5-4 わたしのお父さん
いつの間にか、空には闇色の絨毯が敷かれ、白い星光が模様のようにちらほらと浮かんでいた。
時折吹きつける一陣の風が当たり散らすようにして、十五の少女の前髪を乱れさせた。
新島射撃訓練場から少しばかり離れた公園のベンチに、琴美はひとり腰かけていた。
店を出る際に、ミセス・ミストが冬用のトレンチコートを貸し与えてくれようとしたが、親切心に感謝しながらも丁重に断った。
そのせいで、今の彼女の恰好と言ったら、上は薄手の鼠色のカーディガンに下は裾の広がったフレアスカートという出で立ちで、秋の夜を過ごすには無防備過ぎた。
だが、そんなのは本人にしてみればどうでもいいことだった。
とにかく、この厳しい寒冷の中に身を晒し続けたくて仕方なかった。
体の奥底で暴れ回っていた巨大な炎塊を残らず体から追い出し、銃を握り続けた手から熱さを消し去るために。
そうして、頭を徹底的に冷やすべきだと思った。
孤独感などない。不安感すらも。
抱え込むのは精神的な罪科と憂苦だけで、腐った心が吐き出す毒錆に耐え続けた。
死ぬまでそうあるべきだと、琴美は途方もないほどに思い込んだ。
凍ったような夜空を眺めているうちに、琴美の目尻にじわじわと涙が込み上げてきた。
熱い雫が白い頬を滑り落ちて小さな顎を伝い、スカートから覗く膝の上で静かに弾けた。
頭の中で延々と呪詛を吐き続ける。
他の誰でもない。ただ一人の『自分』という存在に向けて。
そうやって責め続けた。責め続けずにはいられなかった。
深層意識の奥深くに沈んでいた他者への憎しみは、すでに噴火じみて爆発を迎えていた。
炸裂した卑しい感情の嵐に呑まれ、その度に全身の節々が悲鳴を上げるようにして痛んだ。
そして、この痛みは墓に入るまで一生続くのだと思うと、それも当然だと諦めた。
悲劇のヒロインぶっているわけでは決してなかった。
自分がいかに低俗な人種であるかを、限りないほどに深く、精神の奥底に刻みつけてやるべきだった。
それが取り組むべき懺悔であると、なにより琴美自身が決めていた。
「落ち着きましたか?」
声に反応して隣に視線を向けると、エリーチカが寂しそうに突っ立っていた。
その白い手に、モスグリーンのトレンチコートを抱えて。
「心配でしたので、ミセスから借りてきました」
ふるふると、琴美は首を横に振った。その拍子に、涙の雫が弾けた。
エリーチカは琴美の意志を無視して、黙って彼女の肩にコートを掛けた。
「……すみません」と、蚊の鳴くような声で琴美は言った。
「お気になさらず。先ほどのお返しです」
「お返し?」
「ここに来る途中に見かけたアンドロイドに、貴方は自分のコートをお掛けになられた。今度は、私がそうする番です。全てのアンドロイドを代表して」
氷の鉄仮面をたたえた機械人形。その心が偽りの言葉を吐くとは思えない。
それでも琴美は、どんな表情をすれば良いか分からなかった。
微笑みをかける余裕すら、今の彼女からは喪われていた。
エリーチカが「失礼します」と一言だけ口にしてから、琴美の隣に腰かけた。
「珍しいですね。月があんなに綺麗に出ています」
琴美は、死んだような眼差しで夜空を見上げた。
遠くに浮かぶ上弦の月。
確かに綺麗だが、学校の理科資料集に掲載されている写真のようだと琴美は思った。
公園には琴美とエリーチカの二人しかいなかった。
あちこちに茂る緑が、どちらが先に口火を切るのかを見守るかのように、夜風を受けて微かに音を奏でていた。
「エリーチカさん、ごめんなさい」
琴美が、涙を滲ませる口調で沈黙を破った。
「私、ずっと嘘をついていました。貴方に対しても、火門さんに対しても。そして、私自身に対しても」
しかしながらエリーチカは、琴美が言うところの『嘘』に関して何も問い質そうとはしなかった。
依頼者に嘘をつかれたという事実に、怒っているわけでもなかった。
ただ聞き役だけに徹そうとしていた。
それが今の自分にできる最大限の接し方だと悟っているようだった。
そんなエリーチカの態度を雰囲気から汲み取ったのだろう。
琴美は少しずつ、心に溜まった澱を吐き出すように言葉を紡いでいった。
「父の足跡を調べて欲しいというのは、確かに本心です。それは間違いありません。だけれど、父の不運を哀れんで、あんな依頼を持ち込んだんじゃないんです」
暗闇に佇む電動遊具たちは屍のように静謐を貫くばかりで、いたいけな少女の罪の告白を受け止める。
「父が憎かった……」
零れ落ちたその言葉は、内容の割には驚くほど自然な響きを伴っていた。
これまでずっと、ただ孤独に心の奥底に隠し込めていた本心。
それは、琴美が琴美であることを証明するたった一つの偽りない感情であり、同時に蓋でもあった。
その蓋が外された今、溢れ出す奔流をせき止めるのは、もはや不可能な話だった。
「父が亡くなったあの日、私は泣けなかった。嗚咽を漏らす事すら。それが自分でも恐ろしくて、たまらなくて……薄情な心の持ち主だと自覚するのが怖くて、必死で想像しました。見知らぬ土地で殺害されたあの人の姿を、何度も何度も。泣くために。でも、強くイメージすればするほど、どんどん心は冷めていきました」
琴美の告白を耳にしていたエリーチカが、密やかに息を呑んだ。
欠けた石板の破片を手に入れたような感覚を彼女は抱いた。
自分の父親が殺された。犯人は未だに逮捕されていない。
そういった状況下なら、普通の感覚を持ち合わせている場合、もっと違う依頼内容を寄こすはずだ。
父を殺した犯人の正体を暴いて欲しい――この方がしっくりくる。
そう、再牙は言っていた。
エリーチカも、その点は確かに気がかりだった。
なぜ獅子原琴美は、犯人の姿を追うのではなく、親の死に様を知ることに固執するのか。
よく考えなくとも不可解だ。
靄に包まれたその疑念が、しかし今、依頼者本人から話を聞いた事で一気に晴れた。
おぼろげな印象だった十五の少女の輪郭が、くっきりと象られていた。
琴美が孤独を拗らせた原因。すなわち、父の喪失。
それを糧に育まれたのは、憎しみ以外の何物でもなかった。
顔すら知らない殺人犯への恨みより、慣れ親しんでいたはずの父に対する憎悪が、琴美の中で熟成されていったのだ。
――お父さん、どうして、私を捨てたの?
そんな呪詛めいた想いを抱えたのは何時の頃からだったろうかと、琴美は自問自答した。
しかしいくら意識してみても、明確な時期は思い出せなかった。
ただはっきりしているのは、父が家を出て行って直ぐの頃は、困惑と狼狽に苛まれ続けるしかなかったということだ。
訳の分からない状況下にあって、当時八歳だった琴美は言い知れぬ不安を抱えながらも、いつか帰ってくるはずの父を待ち侘び続けたものだった。
あの優しかった父が、何の理由もなしに家を出て行くなど有り得ない。
そう、自らに言い聞かせた。何度も何度も。
季節が廻り替わっても、学年が上がっても。
琴美は心の片隅で願い続けた。
父が帰ってくることを、愚直に信じ続けた。
もう家には戻ってこないだろう。
ふと脳裏を過るそんな悪魔の囁きにも近い直感を必死に振り払い、あるのか無いのかすら分からない一縷の希望にすがり続けた。
夜。床に就く際には、そんな琴美の精神状態が一層顕著に現れた。
ふと目が冴えて、微睡んだ意識の中、父の名を呼びながら家の中を徘徊する日が続いた。
心配した母親が精神病院へ連れて行ったことで、何とか
だがしかし、少女の心から父親の影が消失することはなかった。
自らの身に降りかかった理不尽な現象を、それなりに上手く処理できるだけの術が、当時の彼女には欠けていた。
琴美は夢の世界で追い求め続けた。
父親の幻影を。来る日も来る日も、冷たい布団の中で願い続けた。
朝、目が覚めたら普段通りに、父親が新聞を読みながら朝食を摂っている。
階段を下りたところで、こちらに視線を送って『おう、おはよう』と、一声かけてくれる。
どこの家庭でも見られるであろう、そんな朝のひとときを希求する。
しかしながら、目が覚めた少女を待ち構えているのはいつも、辛い現実の日々であった。
――父に愛されたという実感がなければ、父を恨むか?
そんなことはないはずだと信じたかった。
父はいつも、自分を大切に想ってくれていたはずだと。
だがしかし、日が経ち、月が経ち、年が経った頃、ついに琴美の心は限界を迎えて反転した。
果て度ない失望が滲み、それは暗黒の竜巻となって、彼女の胸の奥で吹き荒れ始めた。
それこそ、琴美が生まれて初めて抱いた、肉親へ向ける激しい怒りの感情にほかならなかった。
「どうして父は家を出て行ったのか。その理由が知りたかったわけでもない。私はただ、依頼が成功して
琴美の薄い唇が意識とは無関係に震える。
目の前に広がる闇の虚空を見つめながら、彼女は言葉を吐き出し続けた。
「私と母を
混濁する感情に任せるがまま、その小さな拳が膝の上で固く握り締められた。
「亡くなった報せを受け取っても、憎しみが勝ってしまって、だから泣けなかった。どんなに父の事を想っても。手遅れなくらいに。どうしようもありませんでした」
秋風が更に強さを増していく。
話せば話すほど、本人の意識とは無関係に増大する『熱』を冷ますようにして。
「クラスメイトや先生は、多分、気が付いていたんだと思います。死んだ父を恨む。そんな道徳心の欠片もない私の心に。だから私と距離をとったんじゃないかなって、今なら分かります。だって、私からしても嫌ですもん、こんな女……父親の死に唾を吐きかけるような女と、親しくなりたいなんて思うはずがない……」
そこまで口にしたところで、琴美の声が詰まった。
憎悪の情念とは別の、清らかな想いが胸の内で小さく輝くのを自覚したせいだ。
そんな感情があることに今さら気が付いたかのように、大粒の涙がこぼれた。
相反する二つの感情がうごめいて静かに爆発を迎えた中で、琴美はしゃくりあげながらも続けた。
「でも私、私は……父の事を許したくも、あって……あの人は、本当に、優しい人、だったんです……し、仕事が忙しくて、も、構ってくれて……映画館にも、連れて行って、くれたり……山で迷子になった時は、本気で私の身を、し、心配して、くれて……本当に優しかったのに、なんで……」
話せば話すほど、子供の頃の想い出が鮮やかな色彩と共に蘇り、搾め木にかけられたように心が痛んだ。
喉の奥につかえている感情が臨界点を超え、ついに琴美は切羽詰まった心境を吐露した。
「お父さんの事を憎んでいるのか。それともまだ愛しているのか」
自分で、自分の心の在り方が掴めなかった。
「あの人の事を本当は理解したいのに、どうしたらいいのか分からなくて……」
「その答えを求めて、貴方は幻幽都市にやってきたのですね」
カウンター気味に放たれたエリーチカの言葉。
琴美は零れる涙を手の甲で拭いつつ、こくりと小さく頷いた。
優しかった父。家を出て行った父。
光と影に分かたれた印象。
それが指し示す答えを求めて、少女は都市を訪れた。
その根底にあるのは父への愛憎だけではない。
むしろ、『こんな風に誰かに悪しき感情の牙を向ける自分を変えたい』という正真正銘の意志であり願いが、全てを芽吹かせていた。
変わりたい。変えたい。
この細い肉体の内側の世界も、肉体を取り巻く外側の世界も。
あらゆるところから曇りを無くしたい。
綺麗に、嘘偽りなく塗り替えたい。
新しい人生を歩みたいと願う心こそ、獅子原琴美という一人の少女の真なる願いに相違なかった。
「ここに来れば、変われるかもと期待していました。常識じゃ考えられないことが起こる幻幽都市なら、父に対する考えも改まるんじゃないかって。でも、そうじゃなかった。むしろ酷くなる一方でした」
琴美は左手で右手の甲を労わる様に撫でた。
さっきまで熱を吹き上げる鋼を握っていた、その小さな右手を。
完全なる万能感に吞み込まれ、陶酔した己を戒めるように。
さながら、あれは麻薬のようだった。
単純な構造でありながら必要十分以上の力を与えてくれる武器を手に入れた事で、琴美は一時的にではあったが力に溺れた。
過去を
そんな安易なやり方に救済の道を見出そうとしたことに、我ながら恐ろしいと感じて仕方なかった。
「自らを取り巻く環境を変えたいと願って都市にやってくる人は、珍しくありません」
森のように深い瞳を闇夜に向けて、聞き役に回っていたエリーチカが、このタイミングで話を切り出した。
「私は仕事柄、それなりに多くの都民や来訪者と顔を突き合わせてきました。都市に絶望した者。都市に希望を見出そうとする者。都市の情勢を通じて自分を見つめる者。都市に翻弄された挙句、全てを喪った者……いろいろな人がいましたが、結果的に言えるのはただ一つです」
エリーチカは言葉を区切ると、その端正な顔立ちを少しも崩さず、琴美の方を向いた。
「都市で精神的な『勝利』を拾いたければ、心を都市に捧げてはいけません。都市で生き抜くために、体を機械化し、便利な機能を手に入れたり、超人じみた力を獲得する人は少なくありません。不安がそうさせるのです。今のままの自分でいいのかという焦りが、肉体の変容を望むのです。それは人間の原始的な行動の現れとも言えます。環境に合わせて身を変化させる。それは一向に構いませんが、大事なのは心までも変えてはならないということです。人類は遥かな歴史の中で、常に周囲の環境を伺って自らを進化させてきました。ですがその途上で、果たして彼らは自らの心の設計図までも、変えてしまっていったのでしょうか」
最初のうちはあやふやとしたが、話を聞いている内に、琴美にはエリーチカが伝えたい内容がだんだんと分かってきた。
つまりは『心を受け入れる』という事なのだ。
未知なる世界に精神的な寄り添いを求めても、何の解決にもなりはしないのだという事を学ぶことが大事なのだ。
檻に囚われた動物のように、心までも世界に飼い慣らされてはいけない。
それはまた、周囲からの影響をどれだけ汲めるかという事にも通じた。
メディアが流す乱雑な情報の数々。
小さな共同体内でやり取りされる卑しい囁き。
他人の口から同じ目線で飛び出してくる一つ一つの言葉。
それらに如何ほどの気持ちが込められていようとも、最終的に自らの人生を決めるのは当人自身だ。
自分のことは自分で決める。
いまこそ琴美は、真摯に向き合うべきだった。
表面的な心の動きではなく、さらにその奥深くに眠る自らの意識そのものと。
逃げる事無く、変えようとすることもなく。
ただ無防備で全てを受け入れる段階に来ていた。
それが本当の意味での真の幸福に繋がるのかと考えると、どうしてかまだ少し、臆病さが尾を引いた。
「人は神様ではありません。さりとて、邪神でもない。正しい事だけをするのが人間ではないし、同時に、悪の道を突き進む事だけが、人間の生き方ではないと私は思っています。正しい事もする。間違った事もする。善き心も持てば、魔が差して悪心に囚われる事もある。だからこそ、人間は人間でいられるのではないでしょうか」
だんまりのままの琴美と違って、エリーチカは言葉を編み上げるのを止めなかった。
濃い煙に包まれた道中で、道標となるべき何かを模索しているようだった。
言葉という名の光を向けて。そうやって探し当てた道標の位置を、琴美に教えるつもりでいた。
その結果としてどんな結末が待っているかは、道標に向かって突き出された琴美の足の向きによって決まるに違いなかった。
「重要なのは、貴方がいまでもお父様のことを、心の底から大事に想っているということです」
「そんなこと……だって、私は……」
「違うと仰るのですか? 怒りには寿命があるというのに」
琴美が、赤く充血した目を少しばかり見開いた。
そんな言い回しは初めて耳にしたとばかりの反応だった。
「怒りや恨みなんて感情は、案外脆いものです。酸素を充満させた瓶の中に火の点いたマッチ棒を放り込んでも、最初のうちは激しく燃え上がりますが、直ぐに勢いを失います。それと同じです」
理系科目を不得手とする琴美にも、その光景は容易に想像できた。
燃え盛るのは一瞬で、後に残る虚無だけが長く続くことくらい。
しかしだとしたら、何年も続いているこの粘ついた黒い感情の正体は何なのか。
それを聞こうとするよりも先に、エリーチカが言葉を発した。
「愛と憎しみは表裏一体と言いますが、人に『歩ませる力』を与えるという点で考えれば、この二つは全く異なると私は思うのです。貴方が本当にお父様の事をただ『怒り』の感情だけで捉えているのであれば、わざわざこんな危険極まる幻幽都市にまでやっては来ないでしょう。大いなる憎しみの裏に、同じくらいの大きな愛情があるからこそ、貴方は決断し、この都市にやってきた。お父様の死の真実を明らかにして、自らもまた過去を乗り越える為に。違いますか?」
「エリーチカさん、私は……」
その後に続くはずだった言葉を、しかし琴美は寸前のところで飲み込んだ。
父の事を本当に愛しているのかどうか。それは他人から教えられるものではない。
すべては自らの手で導かねばならない答えだった。真っ暗闇の奈落の底に佇む暖かな感情の光を探り当て、それを必死になって掴み、長い時間をかけて手の中で育たなければならなかった。
「ありがとうございます。エリーチカさん」
道標を指差してくれた機械人形の少女に、琴美は伝えるべき感謝を伝えた。
エリーチカは小さく頷くと、とりあえずは自分の役目が一通り終わったことを主張するように、「どういたしまして」と言った。感情の籠らぬ声色で。
「あの、でもどうして、貴方はそこまで私の事を……気遣ってくれるんですか?」
「万屋が依頼人のメンタルを気遣うのは当然の義務です。それに、私も再牙も、依頼を解決して全てが終わったという風にはしたくないのです。依頼人がきちんと自らの足で前を向いて歩ける手助けをする。それが、私たちの目指す万屋の在り方です」
すべては彼女の師であり、良き友人でもあった火門涼子の教えだった。
人と接する仕事だからこそ、人の感情を読み取るのに長けていなければならなかった。
エリーチカは自分になりに色々と学んだ結果、易々とそのハードルを越えてみせた。
感情を表に出せないからと言って、それを無価値と断じているわけでは決してなかった。
「獅子原様も含めて、多くの依頼人は感情の手綱をどうやって握り、どのように社会と関わるべきか苦労なさっている場合が多い。しかし、語弊があるかもしれませんが、それは私のような
「羨ましい?」
「誰かを憎んだり、愛したり、感謝したり。それは人が持つ、世界と繋がる手段の一つではないかと思うのです。社会という集合体に自らを繋ぎ、その中で『個』を発揮する上で、感情の露出はなくてはならないものです」
私にはそれがない――エリーチカは憂うような気配も見せずに、淡々とそう言った。
「涼子先生が居なくなってから、あるいは、再牙が仕事で家を留守にしている時、一人取り残された私はふと考えることがあります。孤立しているのではないかと。世界から切り離されて、いつか誰も私を必要としない日がくるんじゃないかと。誰も、本当は私の事を理解してくれてはいないのではないかと――」
話の途中で、琴美がエリーチカの手を強く握り締めた。祈りを届ける聖女のような目つきと共に。
「そんなことありません」
まだ少しだけ震える声の奥に、揺らぐことのない力強さがあった。
「エリーチカさんは、道を教えてくれました。もうどこにも行けないと思っていた私の足元の先に、まだ続きがあるのだと示してくれました。多分ですけれど、それってエリーチカさんにしかできないことだと思うんです」
「私なんかよりもマインド・マッピングに長けている
「でも、私を救ってくれたのはエリーチカさんです」
関係ない人物の名前など、琴美にとってはどうでも良かった。
大事なのは、誰それの方が上手くやれるといった、効率の話ではなかった。
誰が自分との距離を詰めようとしてくれて、それにどう自分が応えるべきかという事のほうが、琴美にとってはずっと重要な内容だった。
「エリーチカさんは、私の話を真剣に聞いてくれた。それだけじゃなくて、大切な話もしてくれた。それは、上手く言えないですけれど、エリーチカさんがエリーチカさんだからこそ出来る事だと思うんです」
「私が……私だから出来る……?」
「なので、安心してください」
琴美が、涙の痕が色濃く残る白い頬に笑窪をつくり、精一杯の笑顔を浮かべた。
「私には貴方の声、ちゃんと届いていますから」
エリーチカの瞳の奥で、一瞬、明るい色味が浮かんだようだった。
自分よりもはるかに非力な少女から与えられた言葉。
それを人工的に作られた、体の一部として正常に機能している箇所で噛み砕き、飲み込んで吸収しようと務めた。
そうした時、不意に衝動的な想いがエリーチカの体内で湧き上がってきた
固い地面の中で眠っていた産物。掘り当てられた油田のように、高く意識の天井を貫いて迫ってくる精神の波があった。
その波に正しく乗って、言葉を唱えるべきだった。
感謝の言葉を。今こそ伝えようと唇を開きかけた。
「琴――」
静寂を切り裂くように、周辺一帯に響き渡る不可解な警報音が、エリーチカの言葉を掻き消した。
突然として鳴り響く、機械の唸り声とでも言うべき高音域の警報。
それはまさしく、聞いた者の不安感を瞬発的に喚起させる音の暴風だった。
「な、なんですか!?」と、思わず琴美はベンチから腰を上げた。
同じようにエリーチカも、何事かを呟きながら、音の出所である公園脇の警報塔を見つめて立ち上がった。
「第一級都民保護サイレン……」
「え?」
「幻幽都市全域に何らかの武力強襲が発生した際に鳴る
話している最中、遠くで何かが爆発する音が微かに響いた。
その間もサイレンはひっきりなしに鳴り続けた。
自己防衛本能を呼び覚ます奇音を耳にして、余所者である琴美にも、何か途轍もない事態がこの都市で起こっていると、本能的に一瞬で理解した。
「再牙、今どこにいるんですか?」
個人回線チャンネルを開いたエリーチカがこめかみの辺りに手を当てながら、立川市にいる再牙と連絡を取り始めた。
その直後だった。
代わりに、いよいよの生死に関わる緊急案内が流れ始めた。
【大規模テロ情報。大規模テロ情報。我が都市は現在、正体不明の勢力によるテロ攻撃を受けています。都民の皆様はテレビ・ラジオの情報に注意し、最寄りの地下シェルターまで避難してください。繰り返します。我が都市は現在、正体不明の勢力によるテロ攻撃を――】
重力で伝播方向を制御された音の流れは限りなく明瞭で、公園にいる琴美たちはおろか、千代田区一帯にまで、現在都市が襲われている危機的状況を伝達した。
「琴美さん、急いでここから離れましょう」
エリーチカが、やや強めに琴美の腕を引っ張った。
足をもつれさせながらも、慌てた様子で琴美が口を開いた。
「ちょっと待って! 火門さんは!?」
「回線が混雑しているせいで、途中で連絡が切れてしまいました」
「そんな……!」
「大丈夫です。再牙ならきっと無事です。そう信じるしかありません。私たちは早く、近くの地下シェルターまで避難しましょう」
「場所、分かるんですか?」
「無論です。私の
二人はすぐにその場を離れ、徒歩で近くのシェルターまで向かった。
電車やレンタカーは交通の混乱で使い物にならないという、エリーチカの冷静な判断のおかげだった。
しかし、都市を強襲した深刻な暴力の嵐は、一介のアンドロイドや、ましてや碌な力を持たない少女が切り抜けるには、あまりにも陰惨で血に塗れていた。
そのことを、二人の少女はまだ知らない。
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