4-4 仮想世界に鍵はある

 爽快明瞭な風が小高い丘を撫でるようにそよぐたびに、青い草波がくすぐったそうに笑った。

 目線の遥か先。

 険しく切り立った山峰が悠然と構え、頂上部分には僅かに雪が降り積もっている。

 太陽は支配者の如く天高く君臨し、燦々たる陽光を周辺に降り注ぎ続けていた。

 見る者の郷愁を煽るようなこれら原風景の出来といったら、とても仮想の産物とは思えないくらい、極めてリアルだ。


 都市の仮想情報工学技術を結集させて構築されたデータ空間の完成度は、幻幽都市こそ世界随一だ。

 今では、仮想世界を『第二の現実』という呼称で、その発展ぶりを批評する論客がいるくらいには、都市の文化として根付いている。


 再牙は一通り周囲を見渡し終えると、渋い表情を浮かべて、いかんともしがたそうに頭を掻いた。途方もなく広大で牧歌的雰囲気に満ちた仮想空間の姿を前に、拭いようのない違和感を覚えたせいだった。


 今、こうして降り立っている場所がアナウンス通りの局地的断絶仮想空間ローカルエリアなら、情報窃盗を生業とする錠前破りクラッカーを排除するには、うってつけの空間のはず。

 周囲から孤立した島に莫大な金塊を埋め、宝の匂いを嗅ぎ付けた海賊が上陸する。そこに、島が痛烈な洗礼を与える。それと全く同じのはずだ。

 うっかり足を踏み入れた錠前破りクラッカーが逃げられないよう、攻性防壁ファイア・ウォールをたっぷり仕掛けた迷宮神殿ラビリンス風の構造にするのが、こういう場所では定石として知られている。

 それなのに、この長閑にも程がある風景……加えて、企業機密情報を蓄えているはずの電子倉庫アーカイバが、どこにも見当たらないのもおかしな話だった。


「ダミーか……あるいは、誰かが基本仮想空間ベーシック・スペースの構成コードを書き換えた……?」


 考えているだけでは埒が明かない。仮想世界でも現実世界でも、重要なのは答えの出ぬ悩みで頭をこねくり回すことではなく、とにかく行動することだ。


 再牙は気持ちを切り替えると、自らの電脳に備わっている優秀な道具たちを使うことにした。電脳ユーザーなら誰しもが持っているインフォツール・キット。情報の海を自在に駆け回るのに大変役立つその道具箱の中から、汎用アプリ群を呼び出す。

 視界にコマンドが現れる。十徳ナイフさながらに取り揃えられた汎用アプリの数々。その中から、長距離移動用のアプリを探す。

 アプリの名称はヴェロシティ・ザ・ホイール。利用者は五十万人とそこそこだが、制作会社がペンティーノ・ハウスである点が、再牙は気に入っていた。


 アプリを視線ジェスチャーで選択。

 頑丈そうな二輪のホイールを備えたバイク型の量子構造体フェノジェクトが、モザイク状態を経て再牙の眼前に現出した。

 シートに座り、エンジンを吹かす。八つのエギゾースト・パイプから量子の煙が吹き上がるのを確認してから、再牙はアクセルを思い切り踏み込むと、そのまま流れに乗って走り出した。

 雄大な山峰を背景にして、緑溢れる大草原はどこまでも続き、まるで途切れを見せない。

 道の途中で目に入るのは、朽ち果てたビル型の量子構造体フェノジェクトのみで、それも数が少ない。空間管理がおざなりにされていることの証拠だった。あるいは、演算力を別の部分に使っているから、こんなみすぼらしいオブジェしか産み出せないのだろうか。

 アクセルを踏みながら考えるが、再牙の頭は明晰さからは程遠い。これでは、砂漠の中から金塊を堀り当てるようなものだ。


 再牙は試しに、バイクに跨りながら試しにディスプレイを展開させ、周辺のマップを呼び起こしてみた。

 思わず嘆息が漏れた。画面上のどこにも、光点が無かった。

 仮想世界で義務的に告げられる無情の現実。情報体アバターはおろか、電子倉庫アーカイバすら存在しないというのだ。


 それでも再牙は苦い表情を浮かべただけで、アクセルを踏み続けることを止めはしなかった。

 可能性をまだ捨て切れていなかった。空間そのものが偽装されているの可能性もあると、あくまで前向きに考える。

 その思考の流れはほとんど言い訳に近く、しかし真に欲する物を手に入れるための地道な作業とも言えた。最悪の結末を回避する為に数々の理屈をこねくり回すのだ。

 そのどれか一つが、ささやかな幸福を昏き水底から引き上げる為の網になることを願って。

 事実を厳粛に受け止めまがらも、真実の背景にあるものを掴み取る。そのためには、これと定めた方向へ前進する熱意と努力を決して欠かしてはいけない。再牙が見出した人生との向き合い方とは、詰まるところそういう事だった。

 だが、そんな向き合い方に意味などないと告げるように、無情にも仮想の時間は過ぎ去っていく。現実世界よりもずっと早い速度で陽が傾き始め、月が起き上がり、空が眠りを誘うように墨色のカーテンを閉めていく。

 そうして、仮初の星が瞬き始めた刹那だった。再牙の眼前を高速で何かが横切り、前輪のすぐ傍で爆発を起こした。


「ぐっ――!」


 ホイールに裂傷が発生。

 バイクに搭載されている内部監視システムが状況を即座に把握し、リペア・システムが起動。

 強烈な爆風に煽られつつも、再牙はハンドルをしっかりと握り直して車体を地面すれすれまで左に倒し、前輪の修復が完了したのを見届けてからアクセルを踏み、元の姿勢を取り戻した。

 その間、わずか二秒ほどの出来事だった。


 一体今のは――仮想の肉体で状況を把握する前に、重なり合った奇音が耳元に届く。


 モーター音――左右の草むらから――高速で何かが移動。その何かが一斉に、飛び掛かるようにして草葉の陰から姿を現した。

 円盤状の、銀色に光る物体だった。 

 間一髪、再牙はアクセルを更に踏み込んで奇襲を躱した。バイクの少し後方へ着地した円盤の内、幾つかが内部から炸裂して次々に火柱を立てた。残りの円盤が爆炎の最中を突っ切って、ジグザグ走りでバイクの後を追い回す。


 確かめるように、再牙はハンドルを固く握り締めながら背後へ振り返り、ぎょっとなった。

 視界に映るのは、六体の円盤。その前面部で濃い緑色に光るライン・アイが、車体を正確に捉えて離さない。


 円盤の正体――変性特攻量子存在ウイルスの一種――自走地雷。

 仮想世界における肉体そのものたる情報体アバターを破壊するために開発された、量子の戦闘体。標的の生命反応が喪失するまで追い回す、地獄の番犬だ。爆発の直撃を喰らえば、脳死フラットラインは免れない。


 襲撃者の正体が判明しても、再牙の顔には依然として驚きがはりついている。現に襲撃を受けているにも関わらず、ディスプレイにウイルスの位置が表示されていないせいだ。

 焦りながらも、アクセルを踏み込む。黒煙が吹き荒れてホイールが唸り、速度がますます向上。平原に刻まれる轍が鋭さを増す。

 置いていかれまいと、自走地雷の群れも高速度を増して迫る。仮想の世界を舞台にした、静かにして鬼気迫るチェイス。

 逃げながらも、反撃に転じる。再牙は汎用アプリ群から、遠距離の自衛武器を仮想空間に現出させた。銃口が縦に細長い自動拳銃を彷彿とさせるフォルム――デリート・ガンの引き金を引き、紅に染まる火花を吹かせる。


 迫りくる自走地雷は、銃撃を避ける素振りを全く見せなかった。デリート・ガンから発射されたアンチ・プログラム・バレットが、余すことなく銀色のボディに命中していく。

 しかし、虚しく火花が散るだけだった。破壊には遠く及ばず、追跡は一向に止められない。


「無駄に固い造りしやがって……!」


 舌打ちしかけた時だった。六体の自走地雷のうち、三体が突如として奇襲を仕掛けてきた。

 自走地雷の底部が盛り上がり、バネ仕掛けの玩具のように高く飛び上がって、爆発。爆発。爆発――めくるめく火炎の渦が、エキゾースト・パイプをばらばらに吹き飛ばす。

 すかさずリペア・システムが起動するも、そこに残り三体の跳躍。もはや躱しきるのは不可能な距離で、ほとんど同時に爆発を見舞わせる。

 ついに巨大な一個の塊と化した爆撃と轟音が、バイクのエンジン部とシステム制御部を、けたたましい勢いで飲み込んだ。

 後方から押し上げるようにして瞬く間に拡散する、熱と衝撃の余波。再牙は成す術もないままに、宙で一回転するように放り出されると、そのまま無様に地面を転がっていった。


 喉奥から苦悶の声が漏れ、全身に痛みがはしる。運の良い事に直撃を免れたおかげで、肉体へのフィードバックは微々たるもので済んでいる。

 それでも、仮初の痛苦は実にリアルで、起き上がるのもままならない。目の前には、炎に包まれ、使用不可能の烙印を押されてモザイク状態になったバイクの姿があった。


「動くな」


 撃鉄を上げる音に混じって、頭上より声がした。

 痛みを堪えながら見上げると、一人の男がデリート・ガンの銃口をこちらに向けている姿が飛び込んできた。鳶色の瞳に、明らかな警戒心が見え隠れしている。

 白衣の下にグレーのシャツを着こなし、下にはベージュ色の作業用ズボンを履いている男だった。白髪交じりの黒い総髪が闇に溶け、銀縁眼鏡が月光を反射している様は、いかにも技術を手にすることを誇りにしたがる類の人種だと、一目で分かるくらいだ。


「あなたは……」


 写真に写っていた姿よりも怜悧さが増しているが、その顔つきに見間違いはなかった。


「獅子原……錠一さん……?」


 激しく困惑しつつも、絞り出すように再牙は訊いた。

 四年前に亡くなった筈の琴美の父親。

 その当人がどういうわけか、電脳の世界で生きていたという事実。

 突然の事態を前に分厚く纏った冷静さで防御しながらも、体の内側からは疑問が溢れて止まらない。


 そうこうしている時だった。

 勝手に喋ろうとするなとばかりに、錠一が口をきった。

 冷徹な感情を全身から発散させながら。


緊急警報エマージェンシーが作動したから様子を見に来てみれば、なるほど……私の名前を知っているという事は、やはり『組織』の手の者か」


「何ですって?」


「データを奪い返しに来たのか? だとしたら、残念だったな。既に破棄した後だと、そうお前のボスに伝えておけ。もっとも、このまま抵抗をしないと誓ってくれればの話だがな。変な動きを見せれば、即座に撃ち殺す。脳天にデリート・ガンの一発をぶち込めば、君は脳死フラットラインへ一直線だ。そうなりたくなければ、大人しく立ち去り給え。私の肉体リアルボディは消失したが、それでもまだ、魂まで死ぬわけにはいかないのだよ。『組織』が犯した罪が表に出るまでは。私には、それを見届ける責任と義務がある」


 錠一の口調は実に淡々としていたが、相手に喋る隙を与えないとばかりに、一方的にまくし立ててくる。それが、精神的には興奮状態に陥っている事の動かぬ証拠だった。

 誤解を解こうにも、下手に口を動かせば逆に相手を刺激してしまうことを、再牙は経験から見抜いた。そして同時に、こんな時には包み隠さず自らの素性を曝け出すのが、最も効果的であることを学んでいた。


 再牙は錠一の目を盗んで、小さく、何かを引っ張るようなジェスチャーをした。途端、再牙と錠一を取り囲むように、辺り一面に半透明のディスプレイが出現した。

 驚いて引き金を引こうとするより先に、錠一は、ディスプレイが映す内容に自然と目線を奪われていた。


「これは、君の個人情報……? なぜこんなものをいきなり……?」


 再牙の――止むを得ぬ事情により一部が巧妙に偽装されたプロフィールやら、顔写真やらが、次々にディスプレイに表示されていく。

 だが、それは単に彼自身の歴史だけを映すのではない。連想ゲームのように、彼の主体的な経験すらも明らかとなっていく。

 それはつまり、再牙が出会ったことのある人物の姿すらも、映し出すということだ。


「……!?」


 その映像・・を目撃した瞬間、愕然とした様子で、錠一は目を見開いた。

 瀕死の人間が末期まつご今際いまわに空気を吸い込むように、喉を鳴らして息を呑む。

 その音を、再牙が聞き逃すことは無かった。


「琴美……!?」


 赦しを乞うような声。

 それを向ける相手は今、再牙の記憶の中で、小さな肩を震わせながらも真剣な眼差しを真正面に向けていた。

 全ての映像は再牙からの視点で構成されていた。

 錠一が目撃している場面は、最初に琴美が再牙へ依頼を持ちかけた時の映像。終点へ至る、始まりの瞬間を捉えた光景だった。

 いまや、錠一の警戒心は完全に逸らされ、その脳内には多くの疑問符が浮かび上がっていた。

 再牙は、今こそ口を開く場面だと確信し、姿勢はそのままに話し始めた。


「私の名前は火門再牙。練馬区で、万屋稼業を営んでいる者です。三日前に、貴方の娘さん……琴美さんから、依頼を持ちかけられたんですよ。父親の足跡を洗い出して欲しいという依頼です。貴方がどうして家族を残して、幻幽都市にやってきたのか。どうして殺されてしまったのか。それらを解き明かすのが私の仕事なんです。何か勘違いしているようですが、安心してください。私は貴方を殺す為にここに来たんじゃない。貴方の口から、真実を聞き出すことが目的なんです」


 真実――そう口にした直後、再牙の脳裡に一つのビジョンが浮かんだ。

 ホワイトブラッド・セル・カンパニーの地下施設。人体実験の墓場。少年少女の焼死体。引き出しの中で息を潜めていた、錠一の手帳。

 激情が浮腫のように沸々と湧き上がるも、理性を被せて押し留める。

 あれは貴方がやった事なのか――

 そう一息に尋ねたい衝動を、再牙はぐっとこらえながら、錠一の横顔を注視した。


「もし、私が嘘をついているとお思いでしたら、このプロフィール・データを今すぐ、真偽判定アプリで精査したって構いません」


「もうやっているよ。だが、意味のない行動だったみたいだ」


 銀縁眼鏡のつる・・を触りながら、錠一は溜息をついた。

 振り返り、地面に腹這いになったままの再牙に手を伸ばす。

 少しだけ、ばつの悪そうな顔をして。


「疑ってしまって、悪かった」


 再牙は答えず、黙って錠一の手を取って立ち上がった。


「あの自走地雷は、貴方が造ったのですか?」


 真実へ到達するための階段。それを駆け上がるための一歩として、再牙は先ほど自分を襲ってきたウイルスについて尋ねた。

 錠一は頷き、瞳の奥に穏やかさをたたえて口を開いた。


「そうだ。私が一からコードを組み上げた。自衛の為にね。他にも色々とトラップを仕込んである。局地的断続仮想空間ローカルエリアとはいえ、安心はできないんだ。『組織』の錠前破り(クラッカー)が、いつここを嗅ぎ付けるか分からない。もっとも君の場合、あの施設からここに没入ダイヴしたようだが……驚いたよ。あの地下実験施設に潜り込むとはね」


「無茶をするのも、万屋の仕事の一つですから」


「万屋か。金さえ払えば殺人でも何でもやる人種だと思い込んでいたが、どうやら君は違うようだ」


 錠一は、ちらりと視線を再牙の背後へ向けた。釣られて、再牙もそっちを見た。

 琴美が写っている映像が、目の前にあった。新宿へ向かう電車の中で、彼女は再牙が気を和らげる為に口にした冗句の数々を受けて、笑っていた。

 錠一が、懐かしむような表情になった。二度とは取り戻せない暖かさ。その眩しさに目を細めている。


「まさか、こんなところで娘の笑顔を見ることになるとは、思ってもいなかったよ」


「でも、心からの笑顔じゃありません」


 振り返り、再牙は正面から錠一を見据えた。

 ここからが本題だと、その瞳が告げていた。


「彼女はずっと、悩んでいるようでした。どうして父は、自分と母を置いて幻幽都市へ旅立ったのか。想いは頑丈な楔となって、彼女の心に深く食い込んでいる。それを抜く手助けを、俺はしてやりたいんです」


「……仕方が無かったんだ」


 懺悔するかのような声色だった。


「私が家を出た時、琴美はまだ八歳だった。あの頃の幼い娘に、ありのままを伝えることは、私にはできなかった。勇気がなかった。それを口にすれば、あの子の心に暗い陰りが生まれてしまうのではないかと心配で、どうしようもなかった」


「どういうことですか?」


 階段を一歩一歩、着実に上る感覚と共に、再牙は先を促すように尋ねた。


「私は、妻を病から救うために、幻幽都市を訪れたんだ」

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