5-3 銃と少女、熱と狂乱

 新島射撃訓練場は、硝煙の匂いではなく、熟成されたウイスキーの芳香で満たされていた。 

 一歩足を踏み入れば、そこはバーカウンターよろしく、理知的で物腰おだやかそうな男性がバーテン服に身を包み、華麗な手つきでシェイカーを振るっていた。カウンターには色々な年齢層の客が座り、雑談に明け暮れていた。女性客はテーブル席にいる姿が散見されるだけで、琴美と同年代の少女となると、一人もいなかった。

 

 状況はまるで違うが、琴美にはこの雰囲気に見覚えがあった。

 通っていた中学校のことを、嫌でも思い出した。クラスメイトの輪から弾かれ、教師からも相手にされない、辛く苦しい毎日を。

 あの時味わった孤独感と居心地の悪さを胸に抱えながら、琴美は玄関口に立ったまま、店内のあちこちへ視線をやった。


 右奥に伸びるカウンタースペースの棚には、年代物の酒瓶がところ狭しと陳列されていた。窓際に目をやると、往年の名銃のレプリカが壁にいくつも飾られていた。

 内装はウッド調で、シックな雰囲気を醸し出している。

 それほど広くない敷地の割に奥行きが感じられるのは、吹き抜けになっている高い天井のせいだろう。

 店内に流れるのは、昔懐かしいジャズ・クラシック。その豊潤な音色と、各テーブルに置かれたランプシェードの暖光とが相まって、店内は幻想的な空気に満ちていた。

 そして、演出の一環なのだろうか。店内の床一面に白濁した煙が広がっていて、潮に揺られる海藻のように漂っていた。


「どう見ても酒場ですよね? ここ」


 見たままの感想を、琴美が口にした。


「地下に訓練場があるのです。一階部分は、昼間は喫茶店、夜になるとごらんの通りバーになります。ここは射撃訓練場の中でも珍しく、お酒が飲める場所なんですよ」


「悪酔いし過ぎて、乱闘騒ぎが起きなきゃいいですけど」


 お酒を嗜む客人たちの腰や脇の下に吊られたホルスターを見ながら、琴美が困ったような顔で口にした。


「余計な心配はいらないよ、お嬢ちゃん。アタシの店で、そんな無粋な真似はさせないから」


 琴美の腰よりも下のあたりで、中年女性の声が聞こえた。思わず辺りを見回したが、目につくのは歓談に耽る客ばかりで、それらしき人物は見当たらない。


「お久しぶりです、ミセス。お元気でしたか?」


 困惑しきりの琴美の横で急にエリーチカが、足元に漂うドライアイスじみた煙の塊に向かって声をかけた。

 琴美はますます訳が分からなくなった。なぜ彼女がそんな行動に出たのか理解できなかっが、すぐにその答えはやってきた。


「エリーチカ。あんたが身内以外のお客さんを連れてくるなんて、珍しいね」


 こんどは琴美にも、はっきりと声の出所を掴むことができた。その中年女性と思しき声は、間違いなく、足元の煙から発せられていたのだ。

 あまりの事に立ち尽くす琴美の目の前で、煙が糸のように細くたなびき、琴美の視線と同じ高さまで立ち上がってきた。

 ほんの少し、焦げたような香りが琴美の鼻を刺激した。


「こんばんは、お嬢ちゃん。アタシが、この新島射撃訓練場のオーナーを務めている、ミセス・ミストさ。みんな親しみを込めて『ミセス』って呼んでくれる。あんたもそう言ってくれて、構わないよ」


 顔はおろか口と呼べるパーツもないのに、煙が平然と自己紹介をしてきた。琴美は軽く会釈をして、初めまして、と小さく口に出した。ここまでくると、驚きよりも感心の方が勝っていた。


「どこで喋っているんですか?」


 琴美が当たり前のように尋ねると、煙――ミセス・ミストは面白そうに笑った。


「アタシにも分からないんだ。どこで思考しているかも含めてね。ただね、この体も結構便利なものだよ。見ての通りガスだから、お風呂に入る必要もなければ、めんどくさい化粧に時間を取られることもない。気楽なもんだよ」


「でも、お食事とか……」


「固形物は食べられないけど、液体なら問題ないんだよ」


 場の空気を読んだバーテンが、カウンター越しにワインの注がれたグラスを差し出した。すると、煙の一端が手のような形になり、ひょいとグラスを受け取った。


「まぁ見ていてごらん」


 煙の手が動いてグラスが傾き、中を満たしていた赤ワインが零れ落ちる。ワインは床に染みを作ることなく、煙に全て吸収された。ワインのかかった部分から濃い赤紫色に変色し、薄い紅色になり、瞬きを数回しているうちに完全に色が消えた。


「この通り。アタシにとっちゃ、生きるのに必要なのは酒だけってことさね」


「わぁ」


 凄いですと、琴美が興奮した様子で言った。鮮やかなマジック・ショーでも見た心地だった。昂揚した気分に任せるがまま、琴美は更に質問を投げかけた。


「ご結婚されているんですか?」


「ああ、いや。『ミセス』ってのは、この体になる前の名残りでね」


「ミセスの旦那様は、大禍災デザストルが発生した直後に亡くなっています。その際に、ミセスも今の『体』に新しく生まれ変わったのです」


 ミセスの口から過去の話が出る前に、エリーチカが静かに割って入ってきた。事情を察した琴美は小さく「あっ」と口に出すと、申し訳なさそうな顔を浮かべた。


「すみません。立ち入った事をお聞きして……」


「別にいいよ。もう昔の話だからね」


 本当に気にしていないという風に、ミストはあっけらかんとした調子で笑った。


「ちなみに言うと『新島』ってのは、アタシが人間だった頃の苗字なんだよ。この射撃場はもともと、ウチの旦那が経営していたバーだったんだ。それをアナザポリス・チックに改築して、サービス内容を少し変えたというわけ。あぁそうだ、エリーチカ。どうだい久しぶりに。『愛の賛歌』でも歌ってみるかい?」


 煙の一部がまたもや手の形になり、店内の隅に置かれているカラオケ機器を指差した。円型の台の上に置かれたマイクスタンドは綺麗に磨かれ、歌い手の到着をいつまでも待っているかのように見える。


「あんたの歌声、ここしばらく聞いていなかったからさ」


「すみませんミセス。お気持ちは嬉しいのですが、今日はこの方に……獅子原様に射撃を教えてあげる予定なんです」


「なんだ。そっちが目的だったのかい」


「すみません」


「いいよ。気が向いた時に、また歌ってくれればいいからさ」


 お願いを断られても、ミセスは特に機嫌を悪くするでもなかった。穏やかな声の調子から、琴美にもそれが分かった。体はガスでも、ミセスの心は曇りとは無縁でいた。

 琴美が《外界》からの来訪者であることに、ミセスはとっくに気が付いている。それでも彼女は、取り立ててその事を口にしようとはしなかった。ミセスは、相手との距離感を正しく図る術を獲得しているのだ。

 どうやったらそんな気遣いが出来るようになるのか。機会が訪れたらいずれ訊いてみたいと、琴美は本気で思った。


「エリーチカ、好きなだけ使ってくれて構わないからね。あんたと再牙は、アタシにとって特別なお客なんだから」


 ミセスの好意に甘んじて、エリーチカは琴美を連れて店内の一番奥まったところにあるドアへ向かった。地下の射撃訓練場への入り口。未来都市には似つかわしくない、古びた木造りのドアだった。

 エリーチカが、ノブを捻ってドアを開けた。


「歌、お好きなんですか?」


 蝶番の軋む音に混じって、後ろに立つ琴美がエリーチカの耳元で囁くように訊いた。


「特別、好きと言うほどでもありません。好みの度合いで言うなら、野良猫と遊んでいたほうが楽しいです」


 地下に滞留する冷えた空気に身を漬けながら、エリーチカは小声で答えた。予想と違った返答をされて、琴美は少し困った顔を浮かべながら、コンクリート製の階段を一歩一歩下っていった。両側の壁には、剥き出しの電球が括り付けられていて、灰色の階段はぼんやりとした光の中にあった。


「歌う『意味』ならありますが」


「意味?」


「考えてみると、涼子先生の影響があるのかもしれません」


 ふと思い出したように、エリーチカが言った。


「あの人……先生は仕事がオフの日になると、私や再牙を連れてカラオケボックスに行っては、朝方まで歌いっぱなしでしたから」


「元気な人だったんですね」


「ええ。私も再牙も、マイクを握って楽しそうに歌う先生の姿を見ているのが、大好きでした。だから私も、歌うようになったのかもしれません。下手でも下手なりに歌っていれば、先生がどこかで喜んでいるような、そんな気になるんです」


 話しているうちに、足が地面の底についた。またしばらく歩くと、今度は鉄製のドアが目の前に現れた。その見るからに重々しいドアを開けた拍子に、鉄を焼いたような臭いが漏れてきて、琴美は軽く息を止めた。

 地下の射撃訓練場は、天井が低い代わりに横に広かった。加えて、この手の施設が備える電源設備を考えれば、室内に設置された照明の輝度は十分なほどだった。射場は金属製の衝立によってきっちりと区分けされ、全部で二十は存在していた。

 見ると、既に何人の客が練習に取り組んでいた。ハンドガンやライフルの乾いた射撃音が、琴美の鼓膜を鋭く揺さぶる。緊張で、琴美は少しだけ表情筋を固くした。

 緑色の床やクリーム色の壁には跳弾防止加工が施されており、防音、練習弾のバックストップなど、安全面にはそれなりの工夫がされている。よほどの射撃下手でも、大けがを負う危険性はまずなかった。


「じゃあまずは、銃を購入しましょう」


 エリーチカは琴美の手を引いて射場の前を横切っていくと、練習場の一角に置かれた銃の販売スペースへ向かった。

 琴美は思わず、眉をハの字にして怪訝な顔つきになった。販売スペースは実に簡素な造りで広さもないのに、そこに居座る住人の発する気力だけが、やたらと大きく感じたせいだ。

 住人は、枯木のような体躯を覆い隠すかのように、黒いローブを頭からすっぽり被っていた。わずかに覗く顔の下半分には、陰毛のように縮れた白い髭がびっしりと生え茂っている。見るからに老人の風貌であったが、ローブで目元が隠れている分、得体の知れない肉体の持ち主であるようにも見える。


「ちょっとすみません」


 エリーチカは臆することなく、その老人へ声を掛けた。ちらりと視線を上げた老人の顔を見て、思わず琴美は息を呑んだ。老人の顔は右半分が赤く焼け爛れており、その両眼は火のように赤く燃え上がっていた。


「オート・ピストルを一つ、この子に売ってほしいんですけど」


 老人の紅い眼差しが琴美の顔を捉え、次に琴美の細く小さな手に視線を注いで、くいくいっと、これまたローブに包まれた右手の人差し指を軽く動かした。


「手を見せてあげてください」


 老人の奇妙なジェスチャーを、エリーチカが解説する。琴美はおずおずと、利き手である右手の掌を上に向けて、老人へ差し出した。

 老人が、食い入るように琴美の掌に顔を寄せた。生暖かい鼻息が白い皮膚を微かに震わせた。

 老人の燃え上がる眼力を眺めているうちに、琴美は、自らの手が焼かれてしまうような不安を感じた。それでも、ただじっと黙って事の成り行きを見守るに終始した。

 やがて一分ほど見つめたところで、老人が椅子からすっくと立ちあがった。そうして、背後に陳列されている銃器類の棚へ向かい、その中の一つの引き出しを開けると、中身の入ったケースをそのまま台の上に置いた。


 ケースの中には、黒いフレームに覆われた自動拳銃と、皮製のホルスター、予備のマガジンがワン・セットとなって収められていた。どうやら老人は琴美の手の形や皺の深さを見て、彼女が一番扱いやすい拳銃をセレクトしたらしかった。


「いくらですか?」


 エリーチカが尋ねると、老人は右手の指をしっかり三本出してみせた。三千都円のジェスチャーだ。

 もしかしてこの老人は、何かの理由があって喋ることができないのだろうか。そんな事を琴美が考えていた時だった。


「獅子原様、あとで立て替えておきますから、支払いをお願いできますか?」


 言われるがまま、琴美は肩から下げたショルダーバッグから財布を取り出し、金を払った。ケースを両手で抱えてその場を後にしても、老人は軽く頭を下げるだけで、一言も、何も口にしなかった。


「それじゃあ準備も揃った事ですし、まずは私がお手本を見せますね」


 老人の放つ不気味な雰囲気に未だに気を囚われていた琴美は、その一言で現実に返った。エリーチカはすでに、空いている射場の一つに入っていた。

 彼女は衝立に掛けられていたヘッドホン型聴覚保護器具を被ると、右足の大腿部を右手で撫でるように軽く叩いた。すると、大腿部の一部がスライドし、中から口径九ミリの自動拳銃が飛び出し、吸い寄せられるようにエリーチカの右手に収まった。

 そんなところに隠し持っていたとは露ほども思っていなかったから、琴美は少し驚いた。


「慣れていないうちは、両手でグリップを握って撃つのが一番です」


 エリーチカは射場の左後ろに設置されている電子標的操作装置の方を向くと、少しだけ錆の痕跡が残る装置のボタンを強めに押し込んだ。

 十メートルばかり先で、ガコンと何かが動く音がした。琴美が音のした方へ目を向けると、円形の的が下からゆっくりと立ち上がってきたところだった。

 その練習的はプラスチック製で、形状はアーチェリーに使われる標的的に似てカラフルに染められており、外側から内側に向かって円周が短くなっていた。

 エリーチカが銃のスライドを目一杯に引きながら、練習開始の合図を口にした。


「では、いきますね。よく見ていてください」


 エリーチカが銃を構えた。ただでさえ感情の見えない瞳が、さらに冷たさを増したようだった。両肩と両手で、ちょうど二等辺三角形を作るような姿勢で、彼女は銃の照門越しに標的を睨みつけた。離れて見守る琴美にまで、緊迫感が伝わってくるような空気感があった。


 パン、と乾いた音が鳴った。エリーチカは落ち着いた素振りで、一定のタイミングを維持しながらトリガーを引いていった。薬莢がリズミカルに排出されて床を叩き、練習的の中心部に次々と銃痕が穿たれていった。

 六発撃ち終えたところで、エリーチカは姿勢を解いた。一発もミス・ショットはなかった。反動による射線のズレも、撃ちながら見事に修正されていた。

 堅実な銃捌きを前に、琴美は感嘆交じりに溜息をつくほか無かった。


 エリーチカが操作装置のボタンを押した。撃ち抜かれた練習的が奥に倒れ込み、また新たな的が下から立ち上がってきた。


「それでは獅子原様、どうぞ。今度は貴方の番ですよ」


 エリーチカがヘッドホン型聴覚保護器具を取り外して衝立に掛けた。ケースに収められた銃器一式を持って、琴美は射場に足を踏み入れた。女の子二人が入っても、射場の広さにはまだ辛うじて余裕があった。


「多分大丈夫だと思うんですが、拳銃を握ってみてくれませんか。手のサイズに合っているかどうか、確認してください」


 琴美は言われた通りにした。操作装置の上にケースを置くと、その黒光りする自衛のための凶器を手に取った。実際手に持ってみると、見た目からは分からない感触が伝わってきた。拳銃は鋼のように重く、そして冷たかった。

 グリップを握り締めれば締めるほど、今からこれを、他ならぬ己の手で撃つのだと、心の底からそう思えた。緊張感はあったが、それでも恐怖心が芽吹かないことを、琴美は自分でも不思議に感じた。


「違和感はないですか?」


 やや強張った顔で、琴美は頷いた。


「では、まずはじめに、射撃の姿勢を覚えましょう」


 練習的の方向を向いた琴美に、後ろから覆い被さるようにしてエリーチカがぴたりとくっついた。さながら二人羽織のようだった。


「両足を肩幅程度に広げて、肘と膝は伸ばしきらずに若干曲げてください……はい、そうです。琴美さんは右手が利き腕ですから、右足は半歩後ろに下げて……上半身はかるく前傾姿勢で……そう……重心はやや前方向に……」


 エリーチカはスタンディングの基本を口にしながら、琴美の膝や肘に触れて動かし、位置を微調整していった。

 琴美は言われるがままに従った。自分の体が、それまで経験したこともない姿勢をとるにつれ、意識さえも変革していくようだった。非日常的な都市に潜り込んで、これこそまさに非日常的な体験だと身に染みて感じた。


「銃と利き手の手首が同一直線上にあるような形でグリップを握ってください。両手で握りますが、包み込むような感じを忘れないで。右手の親指はフレームにぴったりと付けて。左手の人差し指は、トリガーガードに密着させてください。そうすると、安定した形になります」


 指示通りに形を整えていく。エリーチカがそうであったように、琴美の射撃姿勢もまた、両肩と両手で二等辺三角形をつくる形になった。


「撃つときは、どこを基準にすればいいんですか?」


 十メートル先の練習的を見据えたまま、琴美がここにきて初めて質問を寄こした。


「フロントサイトを見てください」と言って、エリーチカが銃口部付近の突起部を、ちょんちょんと触った。


「右目でフロントサイドの頂点を確認して、標的に合わせるのです」


「はい」


「それともう一つ。決して躊躇うことなく引き金を引いてください」


「分かりました」


 そうして基本的な内容を教え終えると、エリーチカは琴美の背中から離れ、射場を出て行った。

 自由になった背後の空間から、突然として寂しさが襲ってくるようだった。そんな気分を紛らわしたくて、琴美はそそくさと聴覚保護器具を頭に被った。

 フロントサイト越しに練習的を見据えてから、琴美は右手の人差し指で思い切り引き金を絞った。

 くぐもる発砲音。鉄の焼けた匂いが鼻腔を通じて、脳髄にピリピリと沁み込んだ。的の中心点を狙ったはずが、当たった場所は大きく右に逸れていた。


「撃った直後に、頭が右方向に傾いてしまっています。反動に臆することなく、撃った後も姿勢を崩さないのがポイントですよ」


 エリーチカは琴美のミス・ショットを咎めようともせず、的確なアドバイスを送った。それが琴美にとってはなによりも嬉しく、安心した。

 どうしてそんなに要領が悪いのだとか、一度教えたのにもう忘れたのかといった、学校の先生やクラスメイトが容赦なく浴びせてくる非難の言葉と比べれは、エリーチカが口に出す台詞はずっと暖かさに満ちていた。


 琴美は再度フォームを確かめると、エリーチカに教わった通りの形を崩さないよう、銃口を定めた。そうすると、これは自分の武器で、自分にしか操れない道具なのだという意識が、彼女の中で呼び起された。


 引き金を引いて、二発目の弾丸が発射された。今度はさっきよりも中心に近づいたが、それでもど真ん中を貫くには至らなかった。何が悪いのか考えながら、琴美はエリーチカの言葉を待った。

 しかし、エリーチカの助言は飛んでこない。一瞬不安になったが、琴美はすぐに気持ちを切り替えた。あなたなら出来るという無言の叱咤激励を、背中に感じ取ったせいだった。


 まだ何かが足りないという自覚はあった。その足りなさを考えながら、琴美は息を吸い、吐く動作を繰り返した。それが自然な所作であると、頭の片隅では既に理解していた。

 環境への柔軟な適応。それを発揮する。自分という存在を希薄化させて、銃の側に寄り添う。

 この銃は、どんな風に扱われたがっているかを、必死に想像する。そうして呼吸を整えている最中、琴美は無意識に引き金を引いていた。


 三度目の発砲。

 それは見事に、的の中心を撃ち抜いていた。


「呼吸を整えてから撃つ。練習だろうと実戦だろうと、射撃にはこれが肝心なのです。実にお見事です。獅子原様は、結構飲み込みが早い方なのですね」


 コツを自然と取得した琴美に向けられたその賛辞も、どういう訳か、当の琴美自身にはあまり響いては来なかった。遠い場所から聞こえてくる風のような音だと思った。

 琴美は「ありがとう」とも何も言わず、何度も、一定のリズムを意識しながら引き金を引いていった。銃弾が次々と力強く、練習的の中心点を砕いていった。

 手に握る冷たい鋼が、じんわりと熱を帯び始めた。内部に溜まるその熱が、グリップ部に接触しているか弱い手を通じ、細い腕に流れ込み、赤い心臓に届いていった。


「それじゃ、二週目と行きましょう」


 あらかた撃ち終えたところで、エリーチカが操作装置のボタンを押し、新品の練習的を呼び出した。

 その間も、琴美は石像のように動かず、射撃の姿勢を維持し続けた。それが自分の正しい姿だと思い込んだ。マガジンにはまだ弾薬がたっぷりと詰まっていて、交換するには早かった。


 撃ちながら、琴美はエリーチカがさきほど口にした台詞を思い出していた。

 飲み込みが早い――しかしながら《外界》にいた頃は、他人からそんな言葉をかけられたことなど、一度もなかった。

 不器用で臆病な性格だと自覚していた。教師やクラスメイトが散々そう口にしてくるから、それが『自分の本当の姿なのだ』と、思い込むようになった。

 だから哀しい気分にはなっても、感情はそれ以上、臨界点を迎えることはなかった。

 だが、今はまた別の思いがあった。トリガーを引くたび、薬莢が床を打つたび、硝煙がたなびくたび、銃撃の『心地よい音色』を耳にするたび、その思いはますます強くなって止まらなかった。


 力を手にしたという実感。

 これで、見返せる・・・・・・・・


 撃ちながら、琴美は見た。

 練習的に重なるように朧げに姿を見せる、クラスメイトや教師たちの姿を。

 現実離れした残像。銃という武器を手に入れたことで喚起された幻覚だ。

 だが、その幻覚を振り払おうともせず、琴美は練習的を――そこに浮かぶクラスメイトや教師たち目がけて、ためらいもせずに銃口から火を吹かせた。

 撃って撃って、ただひたすらに撃ち続けた。

 心の底に汚泥のように溜まり続けた穢れを、弾丸に変えて吐き出し続けた。

 それこそ、隠れていた精神状態の一端が表面化した瞬間だった。

 それを封じ込める気は、もう琴美にはなかった。

 止めようがなかった。

 いや、止める気がなかった。


 幻聴が聞こえる。クラスメイトの絶叫。

 幻影がえる。教師の怯える表情。

 彼らの全身は銃弾が放つ熱に焼かれ、その凄まじい回転力に甚振られ、夥しい血を流してボロ雑巾と化していった。

 それを見下ろす自分がいると自覚すれば、なんとも心地良くて、琴美はたまらない歓喜に震えた。

 手に握り締める鋼は熱そのものとなって、体内の奥深くにまで食い込み、想像以上の万能感を生み出している。

 さながら、一塊の爆炎になった気分だった。

 道を塞ぐ全ての障害を薙ぎ払う炎の嵐に。

 自分は、それだけの大きな存在になれたのだと錯覚したまま、琴美は頭の中で高笑いを響かせた。


――愉しい! 愉しい! 愉しい!


 口角が自然と上がった。熱い息が唇から零れた。

 彼女はただひたすらに、内に秘められた残虐性に恍惚とした。

 かつて味わったことのない快感に全身を震えさせた。

 これさえあれば、自分を取り巻いている世界すら変えられるという確信すら抱いた。


――どうだ。思い知ったか。

――これが私の力だ。私だけの力だ・・・・・・

――お前たちが一生かかっても手に入れられない、私が獲得した力だ。


 幻視した世界で殺戮の限りを尽くして、それでもまだ足りないと、琴美は飢えるようにしてトリガーに指をかけ続けた。

 だが、もう何十発目になるか分からない弾丸を撃ち出そうとした瞬間、肩透かしを食らったような音が銃口から漏れた。何度引き金を引いても空砲に終わる。マガジンが空になったことの証だった。

 琴美は――それまで彼女がそんな態度を見せたことなど一度も無かったのだが――乱暴に舌打ちをすると空になったマガジンを排出した。

 そうして、背後に佇むエリーチカの視線にすら気づかないまま、ケースの中から残りのマガジンを引ったくるように手に取り、待ちきれないとばかりに装填。次いで、壊れるかと思うほど、力強く操作装置のボタンを押した。新たな練習的が出てきた。

 スライドを力一杯に引っ張り、琴美は俊敏に構えをとった。

 そしてまた、あの愉悦に塗れた世界に飛び込もうとした時だった。


「……!」


 衝撃で、息が詰まった。

 激しい興奮と湧き上がる黒い感情の渦が交錯。

 感情のもつれが琴美の脳に働きかけた結果、練習的に新たな幻覚を貼り付かせていた。


 黒縁の眼鏡。少し白髪の混じった黒髪。

 憂うような目線。線の細い体。仕事帰りのスーツ姿。

 どれも、幼いころの琴美の記憶に焼き付いて離れようともしない、懐かしい人。


 生前の獅子原錠一。

 その幻が生み出された。


 琴美は震えながら拳銃を持ち上げ、自らの心から飛び出してきた相手を睨みつけて、怒濤の勢いで拳銃のトリガーを引いた。


――あんたのせいだ!


 呼吸を整えるのも忘れて、フォームが崩れていくのも気に留めず、琴美は、今度こそ本当の意味でがむしゃらに撃ちまくった。

 自らの力に酔いしれている余裕などなかった。

 ただ、凄絶な憎しみと怒りを叩きつけるためだけに、実の父親の幻影へ目がけて、銃火を迸らせていった。


――あんたが、勝手に家を出て行ったから……!


 さっきまでの命中率が嘘のように、銃弾は一発として的に当たらなかった。

 どれだけ鋼の暴力装置が熱を滾らせようとも、どれだけ薬莢を排出しようとも、狙いが定まることはなかった。


――あんたのせいでお母さんは死んだ! あんたのせいで私はこう・・なったっ!


 それでも、必死になって琴美は撃ち続けた。

 撃つたびに銃の熱さが手に伝わり、心を焼き尽くしていった。


 ふいに涙がこぼれた。

 それに何の意味があるのかすら分からなかった。

 ただ、想い出の中の父を撃ち殺したい感情に支配されるがままだった。

 滲む視界の中で、琴美は武器を手に、幻の父と向き合い続けた。


――全部あんたのせいだ!


 何発も撃ち込んでいるうちに、指先の感覚が麻痺していった。

 肩や腰に不必要な力が入り過ぎたせいで、琴美の小さな体は限界を迎えていた。

 無意識の奥底に隠していた醜い心。精神が、途轍もない疲弊に苛まれていく。


 小さな唇から、嗚咽が漏れる。

 腕の力が抜け、拳銃が床に落ちる。

 琴美は膝から崩れるようにして、その場に両手をついて、さめざめと泣き出した。


「獅子原様、大丈夫ですか?」


 射場の外で一部始終を見届けていたエリーチカが、射場に入って琴美の肩に手を置いた。

 それでも琴美の涙は止まらなかった。


 他の客たちが奏でる発砲音を、衝立越しに耳にする。

 ついでに自分も撃ち殺して欲しいと、琴美は半ば本気でそう願った。

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