夜の世界に繰り出そう!
「……ぇ……ね……」
夢と現実の狭間に立つ俺を、誰かが必死になって呼び覚まそうとしている。
「ねぇったらっ!」
一際大きな声が鼓膜に響いて、そこで俺は完全に覚醒した。
何事かと思い、驚いて飛び起きる。
いつもと変わらない部屋の風景が、目の前に広がっていた。
空色の景色も、死者達の群れも、完全に何処かへと消え去っていた。
穏やかな世界。生まれて初めて手にした日常の世界。
簡素な造りの部屋の空気を感じ取り、心の底から安堵の溜息を漏らす。
「ちょっと、大丈夫なの?」
すぐ横で、誰かが心配そうに声をかけてきた。
涼子だ。
彼女の瞳は、窓から差し込む月明かりの淡い光を受けて、深い陰影を刻んでいた。
「うなされてたみたいだけど、悪い夢でも見ていたの?」
「……別に」
何でもないと、そっぽを向く。
自分でも、冷たい態度であることは自覚している。
けれども、だったらどんな反応をすれば正解なんだ?
正直に言うと、彼女の優しさに触れることに、俺は若干の後ろめたさを覚えてしまっていた。
そうなっているのは他でもない、俺自身の心の脆弱性に起因した問題だ。
「汗、ひどいよ。これ使っていいから」
振り向くと、涼子が厚手のタオルを差し出してきた。
そこで俺は初めて気が付いた。
寝間着のタンクトップが吸収した、粘ついた汗の不快感に。
「悪い」
言われるがまま、タンクトップを脱いで汗を拭う。
既に初秋は過ぎているはずだが、汗の量は尋常ではなかった。
真っ白だったタオルが、俺の汗を吸ってみるみる内に変色していく。
「拭き終わったら、早く着替えて」
「着替えるって……え、なんで?」
「ちょっと散歩に出かけようよ」
「……もう夜中の一時だぞ?」
壁に掛けられたアナログ時計を見て言う。
だが、そんなことは関係ないのだと言わんばかりに、涼子が笑顔でまくしたててきた。
「そのまま寝たって、どうせ眠れないでしょ。また悪夢にうなされるくらいなら、ちょっと体を冷やした方がいいんじゃない? うん、絶対そっちの方がいい」
「だが、外を出歩くわけには……」
「素性がばれるかもしれないって? 大丈夫だよ。昨日の報道で、もう事件は解決したことになってるんだし。君の正体に勘づく人なんて、いないと思うけどね」
「……それもそうか」
「それにいい機会だし、この時期にしか見られない『すごいもの』を、君に見て欲しいんだよね」
「すごいもの?」
「そう。私のお気に入りの場所なんだけど、見たらきっと驚くと思うなぁ」
「……もしかして」
「ん?」
小首を傾げて俺の反応を伺う涼子。唐突に気恥ずかしさを覚えて、俺は目を伏せた。
「気を……遣ってくれているのか?」
出会ったばかりの頃なら、絶対に出てこなかった言葉だろう。
自分で自分の心の変化に驚いてしまう。
彼女に対して後ろめたさを抱えているのは、どうしてだろう。
騙しているような気分だ。
罪悪感なんて、部隊にいた頃には微塵も抱いていなかったのに。
清らかな彼女の声を聴いて、あの透き通るような瞳を見ていると、自分の心の弱さや辛さを、一切残らず吐き出してしまいたい衝動に駆られてしまう。
けれども、彼女の優しさに甘えることはできない。
俺のような、手の汚れてしまった人間にそんな資格はないのだ。
「もしそうなら、別にいい。気にしないでくれ、俺なんかに気を遣う必要なんて、どこにもないだろ」
「……やだ」
「え?」
涼子の我儘を、初めて耳にした気がする。
意外に思って顔を上げると、実に不満げな顔で立ち尽くしている涼子と、目が合った。
「気を遣っちゃ、悪いのかな?」
△
結局、勢いに押される形になった。
こちらが頑なになって断ったら、涼子は機嫌を損ねたに違いない。
そんなことはしたくなったし、それにちょっとした好奇心も手伝って、話に乗る事にした。
「しっかり掴まっててね」
夜が支配する閑散とした練馬区の大通りを、
サドルには涼子が、荷台には俺が座っている。
冷たい夜風を切り裂いて進む感覚が心地いい。
女性が軽く力を入れるだけでもこの馬力だ。
憎らしいが、
二人乗りは部隊にいた頃も散々やったが、主に搭乗していたのは大型戦術二輪駆動車がほとんどだった。
しかもそれを駆っている時は必ずと言っていいくらい、血と硝煙の香りが辺りに漂っていたものだ。
こんな平穏に満ちた空気感とは著しくかけ離れた世界に、俺はかつて住んでいたんだ。
「ほらっ! こっから一気に飛ばすから、もっとしっかり掴まってっ! 振り落とされるよっ!」
「あ、ああ」
涼子の必死さに押されて、俺は反射的に彼女の腰に腕を回した。
「うあー!」
感嘆にも似た声を、涼子が上げる。
くすぐったそうに身を捩らせて悪戯っぽく笑うのが、背中越しに伝わってきた。
「君の腕って、太くて大きくて逞しいね」
「そ、そうか?」
「うん。なんだか、男の人の腕って感じがするよ。力強いことは良いことだ」
そう言って無邪気に笑うが、こっちは気が気で仕方なかった。
心臓の鼓動がやけに高鳴る。彼女の腰が予想していた以上に柔らかく、細く縊れていたせいだ。
力を込めたら、折れてしまうんじゃないか。
こんな華奢な体格で、よくも万事屋なんて荒事を続けていられるものだと思う。
普段の涼子は、俺にとって頼りがいがありつつも、何処か不思議な空気を纏った存在に映っていた。
その分より強く、彼女の体つきに『女性らしさ』を感じてしまう。
「ところでさ」
「何?」
「今日は来てないんだな。あの黄色いコート」
今の涼子は、水玉模様のワンピースに、灰色のカーディガンだけを纏っている。
彼女のトレードマークでもある黄色いコートを着ていないと、受ける印象も大分違うものだ。
「コートって、オルガンチノの事? あれは仕事用の服だから、今日みたいな日には不釣り合いだよ」
「そうか、仕事用か」
「結構便利だし、気に入ってはいるんだけどね。普段着として着ていくにはちょっとねー」
「便利?」
「知らなかった? あのコートって不思議な素材で出来ていてね。着る人の体格に合わせて、服が勝手にサイズを変更するの」
「へぇ」
「でも一番不思議で便利なのは、コートのポケットが異相空間に繋がっていて、どんなものでも出し入れ自由ってところかな」
「どんなものでも?」
「そ。どんな大きさの物でも」
「そりゃあいい」
「欲しくなってきた?」
「え?」
「もし欲しいなら、いいよ。君にならあげてもいい」
「やめてくれ。なんだか、こっちが物乞いしてるようじゃないか」
「遠慮しなくてもいいのに。君って、変なところで礼儀正しいんだから。でも――」
そこで、言葉のキャッチボールが不自然に途切れた。
ペダルを漕ぎながら、涼子は何かを思案しているようだった。
どうかしたのか。そう口を開きかけた時だ。
「もし私に何かあったら、その時は貰ってよ。きっと、君の役に立つだろうから」
「……え?」
それって、どういう。
「あ、見えてきたよっ!」
不穏な予言めいた彼女の言葉に突っ込むよりも先に、涼子が大声を上げた。
右手をハンドルから離し、人差し指で真っすぐ、ある一点を指さす。
細くて白い、どこか儚い涼子の指先。その先が示すのは、黒々とした小高い森であった。
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