4-5 嗤う黄昏

「私の妻は娘を産んでしばらく経ってから、頻繁に体調を崩すようになっていったんだ。念のために病院で検診を受けさせたら、医者からまさかの事態を告げられたよ。妻は、悪性リンパ種に罹患していたんだ」


 当時の心情が蘇ったのか。錠一は虚ろ気な溜息を吐き、人生の梯子を無理やり外されたかのような顔つきで続けた。


「放射線治療は、最初から手段に含まれていなかった。それくらい、妻の病はかなりの段階まで進行してしまっていたんだ。こことは違って、《外界》の医学は日進月歩だ。現代医療は複雑怪奇な疾病の後塵を拝するに甘んじて、完璧な治療法は未だに確立されていなかった」


「そんな話、琴美さんからは聞いていませんけど」


「娘には伝えていなかったからね。君も、子供が出来たら分かるよ。母親が不治の病に犯されていると知ったら、誰だって塞ぎ込みたくなる。進んでそんな子供の姿を見たがる親などいないさ」


「悪性リンパ種。なるほど。何となく読めてきました」


 機関のデータベースに記録されていた、錠一氏の足取りを思い出す。彼はどうして、循環器系疾患の治療を専門とする医療施設ばかりを訪問していたのか。引っ掛かっていた謎が瞬く間に氷解していき、後に残った言葉を拾い上げる。


「貴方が欲していたのは、人工血液ですね?」


「その通りだ」 


 重々しく、錠一は頷いた。


「血液の癌とも呼ばれる悪性リンパ種を完全に治療するには、もはやそれに頼るしか道はなかった。そして世界で唯一、人工血液の開発に成功している都市があるとするなら、それは間違いなく、幻幽都市を置いて他にはない。《外界》よりも五十年は先の医療技術を獲得していると、当時から囁かれていたからね」


「確かに人工血液はこの都市で生まれ、貴方が都市を訪れるずっと以前に実用化されています。ですが、どこでそんな情報を手に入れたんですか?」


「情報なんて立派なものじゃない。ネットを漂っていた只の噂に、私は全てを賭けたんだ」


「噂……」


「笑うかね?」


 寂しげな、そしてどこか諦めを滲ませた笑みを浮かべて、錠一が訊いた。


「根も葉もない噂を信じて、のこのことやってきた私を、君は笑うかね? 都市へ行くことを表明した私を、無謀な人間だと嘲笑った仕事仲間のように。あるいは、冗談も休み休み言えと、苦笑いを浮かべた旧友のように。君も私を笑うかね?」


 そう言われても、再牙には何をどう答えて良いか分からなかった。深い森の中に迷い混んだ挙げ句、濃い霧を目の前にした気分だった。どのような返答を口にすれば、相手の望みに答えてやれるのか、さっぱり分からない。

 だがしかし、錠一の表情をぼんやりと眺めている内に、再牙は霧の中に一つの姿を見出した。

 今の錠一は、心の拠り所たる聖地を無残にも踏みにじられ、悲嘆に暮れる巡礼者も同然だった。辛酸を舐め尽くし、期待を抱くことを諦めた身の上。それ以外に、彼が置かれている状態を正しく規定する表現などなかった。


「笑っても笑わなくても変わりません。貴方がこの都市で殺されたという結果は。その暗い事件が、一人の女の子の心に深い陰りを落とし込んでいる事実にもまた、何一つの偽りはありません」


 霧を懸命に打ち払い、考え抜いた末に結んだ言葉だった。

 錠一は、少し驚いた表情を浮かべはしたものの、直ぐに顔を伏せ、それからまた顔を上げた。ひび割れた唇から、思いの丈を吐き出す為に。


「今になって、ときどき思う事がある。私は、本当のところは逃避したかっただけなんじゃないかとね」


「逃避?」


「妻が不治の病に罹ったという事実から。愛する家庭が崩壊していく未来から。自分を取り巻く運命から、ただ逃げたかっただけなのかもしれない。もういっそのこと、全てを忘れてしまえれば。そう、心のどこかで思っていたのかもしれない」


 心の深層に溜まった澱を少しずつ吐露していきながら、自然と、錠一の両拳が硬く握り締められていった。


「だが、だがね、私は……」


 黒と白が入り混じった総髪の毛先が、激しい感情に煽られて浮き上がる。そんな光景を目にしたような錯覚に、再牙は襲われた。

 あるいは、そう感覚してもおかしくないほどに、錠一の情動は激しい昂ぶりに埋め尽くされていた。


「私は、そんな醜くて浅ましい己の心を自覚していながら、それでもやっぱり、運命に抗いたかった。妻を救える手立てがあるなら、それが出所の分からない噂でもなんでもいい。ただ信じて追い続けることでしか、私はもう自分を保っていられなかった。だから私は、家族を残して単身、幻幽都市を訪れた。人工血液を提供してくれる病院を見つけたら、妻をこちらに呼ぶ予定だったんだ」


「それで、どうなったんですか?」


 口にしながら、イメージが沸く。階段の頂上へ、もう少しで到達するイメージが。


「あなたはこの都市で、望んでいたものを手にすることが出来たのですか?」


「……都市にやってきて、一か月後のことだった。医療施設を巡りに巡り、とある医者から紹介状を渡された私は、ついに人工血液の開発者に出会えた」


 そこで、錠一は一呼吸を入れ、頭を振った。これから自分が口にする名前に対する怯えを、懸命に振り払うような仕草だった。


「開発者の名前は、ドクター・サンセット。本名は、茜屋罪九郎あかねや しんくろう。幼いころに幻幽都市に移住してきて、覚明技官エデンメーカーに目覚めた男。専門は細菌生物学だったが、最先端の医療技術に関する知見をも習得していた、科学技術者だ」


覚明技官エデンメーカー……」


 再牙は噛み締めるように呟いた。彼にしても、それは予想だにしていなかった一言だった。にわかに無意識的に連想が始まり、再牙の脳裡にイメージが次々に立ち上がってきた。

 地平線の彼方に、横一列になって迫りくる死者の葬列。

 頭部を無くし、臓物がはみ出た白衣の集団。

 赤く汚れた両手。振り下ろされる拳。

 まき散らされる怒号と涙。

 心の中心が、忘れかけていた凍てつきに苛まれそうになって、再牙はぶるりと身震いした。


「私は彼に会って直ぐ、妻の血液交換手術を行ってほしいと願い出た。知り合いの医者に頼んで切除してもらった、妻の体細胞を手渡しながらね。人工血液の開発には、そういったものが必要だってことは、私も勉強して知っていた」


「それで、相手は何と言ってきたんですか?」


「二つ返事で了承してくれたよ。私は、飛び上がりたくなる気持ちを抑えるのに必死だった。ただ、彼は一つ、ある注文を私に寄こしてきた」


「注文?」


「自分が今取り組んでいる研究を手伝って欲しい……そういう注文だった。偶然、私も彼も、粘菌類の生態を応用した思考ネットワークの構築という、同じ分野を研究していたのだよ。正直、私としては早く妻の手術を行って欲しいところだったが、彼は時期を見て、手術を行うと約束してくれた」


 古い記憶を呼び起こすように、錠一はじっと下を向いて、仮想の息を吐いた。


「あの時の茜屋は、私にとって救世主だった。この男を信じれば大丈夫だと、そう確信した私は、三年間という期限付きで彼の研究に力を貸す事にしたんだ」


覚明技官エデンメーカーの言葉なんて、信じるに値しません」


 錠一の話を聞いていた再牙が、我慢できないとばかりに、真剣な面持ちで絞り出すように言った。


「あいつらが人の生命について口にするとき、そこにあるのは無慈悲な好奇心だけです。命を材料としてしか見ない彼らに、誰かの命の手綱を握らせるなんて……そんなことは……」


「そうだ。その通りだ」


 重石を飲み込んだかのような調子で、錠一が応えた。


「君の言う通りだ。しかし当時の私はそのことに気が付かなった。自分がいかに恐ろしい計画に携わっているかも知らないまま、いや、知ろうともしないままに、あの研究施設でずっと仕事に取り組んでいたんだ。ドクター・ロックという偽名を与えられて」


「ホワイトブラッド・セル・カンパニーを住居代わりにしていたわけですか。なるほど。役所に提出された書類一式が、その茜屋という者の手によって拵えられたとするなら、検索エンジンを使っても貴方の足取りが掴めなかった理由がつきます」


「そんなところも調査していたのか」


「仕事ですからね。それにしたって、おかしな会社ですね。ホワイトブラッド・セル・カンパニーは製薬……特に生理用サプリメントの開発会社っていうイメージがあったのですが、貴方の話を聞く限り、とてもそうは思えない」


「世間的には誤魔化せているが、あれはただの製薬会社じゃない。茜屋率いる『組織』が隠れ蓑として設立したダミー会社だ。だが、私はそうとも知らずに研究を続けていたんだ。妻の命を助けてくれる恩人が私を騙すはずがないと、心の底から信じ切って……」


「実際には、非人道的な実験が繰り返し行われていた。地下の実験施設を全て見させて頂きましたよ。子供を使った人体実験。まず間違いなく、明るみに出れば極刑物の重犯罪です」


 詰め寄るような言い方だった。

 そしてとうとう、再牙はその一言を口にした。


「あの人体実験は、貴方がやったのですか?」


 深い沈黙が仮想の夜に降りた。


 錠一の視線が再牙から逸れる。恥じるように下唇をきつく噛み締める。

 己の力不足を嘆きながらも、意識の底に根強く残る罪悪感をひた隠す。


「ある意味では私がやった、とも言えるし、そうじゃないとも言える」


 歯切れの悪い口ぶりだった。だがそれは、自らの犯した過ちに対する言い訳とは、ニュアンスが少々異なっていた。


「あの遺体を見たのなら、君、何か疑問に思わなかったかい?」


「いえ……ただ、酷い有様だとは思いました。内臓や脳みそが全て取り除かれていて……」


 再牙が口ごもりながらも、ありのままの感想を伝えると、錠一は苦渋の色を見せた。


「遺体を詳しく調査すれば分かる。あの実験で犠牲になった少年少女らの遺体には、筋肉や脂肪を実験材料に用いた痕跡がないことくらい。奴はそんなところには、まるで興味を持たなかった。奴が興味をそそられていたのは、人体の神経系統・・・・・・・だったからね」


「どういうことですか?」


「茜屋は、『菌類による人体模倣』を研究していたんだ」


「人体の模倣?」


「人間と比較して遜色ない、論理的な思考体系を構築する、全く新しい菌類の開発。それでいて、人間を超える超回復能力を獲得した生命体の創造。それを達成するために、奴は子飼いの人造生命体ホムンクルスたちを使って、都市のあちこちから子供たちを誘拐し、脳や内臓を小間切れにして、神経を剥ぎ取り、初期段階からそれらを構築させるよう自作の菌類に学習させていたんだ……犠牲になった子供らの中には、致死量ギリギリまで薬物を投与された痕跡まであった。あの男が打ち立てた計画の名の下に、あらゆる悪行が、秘密裏に行われていたんだ」


 錠一はそこで言葉を区切ると、悔いるような目つきで仮想の夜空を見上げた。


「奴は、人の心を弄ぶ怪物だ」









「ドクター・サンセット!」


 自動ドアを全身でぶち破る勢いで、獅子原錠一がカンパニーの研究顧問室に駆け込んだのは、二〇三六年の十二月半ばの事だった。

 施設の地上一階部分。窓の外ではしんしんと雪が降り積もる中、男の体の中心では、熱という熱が渦を巻いて止まらなかった。


「一体どういうことなのか、説明してもらおうか!」


 抑えきれぬ興奮のあまり、叫ぶような怒号に混じって唾があちらこちらに飛んだ。錠一自身がそれまでの人生を振り返ってみても、決して誰にも見せた事がないほどの激昂ぶりだった。


「地下の研究施設を見たぞ! 一体あれは何だ!? まるでナチスじみている! あんな人体実験をやっているなんて、私は聞いちゃいないぞ!」


 だが、いくら錠一が吠えたところで、返事はなかった。湧き上がる怒りを抑えきれず、たまらず錠一は両手の平で机を思い切り叩いた。目の前の豪奢な椅子に腰かけている一人の男を、憤怒の形相で見据えながら。


「何とか言ったらどうなんだ、ドクター! いや……茜屋罪九郎あかねや しんくろう!」


 白衣のあちこちに付随パッチされた、小型注射器械、マイクロピンセット、携帯顕微鏡……それらをアクセサリーめいて着飾る茜屋罪九郎は、椅子の背もたれから少し体を起こすと、手元の湯飲み茶碗に視線を落とし、平然とした口ぶりでこう言った。


「おや、茶柱が立っとる。何かええ事でも起きるんかな」


 その声を耳にした途端、錠一の中で、何かがぷつんと音を立て弾け飛んだ。気づいた時には、白衣に包まれた左手を大きく、ドクター・サンセットの眼前で振り払っていた。湯呑が明後日の方向にふっ飛ばされ、床の上で盛大に破砕し、小さな水たまりを作った。

 錠一は肩で荒々しく息をつきながら、なおも椅子に座ったままのドクターを見下ろし続けた。電析眼鏡サイ・グラスの奥に宿る双眸は、しかしどんな色彩も見せなかった。

 あらかじめ、錠一がこんな行動に出ることを予見していたせいか。それとも、人間の存在それ自体に関心がないのか。

 能面じみたドクターの顔つきを見ている内に、錠一の背筋に激しい悪寒が走った。

 言いようのない不安がそうさせた。


 それと入れ替わるように、フラッシュバックが彼の大脳の襞に差し込まれた。


 つい先日、偶然目にしてしまった――地下実験施設の非人道的な所業の数々。

 どこからか捕えてきた子供たちの腹を、頭部を、試薬でも調合するかのような目つきで解体していく茜屋の部下たち。

 犠牲者の中には、家に置いてきた愛しい娘と同い年程度の女の子もいた。

 切り開かれた彼らの肉体に繋がれた装置の数々を見て、それが人命救助という範疇から遠く離れた、ただの人体実験であるのは直ぐに分かった。

 強力な麻酔にかけられ、生きたまま腐りゆく初心うぶな命の数々。思い出すたびに、激しい怒りと貫くような嘔吐感に見舞われる。

 だが気力を振り絞って、穢れた情動の進撃をこらえると、錠一は更に吼えた。


「もうこんなところにはいられない! あんなおぞましい研究……君を信じていた私が馬鹿だったよ。今日限りで、君とは縁を切らせてもらう!」


「そんなわがままが、今さら許されるとでも思っとるんかぁ?」


 踵を返した錠一の背にかかる、生暖かいドクターの声。彼は猫のような俊敏さで椅子から立ち上がると、舞踏じみた軽やかな足運びで錠一の傍に近づいた。


「まぁまぁ……そうムキにならんでくれやドクター・ロック。見てしまったもんは仕方ないが、短気は損気やで? 契約満了まで、あとたったの十日やないか。それまでは、ちゃあんとワシの研究に付き合ってもらわな困るで。契約不履行なんて、いい年した大人のすることやない」


 囁くような、それでいて慰めるような口調。それは間違いなく警告の言葉だった。それでも、錠一の怒りは収まらない。収まるはずがない。振り返り、ドクターを睨みつける。


「契約など関係ない! これは道義に関わる倫理的問題だ! 貴様、粘菌類のネットワーク構築を研究しているなどとうそぶいておきながら、本当は全く別の事に取り組んでいるんじゃないのか!?」


「随分と口が回るのぉ。ワシが嘘をついていると言うんか?」


 何が可笑しいのか、ドクター・サンセットは笑い飛ばすようにして言い放った。


「冗談も大概にしいや。ホワイトブラッド・セル・カンパニーは、新分野に挑戦中。その第一歩として、粘菌ネットワークによる交通情報のリアルタイム・シュミレーション技術の確立に乗り出した。君にも分かるやろ? これが完成を迎えれば、もううざったい渋滞なんぞに悩まされることもないんや。みーんな、万々歳の未来が待っとるんやで?」


「お前は一体、舌を何枚使い分ければ気が済むんだっ……!」


 ドクターの言質が虚飾まみれであると見抜いた錠一は、彼から逃げるように距離を置いた。この男の傍にいると、良心が悪徳に浸食されていきそうで、たまらなく怖かった。


「でたらめを抜かすのもいい加減にしたらどうだ。子供たちをあんな風に扱って……お前には道徳心というものが無いのか!」


「ドクター・ロック。これが幻幽都市流の研究作法なんや。研究には犠牲がつきもの。一説によればドイツの医学も、ナチス時代の人体実験が布石になっとるくらいやしな。世界は綺麗事だけで成立しとるとちゃうんや。これは、しょうがないことなんや」


「しょうがなくなんてない! 少なくとも、私は貴様のやり方に納得できない! いや、納得の余地なんか、鼻から持ち合わせていない!」


「おかしな事を言うもんやないで、錠一くん・・・・


 そこで初めて、ドクター・サンセットが笑みを浮かべた。嗤いと表現するに近い笑みだった。電析眼鏡サイ・グラス越しの目の底に、漆黒の情念が灯を上げていた。


「あんさん……まるでワシだけが悪い言うとるような調子やけれどな、あんさん自身も、あの実験には深く深く、ふかーく関わっとるんやで」


「……は?」


 自然と漏れる、間の抜けた声。ドクターが、面白がるようにケラケラと笑い声を上げた。残酷な好奇心の下、壊れかけの玩具を甚振って愉しむ少年のようだった。彼が嗤うたびに、濃縮された悪意の粒子が、部屋中にばら撒かれている感じだった。


「君、知らんかったんか。まぁそうやな。言ってなかったし、知らんくてもしょうがないな」


「……何を、言っているんだ……?」


 眼前に鋭利なナイフの切っ先を突きつけられている。そう錯覚してしまうくらい、言葉に出来ぬおぞましさがあった。

 体じゅうの熱が奪われ、急速に凍えていくかのような恐怖。冷や汗をかきながら、錠一は思わず後ずさった。

 そんな仕草を見せた錠一を、ドクターは電析眼鏡サイ・グラスの奥で軽く睨みつけた。あざけるような目つきだった。そうして、手品の種明かしでもするかのように、真相を告げた。ゆっくりと。毒息でも吐くかのように。


「あんさんがワシの下で生み出してくれた、菌類の思考ネットワーク構築理論の基礎部分。具体的には、集合知獲得による疑似知性の存在を示した理論やな。あれの検証実験を、あの地下施設で行っとるんや」


「……何だと?」


「つまりやなぁ、君が疑似知性の存在をワシに教えることが無かったら、いやそもそも……君が実存性の極めて高い集合知を発見しなかったら、あの実験自体、行われることはなかったんや。つまりは、うん、君のせいやな、あれは」


 責めるような口調ではなかったことが、余計に錠一を激しく動揺させた。それほどの衝撃だった。

 しかしながら――それは何も、あんな年端もいかない子供たちを研究材料に使う前提で発見した理論ではない。純粋に、都民のために役立ちたいという、その一念から生み出した理論なんだ。

 だからこそ、この男に手を貸して――だがその結果として、散る必要のない命が散った。人権を徹底的に無視した所業の果てに。

 私のせいで・・・・・。いや、そうじゃない。

 だが、しかし――


 良心の呵責。それが今、轟音と共に渦を巻き、何もかもを暗黒の彼方に飲み込もうとしていた。

 悪魔の計画に手を貸した挙句、自らも悪魔の一部に成り果てる。そんな陰惨にもほどがあるビジョンを幻視した時だった。途方もない罪悪感に支配されかけ、壁に体を預けるようにして錠一は尻餅をついた。

 もう二度と、立ち上がれない予感を覚えた。


「あーあー、すまんな黙っていて。でも、安心してええんやで?」


 悪魔が、錠一の耳元で囁いた。真っ黒に染まった免罪符をちらつかせて。


「君が責任を感じることはない。なにせ、あの実験に使っとるんは全員、戸籍謄本の無いガキ共ばかりやからな。ストリート・チルドレンっちゅう奴や」


「ストリート…………チルドレン?」


「犯罪の片棒を担ぐクソガキどもや。あいつらにお灸を据えてやるには丁度ええ。それに、ああいう輩が消えた所で、蒼天機関ガーデンはろくに調査もせんしな。むしろ、治安の回復に一役買っとるぐらいや。すごいやろぉ? 新技術の開発に併せて、都市の清浄化にも貢献しとる。うちの会社はホワイト企業なんや」


 錠一は唯々、悲鳴を上げるようにして息を呑み、うなだれるしかなかった。

 横暴にも程があるドクターの主張。それはまさに、善悪の概念を超越した怪物の言葉だった。自らがどれだけ切羽詰まった状況に陥っているかを、錠一は今さらのように思い知った。

 共犯者――自分もこの男と同罪だ。そう、錠一には思えてならなかった。多くの犠牲者を生み出す研究に加担しておきながら、自分は無関係だと開き直れるほどの度胸を、彼は持ち合わせていなかった。


 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 いったい、どこで道を誤ってしまったのか。


 痛烈な後悔と自己嫌悪とが折り重なって、過ぎ去った人生への救済を泡のように生み出していく。だがそれは直ぐに反転して、ある一つの疑問へと繋がった。

 錠一がそれについて尋ねるより先に、ドクター自らが結論を言い渡した。


「ところで、君の奥さんの人工血液の件なんやがな。この際だから言うが、あれ、ダメやな」


 おもちゃに飽きた子供じみた調子で、ドクターが告げた。


「細胞凍結保護液がなぁ、イマイチやったなぁ。もうちょいちゃんとしてくれんと困るわ。細胞はすっかり死んでしまっとったから、廃棄させてもらったで」


 そんなはずはなかった。

 錠一は信頼できる友人の医者に頼み込んで、妻の細胞片をほとんど完璧な状態で保存し、都市に持ち込んだのだ。

 あり得るはずがなかった。

 妻の細胞が死ぬなどということは、決して。

 悪魔は最初から、約束を守る気など微塵もなかったのだと、この時ようやく思い至った。


「すまんなぁ報告が遅れて。でも分かってくれや。こっちも忙しいんや。見ず知らずの他人の命にかまけていられるほど、暇やないんや」


 その一言が、決定的なトリガーとなった。

 錠一の両足に力が込められ、立ち上がると同時に右の拳が、ドクターの顔面目掛けて振るい放たれていた。

 意識的に出た行動ではなかった。理性はとうにかなぐり捨て、本能だけを反抗の原動力としていた。怒りとか、憎しみとか、もはやそういった雑念とは無縁の境地だった。

 ただ、そうしなけ・・・・・ればならない・・・・・・という直感だけがあった。

 錠一の潜在意識がドクターを殴ることで、彼の人間としての矜持を示そうとしたのだが、異変はその時に起こった。  


 何かに遮られたわけでもないのに、錠一の拳が途中で止まった。喉元が、ひやりとした感覚に襲われたせいだ。

 錠一は、視界の端に映ったそれを目撃し、一瞬、何が何だか分からなくなった。

 ドクターの纏っている白衣。その裾が、包丁のような鋭利な金属刃となって伸び、錠一の喉元に切っ先をピタリと当てていた。

 焦りと恐怖に駆られた錠一とは対照的に、ドクターが得意げな顔になった。


「分子配列機能を持たせた、ワシ特注の白衣や。銃弾程度なら簡単に防げるし、人肉程度だったら容易く切断できる、オンリーワンの逸品や」


 再び立ち上がる気力を無くすのを刃越しに感じ取ったのか。さっきまでの迫力を嘘のように失くした錠一の顔を見下ろしながら、ドクターは冷やかな目つきで宣告した。


「自分の立場ってのを、きっちり弁える事やな、ドクター・ロック。あんさんはもう、この都市から逃れられへん。あんさんの頭脳は、この偉大なる覚明技官エデンメーカーのものや。どこにも行かせはせぇへんからな。よぉく覚えておくことや」


 よくよく釘を刺してから、ドクターは部屋を出て行った。残された錠一は、燃え尽きた灰のように、動かず、ただ壁に背を預けることしか許されなかった。

 そうして、一人静かに嗚咽を漏らした。

 自身をすっかり飲み込んでしまった、乾ききった絶望に囚われて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る