6-11 獅子原琴美の意地
「獅子原様、何しているんですか! 馬鹿な真似はやめてください!」
抑揚をおさえ、それでいながら大きな声でエリーチカが叫ぶ。
だが、頑として琴美はその場から動こうともせず、握った鋼の照門越しに人生最大の危機を睨みつけていた。
その瞳に憎悪の感情は微塵もなく、また怒りとも違うものが、冬の湖面のように揺らいでいる。
分かっている。エリーチカが言っている事の意味は、十分に理解出来ている。
自分がいま、どれだけ愚かしい行為をしようとしているのかは、他ならぬ彼女自身が承知している。
だが理解に任せて、エリーチカの言葉通りの行動に移るのは、どうしようもなく
そんなことをしたら、きっと自分で自分を許せなくなると思った。
キリキックは鼠でも見るかのような態度で、グリップを固く握り締める琴美の姿をじっと観察していた。
残虐心に火が点きこそはすれども、怪物が右腕の凶器を向けることはなかった。
そんな労力を割く価値を、この子羊は持っていないと決めてかかっていた。
琴美は、相手の出方に構わず撃った。
またもやキリキックの鋼皮に弾丸が弾かれた。
それでも撃った。
撃ちながら
エリーチカがキリキックへ勇敢にも立ち向かい、死力の限りを尽くし戦い、敗れるまでの一連の光景が、一枚のタペストリーのように琴美の脳裡で翻った。
彼女は自分の為に傷ついたのだという事実が、心の奥深くに突き刺さった。
無意識のうちに、血が滲むほどに唇を噛み締めた。
今までの生き方をはげしく後悔しながら、彼女の精神はこの時にあって、著しい更新を成し遂げようとしていた。
なぜもっと早くに、大切な事に気づけなかったのか。
自分が本当は、心の奥底で何を望んでいたか。
それを叶える為にはどうすれば良いか、どうして知ろうとしなかったのか。
本当の願い――琴美はずっと『何か』を欲しがっていた。
何の予兆もなく喪われた愛情の代わりになるものを。
それこそ、力なのだと彼女は確信した。
ただしそれは、敵を打ち倒し、血の川をつくるための物理的力ではない。
種類が違った。
つまり求めるのは勇気であり、知恵であり、なによりも謙虚さなのだと、今なら完璧に分かった。
険しい山脈でも、必要な道具さえ揃えれば登頂が可能であることを、心の底から受け入れられた。
思えば、与えられ続けてきた人生だと回想する。
母と父の手で生命を与えられ、住むところも着るものも、食べ物だって初めから用意されていた。
健全な成長を積むのに適した環境があった。
それらは他ならぬ自分のために、物心つく前からあつらえられていた。
そこにずっと胡坐を掻き続けていた。
至極、当然の事として。
再牙とエリーチカは、働いてくれている。
こんなちっぽけな一人の少女の為に。
掘削痕の目立つ暗い穴を、なんとかして輝かせようと、彼らはあらゆる方面に手を尽くしてくれている。
エリーチカに至っては、自分の醜い心を理解しようとまでしてくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。恵まれているとも思った。
だからこそ、琴美は歯痒いほどに実感した。
一方的に与えられるだけで、終わって良いはずがないと。
ただ消費を続けていくだけの人生――そこに謙虚さなど微塵もない。
傲慢だけが卑しくも育ち、与えられて当然という気持ちだけが増長する。
その結果として、足を腐らせていくのだろう。困難に立ち向かうための足を。
世界には、足が腐った者が大勢いるに違いない。
自分はそうはなりたくないと、琴美は強く思った。
誰かが用意してくれた安心感に一生身を預けっぱなしにして、腐りきった体と心のまま棺桶の中に押し込まれ、焼き捨てられるなど御免だと思えた。
何時までも殻に閉じこもっている場合ではなかった。
未知の世界を怖がっている暇などないのだ。
決然と生存の意志を突き出し、細い腕を高く掲げるべきだった。
自分はここにいるぞと、立ちはだかる困難に向かって、精一杯に叫ぶ時がきたのだ。
その場しのぎで、
でもそんなのは、もう沢山だ。
意志の光片を、心の闇に閉じ込め続ける人生と、確かに決別を迎える時がきたのだ。
みじめな気持ちのまま死にたくはなかった。
爪痕だけでも残せれば上出来だと開き直って、引き金を絞り、盛大にマズルフラッシュを焚き続けた。
弾丸の先に、クラスメイトや教師はおろか、憎かったはずの父の幻影すらも浮かんではこなかった。
余計な念は何もなかった。
感じるのは寄り添うような銃の熱さと重みだけだったが、そのことを実感しても、射撃場で思い知らされた忌まわしい体験を呼び起こすことはなかった。
あの時は、鋼が蓄える熱と炎に自身の肉体が侵されていく不気味な感覚に支配され、我を忘れた。
しかし今は違うと、本心から断言できた。
撃ち尽くして、弾倉が空になった。
銃撃が止んでも、キリキックは特に動きを見せないでいる。まるで鋼の巨人だ。
だがそう思いきや、突如としてその褐色の相貌が欣喜に染まり、病を患った犬のように眼光を狂おしくぎらつかせた。
「そんなに死にてぇんなら、先にテメェの葬式を上げてやるよ」
ずしり、とアスファルトを力強く踏みしめながら、琴美へにじり寄るキリキック。
近づく暴力の塊を前にしながら、琴美は呼吸を乱さぬよう意識を集中させ、肩から下げたポーチからマガジンを取り出し、慣れない手つきで装填。
すかさず引き金を引いて、そして後ろに
まるで、相手と自分との距離を測る様に。
いや、どこかへ誘い込むかのように。
「獅子原様、まさか……」
出力の落ちている
琴美が何を為そうとしているか。その時には、もう大声でキリキックを挑発していた。
「筋肉だるま! 私はまだ生きているぞ! さっさと私を破壊しろ!」
だが獰猛な狩人は、新たな獲物を狩るのに夢中だった。
引き寄せられていると分かって、なお彼は琴美の誘いに従った。
羊を怖がる狩猟者などいない。
今の琴美は銃を握ってこそすれ、莫大な暴力を抱えたキリキックにしてみれば、喰われる側のラインにぽつねんと立ち尽くす弱者だった。
断続的に撃ちながら下がる琴美。
その小さなかかとが、十字路を挟んだ反対側の歩道に差し掛かった時だった。
我慢できないとばかりに、キリキックが頭から突撃してきた。
瞬きをした瞬間には、もう目の前にいた。
思わず瞠目し、唖然となった。
死が輪郭を強調して迫っていた。
それでも琴美は、言語化しがたいほどの恐怖心が湧き上がるのを理性の蓋で必死に抑え込み、目線の位置に――キリキックの分厚い胸板に、至近距離から銃弾を叩き込もうとした。
引き金を押し込もうとした時だった。
天地が逆さまになった。
闇の大空をバックに、キリキックの剃刀のような笑みがこちらを見下ろしていた。
冷たく、ささくれ立った痛みを背中越しに感じる。
琴美はそこでようやく、自分の矮小な体が、キリキックの鉄の皿じみた膝で蹴り飛ばされたのだと悟った。
立ち上がろうとしたが、それよりも息が詰まって仕方なかった。
息を整えようと、胸に力を入れようとするが、上手くいかない。
だから一息に全身に力を込めた時、異変は吐血という形になって現れた。
瞬間、夢から醒めたかのように、猛烈な痛みが琴美の全身に食らいついてきた。
「獅子原様!」
上半身だけになったエリーチカも、そのおぞましい光景を確かに目撃してしまった。
まるで吐瀉物じみた勢いで、粘ついた血を涙目で吐き続ける琴美の姿を。
左側の肺が完璧に潰れてしまい、右の肺にも損傷があった。
肋骨も何本か折れていた。
それまでもまだ命の火が消えていないことを、死の淵に立ちながらも琴美は不思議に思った。
「おお? 俺の膝蹴りで死なねぇとは、一般人にしては中々根性あるじゃねぇか」
嘲りながら、キリキックがぴゅうと口笛を吹いた。
琴美の双眸から、どんどん光が喪われていく。
手に握っていたはずの銃は蹴られた時に離れて、あらぬ場所に落ちていた。
痛みが徐々に引いていく。
代わりに、全身の感覚が沼地に絡めとられたかのように鈍り、頭の中に霞が掛かっていく。
それでも、気力を振り絞って震えるように目を動かす。
キリキックが口角を鋭く上げて、凶悪に染まった右腕を振り下ろそうとする光景が目に入った。
視界の端で、エリーチカが何かを叫んでいた。
――その時、青白い銃撃がどこからともなく巻き起こり、琴美の耳に突然の残響をもたらした。
荷電粒子弾の強襲である。
青白い弾丸が飛来する先に立つは、褐色の鬼人。キリキックがいた。
ところがキリキックは、まるでこの展開を予期していたかのように、素早く腕を十字に構えて顔面をガードすると、全身の筋肉をポンプで水でも汲むように収縮してみせた。
膨大な圧力が鎧じみた肉の内側から生じ、それは防御力してほとんど完璧に機能していた。
事実、銃弾はキリキックの肌を削り取るまでは成功していたが、強靭な人工筋肉を撃ち抜くには及ばなかった。
だがしかし、銃撃は止まらない。それどころか、キリキックが琴美から離れた途端、銃撃の勢いが増すほどだった。
熱が渦巻く戦闘領域。キリキックはバックステップを繰り返しながら、身を隠せる場所はないかと、目ざとく周囲を観察した。
そうして、見つけた。シャッターの降ろされた、
躊躇なく、そこに向かってキリキックは渾身の体当たりをぶちかました。
爆撃でも喰らったかのように店内が破壊され、マイクロレンチやレーザー・バーナーといった品々が激しく床を転がり、茫漠とした鉄くずが車道にまで散らばった。
銃撃が止んだ。
闇に浮くような褐色の巨体がむくりと起き上がった。
床に倒れた棚やディスプレイを足で乱雑に蹴り分けながら入り口付近にまで歩み寄ると、キリキックは電子の眼で外の様子を伺った。
不穏な気配と、その気配の主たる戦士たちの姿を、そこではっきりと目にした。
キリキックは視覚範囲を更に拡大させた。
スキャンした建物の向こう側。
アンドロイドと少女が、駆けつけてきた隊員たちに囲まれて応急処置を受けている様子が把握された。
「テロリストに告ぐ。貴様に選択の余地はない。このまま抵抗を続ける気なら、問答無用で射殺する」
小型拡声マイクを口元に当てて、部隊長らしき人物が憤然とした意気を込めて告げた。
利発そうな女のものと思しき声で。
しかしそんな形通りの脅し文句を聞き流しながら、キリキックはこの状況を危機とは思わなかった。
むしろ好機であり、それはあの子羊の策に乗って掴んだ結果であると感じていた。
「ヘイヘイヘイ、子羊ちゃんよ。残念だったなぁ! こいつぁ俺の狙い通りだ!」
相手に聞こえていようといまいと関係は無かった。
喉元に埋め込まれた拡声装置で
「あの十字路の隅っこで
隊員たちが何人か、互いに顔を見合わせ困惑の仕草を見せている。
キリキックの言葉の意味が、よく掴めていないせいだった。
それも当然だった。
彼らは、キリキック達に課せられた
首元のチョーカーに干渉し、残りのノルマを確認しながら、外にいる隊員たちを数える。
ノルマの達成どころかお釣りが舞い込んでくるくらいの人数がいると知り、ますますの喜びに逞しい肉体を震わせる。
並みの悪党が真正面からやり合って、勝てる状況ではない。
しかし、キリキックの秘めし『暴力』は並ではない。
現にこれまで、数百人以上もの隊員をたった一人で屠り去り、自身の何倍の大きさもある多脚式戦車でさえ、赤子の手を捻る様にして破壊してきたのだ。
強者相手に殺し合いを演じ、生き抜いてきたという経験から生み出された、揺ぎ無い自負心。
それこそが、全身に施された強化手術よりも何よりも、キリキックのプライドを支えていた。
「ありがたく思えよ。今からテメェらを、ミタラシフグの刺身を贅沢に食うみたいに纏めて――」
後に続くはずだった挑発の
直感する――何者かが乱入してきた――考えるより先に体が動いていた。
ほとんど反射的にキリキックは振り向きながら、身を屈めつつ距離を測り、戦闘態勢へ移ろうとした。
だがしかし、その際に生じたほんの僅かな間隙を突いて、思いもよらぬ事態が彼を襲った。
激烈に硬く、それでいて恐ろしい程の重量が、顔面の中心をぶち抜いてきたのだ。
大気を震動させるほどの拳打――意識が吹っ飛びかねない程の衝撃が脳を揺らす。
あらん限りの暴力の渦が、巨獣じみたキリキックの躰を派手に吹き飛ばしてみせた。
車道を挟んで反対側にあるコンビニエンスストアまで、迷うことなく一直線に。
防弾ガラスが盛大に割れて、破片の絨毯を作った。
キリキックは混濁した意識のまま、陳列棚と一纏めになって床に倒れ伏した。
▲
信じられない出来事が今、まさに目の前で起こった。
キリキックの立てこもる
それゆえに意識の半分を、ふっ飛ばされたキリキックへと向けつつ、もう半分の意識を工具店から姿を見せた人物に持っていかれてしまったのは、当然の成り行きとも言えた。
乱入者の正体――黄色いロングコートを羽織った、一人の青年だった。
剃刀の鋭利さを思わせる銀の短髪――顔に刻まれた深い刀疵――両拳に装着された、闇色のガントレット――戦車砲を思わせる闘気を漲らせ、男の双眸は蒼い輝きに満ちていた。
うっかり触れようとするものなら、木っ端微塵に吹き飛んでしまいかねない程の力のうねりを発散しつつ、たった今破壊したばかりのコンビニエンスストアに向かって、乱入してきた男は真っ直ぐに歩みを進めた。
男は、周囲を武装した甲冑姿の戦士たちに取り囲まれているにも関わらず、まるでそちらを見ようともしなかった。
敵意と怒りの混在する眼光が見据えるのは、ただ一つ。
大切な相棒と、依頼人を手にかけようとした、褐色の鬼人だけ。
「再牙……」
運ばれてきたストレッチャーに乗せられたエリーチカが、男の名を遠くから呟いた。
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