楽しいし凄く落ち着く。

 だけれども、二人っきりで夜の散歩に来ているというこの状況を正しく消化するのに精一杯で、彼女の顔をまともに見れない自分がいた。


「(こんなところに何があるって言うんだ……?)」


 騒めく胸の吐息を無視して、電灯を片手に階段を上がっていく。

 ちょっと離れて、涼子が続いた。


 無我夢中で山頂を目指し、森の海を泳いでいく。

 耳に届いてくるのは、木々を隠れ家とする小動物や野鳥のさえずり。虫たちの心地よい羽音だけ。

 余計な都会の雑音は、一切聞こえない。


 森の中はうっそうとしていて、群がる樹葉の天幕が完全に月の光を遮っている。

 恐怖や不安とは無縁の、暗黒の世界。一種の異世界に迷い込んでしまったかのような感覚だった。

 街の中心部からはそんなに離れていないというのに、日常生活の喧騒からは完全に隔離されていた。


 網を張るかのように太い蔦が石畳を覆っているから、足元には気をつける必要があった。

 ライトを焚かなければ、とてもじゃないが進めない。

 いや、能力を発動して視力を強化すれば問題はないのだろうが、それをやってしまうと、この何とも言えぬ雰囲気が崩れそうなので控えることにしているだけだ。


 そうして、二十分ほどかけて歩き続けたときだ。


「もうそろそろだよ。ほらぁ、早くっ!」


 後ろを黙って歩いていた涼子が、急に子供のような声を上げて走り出した。

 危ないぞと声を上げそうになるも、彼女は実に軽やかなステップで蔦の絡まる石畳をぽんぽんと駆け上がり、あっという間に俺を追い抜いていった。

 通い慣れているのか、足の運び方に自信があるのが伺えた。


 置いて行かれまいと、俺も走り出す。

 涼子がこんなにはしゃぐなんて、一体何があるんだ?

 どれだけの価値が、この先に込められているんだろうか。


「はやくっ! はやくっ!」


 両腕を上下にぶんぶんと振りながら、笑顔を伴って彼女が急かす。

 必死になって石畳を蹴りつけながら、俺は遂に最後の一段を駆け上がった。


「ここは……」


 思わず息を呑んだ。開けた小高い丘には、例えようもない絶景が広がっていた。

 七色に輝く、小さな蝶たちの群れ。

 羽根を動かす度に、鮮やかな色彩の鱗粉が軌跡を描く。

 鱗粉の軌跡は空中で磔にされたかのようにその場をしばらく漂い、消えるまでの間に月光を受けて乱反射を繰り返し、眩くも暖かな色味を生み出している。

 かたわらに佇む涼子の存在を忘れてしまうほどの、圧倒的な美しさだ。


「すげぇ……」


 感嘆の声が無意識に漏れる。引き寄せられるように丘の中心へと足を進め、俺は一匹一匹の蝶の動きを、つぶさに観察した。

 その数は目で追いつけないほど多く、俺たちがやってきたことを意にも介さず、無軌道にあちらこちらを舞い続けている。鮮やかな羽ばたきは優美そのもので、眺めるのに夢中になってしまう。浮遊する鱗粉の色彩反射が全く読めないのが、楽しくて仕方ない。


 こんな世界が、この悪徳に満ちた幻幽都市に存在していたなんて知らなかった。

 今まで見たことも、想像すらも出来なかった未知の世界。胸を打つ、幻想的な蝶のダンス。

 口にすべき言葉が見当たらない。この美しさを、何と例えれば良いんだろうか。


「グランド・ジャット。奇紋蝶アロマチョウの中でも希少種とされている、夜行性の蝶だよ。寿命が短いから、地下のオークションに出品されると億単位の値がつくんだって。ま、お金でどうこうできる美しさじゃないと思うけどね」


奇紋蝶アロマチョウっていうと、光エネルギーを食べるっていうアレか。ってことは、この辺りに光子元素フォトニウムの発生源があるってことなのか?」


「そう。あれだよ」


 涼子の指さした方向を見ると、丘を取り囲むように乱立した木々に紛れて、数か所の草花が光り輝いていた。

 行燈のように、ぼんやりと淡いオレンジ色の光を放つその姿は、草花達の生命が発露している姿に見える。


「幻光草っていう多年草でね。普通の植物と違って、秋と冬に花を咲かせて、春と夏には枯れちゃうの」


「へぇ。知らなかったよ」


「ちなみに、幻光草は多年草の中でも宿根草ってグループに属していて、花が枯れても根っこは一年中生きてるの。それでね、枯れ落ちた花はミツメリス……この森に棲んでいるリスなんだけど、彼らの栄養源になるの。幻光草の花は栄養満点で、それを食べたミツメリスの糞には高濃度のリン酸や窒素が含まれていて、それが土に還って肥料になり、幻光草や周辺の木々が育つ手助けをする。自然のサイクル。生命循環って奴だね」


「随分と詳しいんだな」


「そりゃあ、お気に入りの場所だからね。大事にしたいから、余計に気になるでしょ。私、気になることはとことん調べたがる性分なの」


 そういうものかと思いながらも、俺と涼子は並んで立ち、しばし幻想的な風景を堪能した。


「仕事で悩んだり辛いことがあると、季節とか関係なしに、いつもこの場所に来るんだ」


 彼女にしては珍しい、どこか憂いを滲ませた声色での呟き。


「あんたにも、悩みがあるのか?」


「あるに決まってるよ。万事屋って、中々気苦労が絶えない職業なんだよ。あの時、ああすれば良かったなーとか、もう少し上手く短期間で解決するにはどうしたらいいのかなー、とか」


 意外な告白だった。俺の目に映る彼女は、まさに天真爛漫が服を着て歩いているような人間で、苦悩や辛さとは無縁の世界に住んでいるように思えたから。


「そういう時は、誰にも相談せずにここに来るの。特に何をするわけでもない。ただじーっとここに腰を下ろしているだけで、なんだか気分が落ち着いてくるんだよねぇ」


 うーんと、思いっきり背を伸ばす涼子。


「ここから眺める街の姿、本当にキレイだよねぇ」


「え……」


 はっとして、俺は丘の下に広がる街並みに目をやった。

 グランド・ジャットの煌びやかさに意識を奪われていたせいで気が付かなかったが、確かに言われてみると確かに。

 夜の深海に沈む練馬区の姿は、どこか神秘的な雰囲気に包まれている。昼間とは全く異なる貌を見せていた。


「確かに……綺麗だな」


「でしょう? ここからの景色を眺めていると、なんだか、自分がすごーくどうでもいいことで悩んでいたことに気が付かされるっていうか、人間の自尊心や深刻な悩みなんて、この街にしてみれば、取るに足らないことなんだろうなぁって、思い知らされるの」


 そう口にする涼子の表情は、真夜中だというのにあまりにも眩しさに満ちていた。

 本当に、この場所が気に入っているんだろう。


「私、この街が大好き」


 遠くを眺めるような視線で放たれた。涼子の心からの言葉が。


「喜びも悲しみも、幻幽都市には全てがある。だから、万事屋を続けていられる。辛いことや苦しいことばかりじゃない。それ以上に、嬉しいことや楽しいことだって、数えきれないくらい存在してる」


 涼子が、慈しむような目線をこちらに向けてきた。


「貴方に出会えて、それが自覚できた。本当に、ありがとう。感謝してるわ」


「感謝だなんて……」


 突然のお礼に、どう反応して良いか分からない。

 なんだか、うなじの辺りがむず痒い。


「別に大したことしてねぇよ。つーか、お礼の言葉を言うのはこっちだっつーの」


「そんなことない。だって私、生きるのが楽しくてしょうがないもの。それに気づかせてくれたのは、貴方なんだよ?」


 生きていて楽しい――か。


「あんた、本当にスゲェよ」


「え?」


「生きているのが楽しいなんて、俺、今までそんな気持ちになったこと無いからさ。羨ましいっつーか……」


「あ……」


 涼子が、ほんの少しだけ気後れしたような表情を見せた。

 悪いことを言ってしまっただろうかとか、触れられたくない心の一端に土足で踏み込んでしまっただろうかとか、そんな事を思っているのだろう。

 こちらの気持ちを気遣うように、涼子が若干悲しげに睫毛を伏せた。その姿がいじらくして、でも、それ以上に『そんな顔をしないでくれ』と願う気持ちの方が強かった。


「与えられた命令を馬鹿みたいに真面目にこなす。それだけの人生だった。それが正しい道を歩むことなんだって、思い込んで生きてきた。生きるのを楽しむなんて、そんなこと考えたことなかった。むりやりそれっぽい理由をこじつけて、自分で自分を納得させていたんだな、俺は」


 別に全然、気にしてないと伝えたかった。


「でも、あんたと半年近く過ごしてきて、ようやくわかったよ。俺は、誰かが押し付けてきた生き方を、自分の生き方だって錯覚していたんだ。俺にはこの生き方しかないって、思い込んでいたんだ」


 誰かに無理矢理与えられた覚悟を、自分の偽りない覚悟だと偽ってきた。それが誤りだと、もっと早く気づいていれば。もっと広い視野で物事を見る目を養っていれさえすれば。


「……あいつらを、殺す必要はなかったのかもしれない」


「殺す……って」


「ああ、そうだ。そうなんだよ、俺は」


 もう、隠し事はやめよう。


「俺たちが蒼天機関ガーデンを追放されて逃亡を余儀なくされたのは、その原因を作ったのは、俺なんだよ」


「まさか、本当に暗殺未遂を企てたの?」


「いや、あれは本当に嘘っぱちだ。濡れ衣さ。でも――」


 大きく息を吸って、一息に口にした。


「機関の人間を殺したのは、事実だ」


 視線を上げる。涼子の目と合う。

 彼女は、何も言わない。驚愕に満ちた顔もしていない。非難の色も瞳にはない。

 ただ、これから俺の口から紡がれるであろう事柄の一つ一つを、絶対に聞き逃さないという覚悟だけが感じられた。

 だから俺も、それに応えようと思った。

 彼女には、誠意を込めて向き合いたいと思ったから。


「俺たちの寿命が、あと十五年しかない……そのことを偶然知っちまった時、もう、俺は俺の感情を抑えきれなかった」


「……」


「だって、あと十五年しか生きられねぇんだぜ? 短すぎるだろう!? そんなのあんまりじゃないか! 今までずっと組織の為に、街の為に尽くしてきたのに、そんな惨い仕打ちがあってたまるかって……普通の人間とは違うんだって、立場が軽んじられるのにも耐えてきた。それなのにあいつら……全工学開発局サルヴァニアのあいつらは……ッ!」


 気が付けば、爪が手のひらに食い込んで血が滲んでしまうくらい、強く拳を握り締めている自分がいた。


「騙していたんだ。俺たちをずっと。使い物にならなくなったら、捨てる気でいたんだ。奴らにとって、俺たちの頑張りなんてどうでもよくて……それで……それでどうしても我慢出来なくなって……問い詰めたんだけど……」


 激情に駆られるまま、俺は覚明技官エデンメーカーを殺しまわった。

 あの悪魔的頭脳を持つ賢人たちに、怒りと憎しみのすべてを、はっきりとした形でぶつけ続けた。


「…………だけれども」


 違うんだ。本当にしたかったことは、奴らを殺すことじゃなかったはずだ。

 俺は知りたかったんだ。

 耳にしたかった言葉を、欲しただけなんだ。


「ただ一言……謝罪の言葉が聞きたかった……」


 悪かった。本当に申し訳ないことをした。

 今まで隠してきて本当に済まない。君たちの心を慮ってやれなかった。

 人の命を人の手で造り出そうとしていた我々が間違っていた――そんな言葉が、彼らの口から出てくるのを期待していたのに。


「他の仲間たちがどう思っていたのかは知らない。でも、俺はあいつらから、謝罪の言葉が聞きたかった。なのに、最後の最後まで、理屈に凝り固まった主張で自分たちのやり方を正当化しようとしたから……」


 だから。


「だから……殺した。俺が殺しちまって、仲間たちも死んで……全部俺のせいで……でも、でも本当は殺したくなかったんだよッ! 本当なんだ。信じてくれッ!」


 視界が熱く霞んで涼子の顔がよく見れない。

 けれでも、偽りなき本心を言える機会なんて、ここを逃したらもう二度とやってこないだろう。

 だから話せることは今のうちに全部、話しておきたい。


「俺は、俺は――」


 衝動のままに口を動かそうとするが、うまく紡げない。着地点が見えないのだ。

 いったいどんな風に話したら、彼女は俺のことを信じてくれるだろう。

 俺は俺の言葉に、どれだけの説得力を持たせることができるんだろう。

 そればかりが頭の中を巡って、呂律がうまく回らない。


 その時だった。

 全身を、今まで感じた事のないくらいの温もりに包まれたのは。


「今までずっと、一人で頑張ってきたんだね」


 涼子が、その華奢な体で俺に抱きついてきた。

 彼女は、母親がぐずる幼子をあやすように、俺の背中を優しく撫でるように叩いてきた。


「大丈夫だよ。貴方の事、私は信じるから。本当だよ? だってあなたの言葉、ちゃんと熱が籠っていたもの。それは、貴方が生きている何よりの証拠よ」


 涼子の囁きが鼓膜を揺らし、体の至るところに沁み込んでいる。


「寿命のことは……私が言うのも変だろうけど、すごく悲しいし、許せないことだと思うよ。でもね、見方の問題だよ」


 涼子は俺の背中に腕を回した状態で顔を上げると――本当に、それは本当に穏やかな笑みを浮かべた。


「また、もう一度やり直そうよ」


「あ……う……」


 限界だった。これ以上、堪えられなかった。俺は情の激しさに身を委ねることにした。

 涼子の体にしがみ付き、子供のようにわあわあと泣いた。

 必死に、懸命に泣き続けた。それこそ、一生分の涙を。彼女の優しさに満ちた胸の中で。

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