7-2 少女の祈り

「火門さん!」


 扉の向こうから見知った顔の人物が現れた時、琴美は心から安堵すると同時に、はじけるようにして大声を上げていた。

 休養室に置かれたベッドから跳び上がり、適当に読んでいた雑誌も放り投げて駆け寄る。


「元気そうで何よりだ」


「無事だったんですね」


「何とかな。エリーチカの奴はどこに?」


「今は修理中みたいです。損傷は激しいけど、命に別状は無いって、さっき機関員の方が仰ってました」


 ところでと、琴美は再牙の背後に立つ大嶽をちらりと見上げて、遠慮がちに再牙へ訪ねた。

 ある意味、大嶽の顔つきも再牙に負けず劣らず奇抜であるから、年頃の女の子には少々刺激があるのかもしれない。

 だが、幻幽都市の痛烈な洗礼を幾度となく浴びた琴美にしてみれば、今さら顔の右半分が金属で覆われた人の姿を見ても、別にこれといった驚きを抱くことはなかった。


「そちらの方は?」


「ああ、えっと」


「再牙」


 何から説明しようか迷っている再牙の肩を、大嶽がポンと叩いて、わざと琴美に聞こえる大きさで声を発した。


「先に第三ヘリポートに向かっているから。場所は最上階。行き方は、あの頃と変わっていない。用が済んだら来てくれよ」


「ああ、分かった」


 大嶽が出て行くのを確認すると、再牙は琴美にベッドに座るように促し、自身は近くに置かれた丸椅子を引き寄せて、対面になるように腰かけた。


「君に、話さなければならないことがある」


 重圧から解放されたような再牙の声色を耳にして、琴美は何となく察した。

 これから彼が話すであろう内容について。


 思わず、息を呑んだ。


「もしかして、父の事について何か分かったんですか?」


「まぁな。ただ……ちょっと今は立て込んでいてな。悪いんだが、要点だけ話させてもらう」


 そう口にしながら、再牙はオルガンチノのポケットからボロボロの手帳を取り出した。


「ホワイトブラッド・セル・カンパニーの跡地で見つけた。お父さんの私物だ。中に、写真が挟まっている」


 琴美は、大切な物でも扱うかのように、恐る恐る再牙から手帳を受け取った。

 少女の小さな掌には少し大きすぎた、父の遺品。

 錠一の激しい哀切と共に忘れ去られたそれは、ようやくこの時、望ましい者の手へと渡った。


 琴美の表情は、誰が見てもわかるくらいに緊張していた。

 瞬きの回数も少ない。

 これから再牙の口を通じて伝えられる真実を正しく受け止められるのかどうか、自問自答しているようでさえある。


 やがて、覚悟を決めたのか。

 煤けた手帳の表紙に視線を落としていた琴美の手が、重い扉を押し開けるように、ゆっくりと動いた。

 ページを破らぬように黄色く変色した紙を、静かに捲っていく。


 沈黙漂う中、琴美の指が、ある一点で止まった。

 変色したセロハンで固定された、記憶にはない写真。

 そこに笑っている父の顔を見止めた。

 その手に、幼い琴美が抱かれている。


「俺が掴んだ事実を、全て話す」


 再牙の報告は、実に慎重を極めていた。

 いつもより、ずっと低く、だがはっきりとした発声。

 正しい場面で、正しい言葉を使わなければという責任感が込められた声。


 琴美の父がこの街に来た理由。

 家族を置いてまで、そうしなければならなかった理由。

 彼の手帳を危険区域に指定されている施設跡から発見できた理由。

 その一つ一つを、編み物でも編むかのように、しっかりと道筋を立てて説明する。


 再牙の話が終わるまで琴美は微動だにせず、感情波打つ瞳で写真を見つめていた。


 種々の理由の背景には、複雑に絡まる人間の心理があった。

 その心理を事細かく拾い集めて憶測を述べる事を、再牙はしなかった。

 きっと錠一氏はこう思っていたんだろうとか、こうしたかったに違いないとか、そんな意見を述べることに何の価値もないことを、彼は知っている。


 重要なのは、事実を伝えられた側である琴美がどうやって立ち上がり、歩いていくかだ。

 彼女が己の運命に対し、どのような向き合い方を選択するのか。

 それを見届ける義務が、彼にはある。


「父は……そうだったんですか。母の、ために」


 やがて全てを伝え終わった時、魂を絞るような声が琴美の口から零れ落ちた。

 再牙から聞いた言葉を、彼女は頭の中で何度も反芻する。

 言葉の意味の一つ一つを、必死になって探り、事実の大きさを正確に測ろうと努力する。


「私の……ために……」


 目を閉じる。唇を結ぶ。

 まるで苦行に耐え抜く修行僧のように。

 ただ心の赴くままに、彼女は記憶の海に没入した。


 家族三人で過ごした、穏やかな日々。

 平凡にして幸せな日常が、あっけなく崩壊した。


 ばらばらに砕けた想い出の海を、彼女はもがき、苦しみながらも、足掻いて足掻いて泳ぎ続ける。

 深海のように凍える悲壮感が消えないわけではない。

 大切な何かを失った哀しみは、二度と消えない。

 どれだけ時間が経とうとも、それは当事者の深いところで、ずっと根を下ろし続ける。


 決して癒えぬ傷痕に、毅然として立ち向かうのは骨が折れるどころの話ではない。

 己の過去に降りかかった災難から目を反らし、できれば無かったことにしたいと願うのは、人の業でもあり普遍的な一面だ。

 だからこそ、逃げることは許されないのだ。

 どんなに辛くとも過去を真正面から受け止めなければ、いずれにしろ、待っているのは灰色の未来だけだ。


 ――お前は、誰かに愛されなければ誰かを愛せないのか? 


 ――父に愛されたという実感がなければ、父を恨むか?


 終わらぬ問いかけが、いつも呪いのように少女の脳裏に潜んでいた。

 父へ向ける愛情と憎悪。反発する二つの感情。

 それが、自身の心の方向性を狂わせ続けていた。


 果たして、真に父へ向けるべき感情はどちらなのか。

 それを見定める鍵は一人の万屋の努力の甲斐もあって手に入り、あとは琴美自身の手で鍵穴に差し込むだけだった。


 それでよかった。

 本当に、それだけで。


「……お父さん・・・・……」


 情けなく背中を丸め、声にならない声を上げる琴美。

 彼女が本来あるべき姿だった。

 十五歳の少女が、本当の意味で、心に閉じ込めていた感情を爆発させた瞬間だった。


 少女の細い肩が小刻みに震え、写真に滴がひたひたと落ちる様子を、再牙は神妙な面持ちで見守っていた。

 琴美から依頼内容を初めて聞かされた時に浮かんだ一つの疑問。

 ずっと頭の片隅にこびりついて離れなかったそれが、自然と氷解していくのを感じた。


 自分の親が何者かに殺され、しかも犯人が逮捕されていない。

 この状況なら普通、犯人を捕まえて欲しいとか、犯人に制裁を加えて欲しいなどの依頼内容になるはずだ。


 だが、琴美の場合は違った。 

 彼女は犯人を逮捕することより、父の足跡を知りたいと願った。


 知ってどうするのか。他にやるべきことがあるのではないか。

 そこに思考を至らせれば、彼女の抱えている暗い影が見えてきた。


 されども、これでようやく、ここにきてやっと。

 彼女の心の内に、暖かい日が差し込んできた。


「これ……この手帳、貰ってもいいですか?」


 泣き腫らした両眼が、再牙を見上げる。

 その言葉こそが、彼女が正しく、自らの鍵穴を開けたことの証明に他ならなかった。


 再牙は、安堵のため息をついた。


「聞くまでもない」


 もう、暗黒の影は琴美の小さな体を包まない。

 暗がりの向こう側に、彼女自身を追いやったりはしない。

 何より、彼女自身がそれを許さないだろう。


「それは、君が受け取るべきだ。誰でもない。君にしかその権利はない」


「はい」


「うん」


「本当に、有難うございます」


「うん……さて、と」


 一仕事を終え、二つ目の・・・・依頼に取り掛かろうと席を立ったところで、琴美が涙声混じりに尋ねる。


「どちらにいかれるんですか?」


「ん、ちょっと闘ってくる」


 買い物にでも行ってくる、というような、実に軽い口調でそう言った。


「闘うって……誰と、ですか?」


「この馬鹿げた騒動をおっぱじめた奴に、鉄槌を食らわせにいくのさ。君のお父さんの意志を無下にした奴らに、一泡吹かせてやらなきゃな」


「ま、待ってください!」


 琴美は驚いて立ち上がり、何かを伝えようと口を動かそうとした。

 しかし、肝心の言葉が出てこない。

 色々な感情が怒涛のように押し迫り、胸が詰まった。


「心配するなよ。なぁに、直ぐに戻ってくるさ」


 振り返って、再牙が朗らかに笑った。

 これから死地に向かおうというのに、不安や恐怖といった感情をおくびにも出してやいない。


 なぜだかその姿が、家を出た時の父の姿と重なって、琴美の目には映った。

 そう意識した瞬間だった。感情が、勝手に爆発していた。


「行かないでください!」


 せまっこい休憩室の壁という壁に、琴美の想いがぶつかって、反響した。

 再牙が、少しだけ驚いた表情を見せた。


「駄目です! 行っちゃ……絶対に行っちゃだめ……駄目です!」


 スピードを上げた車体から外れた車輪が坂道を転げ落ちるように、琴美は必至になって言葉を編んだ。

 しかしながら、事情を知らぬ娘っ子一人。その声にいかほどの説得力があろうか。

 それでも再牙は、琴美の意志を傷つける事無く、だが決して引けぬ意地があるのだと言わんばかりに、はっきりと告げた。


「いくら依頼人の頼みとはいえ、そればかりは聞けない」


「どうして……都市の治安は、機関の人に任せればいいじゃないですか!」


「その機関に、俺も昔いたんだよ」


 琴美が、狐につままれた表情になった。

 初めて耳にする火門再牙の過去。

 その一端を垣間見たはいいが、どんな風に言葉を繋いでいけば良いのかが分からない。


「あー……昔の話は、あんまりしたくねぇし、する時間もないんだけどよ」


 少しばつが悪そうに、再牙は疵痕を掻いた。


「簡潔に言うと、いま都市を襲っている混乱に昔の同僚が絡んでんだ。そいつが自分の道を誤っているから、俺が説教しに行ってやろうってわけ」


「……話が、よく見えないんですけど……」


「分からなくっていいんだ。これは、君には全く関係のない話だ。俺が解決すべきことなんだ。ただ奇妙なことに、俺のえにしと君のお父さんのえにし、二つのえにしが、もつれにもつれてどっかで絡んだってだけだ」


「だったら、私にだって関係があるんじゃないですか」


「関係がないと言ったら、嘘になる」


「だったら……!」


「でもな、そのえにしに君が首を突っ込む必要はどこにもない。親が背負った責任を、子供が負う必要はどこにもないだろ……俺が、君の依頼を解決したのはだな」


 再牙は琴美の前で身を屈めると、その大きな手で小さな肩を抱いた。

 瞳を、しっかりと顔の前に持ってくる。


「その生まれ持った両足で、しっかりと自分の人生を歩んで欲しいからなんだよ」


「私の人生……」


 今までそのことについて、真正面から向き合ったことは無かった。

 人の数だけ人生がある。その当たり前な事実に、琴美は今さらながらに気が付いた。

 そして同時に、自分と再牙の人生は、どこかが決定的に違うのだとも思い知らされた。


「じゃあ、行ってくるから」


 再牙が密やかに微笑みを浮かべ、ドアに手を掛けようとした時だ。

 不意に、オルガンチノの裾を引っ張られる感覚があった。


 振り返って、怪訝な顔を浮かべた。

 琴美の小さな手がコートの端を掴んでいる。

 忘れ物があると、言いたげな手つきだった。


「お金」


「え?」


「お金、まだ払ってないです」


 琴美は、顔をぐいと再牙に近づけた。

 心の訴えが、ほんの一ミリでもいいから彼に届いて欲しい。

 そんな熱意の籠った瞳で、少女は少女なりの激励を飛ばす。


「死んじゃったら、依頼料、受け取れませんよね? そんなの、駄目ですからね。わ、私、貯金全額下ろして来たんですから。絶対に、絶対に受け取って貰わないと、困ります」


 琴美の意を汲んで、再牙は大きく頷いた。





 ▲





 休養室を出た再牙が、大嶽に指定された第三ヘリポートへ向かおうとポータル・エレベーターを探していた時だった。


「再牙」


 背後から、凛とした鈴の音色のような声音がした。

 振り返ると、エリーチカが小走りで走り寄ってくるのが目に入った。


 修理が完了したのだろう。彼女の首から下が、いつもの白いハイレグを模したボディではなく、ライトブルーを基調としたスイムウェアになっている。

 傍から見れば、法に触れかねない際どさだ。


 再牙は、何とも言えぬ表情で、頭を掻いた。


「ここの心霊工学士ネクロマンサーは平常運転だな。昔から何も変わっちゃいないようで安心したよ。仕事の速さも、ボディパーツのデザインセンスも」


「私は結構気に入ってますけどね」


「いや、前の方が絶対に似合ってる。客からのウケもいいしな」


「ウケが良い悪いはともかくとして、さっき大嶽とかいうオジサンから聞きましたよ。貴方が、この都市の騒乱の元凶を止めると」


 それだけ言うと、エリーチカは普段と変わらない様相で尋ねた。


「本気なんですか?」


「ああ」


「私も、行きましょうか」


「いや、ここで待っていてくれ。これは、俺が解決しなきゃいけない問題だから。なに、昔の因縁をちょっと晴らしに行って来るだけだよ」


 エリーチカは少し考えた後、言った。


「……以前に、貴方から聞いた昔話に出てきた人……もしかして、バジュラという女性が絡んでいるのですか?」


「察しがいい奴だな。その通りだよ」


「……そうですか。分かりました」


 それだけで十分だった。

 エリーチカの心が再牙の覚悟を理解するのに、多くのやり取りは必要なかった。

 彼の声を、彼の瞳を、彼の息遣いを察すれば、自ずと理解できた。

 この十年間で培ってきた両者の絆に、遠慮という概念ほど似合わないものもない。


 心配していない、といえば嘘になる。

 時には誰かを頼るべきだと、ここでも口酸っぱく言い聞かせてやることも出来たろう。

 だが思いやりや気遣いというのが、時として相手への侮辱になることをエリーチカは知っている。


 彼女の選択は、出来の悪い弟弟子の覚悟を正しく汲み取ってやることだった。

 それが、今の自分がすべき最良にして最大の仕事であると信じていた。


「再牙、私は今、すこぶる機嫌がいいんですよ」


 特にそうは見えない仏頂面で、しかしエリーチカははっきりと声を大にして言った。


「新しく大切な人もできたし、代替品とはいえ、こんなに素敵なデザインのボディを与えられて、私、幸せです。凄く上機嫌です。だから奮発して、再牙にご褒美を上げます」


「……褒美?」


「はい。明日の晩御飯。貴方の好きな献立にしてあげます。何がいいですか?」


 それは、彼女なりの激励の言葉だった。

 同時に、まじないでもある。

 明日を生きるために今を闘い抜こうとする戦士へ送る、祈りの歌とも言えた。


「カレーだな」


 にっと笑って、再牙は即答した。


「やっぱり、お前の作るカレーが、一番美味いよ」


「カレーですね。分かりました。腕によりをかけて作ります」


「楽しみだ」


「はい。それじゃあ」


「ああ」


 行ってくるよ。

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