6-14 夜明け(デイブレイク)は訪れない 前書き編集

 時刻――21:32

 都内某所――元死体安置所モルグ・地下一階


 通路の壁に設置された変光灯篭ストーン・ピラーが緑と青の中間色に明滅し、長い廊下に妖しげな陰影を浮かばせている。

 埃一つすら立ち入るのを許さないとばかりに磨き上げられたその廊下を、淡紅色の長髪が乱れるのも構わずに、一人の男が歩いていた。


 マヤ・デイブレイク・ブラッドフォレスト。


 ドクター・サンセット子飼いの人造生命体ホムンクルスにして、殺戮遊戯グロテスクの長兄として生まれた戦士。

 傍若無人な主人の手綱から逃れる為に、戦う事を決意した男。

 その琥珀色の瞳には決死の炎が宿り、床を叩くエナメル靴の音もまた、言い知れぬ迫力を醸し出していた。


 卒業試験セレモニーが幕を上げてから、すでに二時間以上が経過している。


 キリキックは、ルビィは、スメルトは、チャミアは無事なのか。

 アハルは、機関の電脳部隊と交戦中だろうが、大丈夫なのだろうか。

 もどかしさがあったが、作戦が始まる前のブリーフィング時に、電脳回線をドクターの手で凍結されているせいで、確かめる術はない。


 しかし、状況の推測は大方つく。

 外ではきっと、おぞましいほどの火炎の渦が巻き上がり、都市を飲み込まんとしているに違いないと、マヤは直感した。


 そうしてまた、騒乱の起爆剤役として動いているのが、これまで同じ時間を共有し、同じ状況を生き抜いてきた他の兄弟達なのだと思うと、心が圧迫される感覚があった。


 マヤは、何も平和主義者ではない。

 都市で罪なき人達が死んでいこうと、彼の心は決して動じない。

 一般都民が、ニュースの向こう側から流れる凄惨極まる事件の数々を耳にしても、それを我が事のようには感じられないのと同じように。


 ただ、そういったニュースが流れる度に、マヤは同情・・こそしないものの、どこか共感・・するところはあった。

 運命に翻弄され、落とし穴のように待ち受けている理不尽に食われていった、顔も名前も知らない人々に対して。


 歩きながら、彼らの事・・・・を考える。

 日本から見捨てられ、それでも、こんなイカれた都市で生き抜かざるを得なかった彼ら。

 綱渡りの人生にも慣れ始めた頃に、突発的なアクシデントによって、命を貪り食われていった人達の事を。

 事故や事件、超常的自然災害によって、無理矢理人生の舞台から降ろされた彼らの声で、冥界の釜はきっと一杯なのだろう。


 俺は、普通の人間じゃない――一人で部屋の中にいる時、思い悩むことがある。

 心の影。その影を生み出す光があった。

 冷たい光だった。ドクター・サンセットの存在が、マヤの心に深い影を落とし込んでいた。


 自分の生きたいように生きて、その果てに不慮の死を遂げても、納得はいく。

 こういう人生だったのだと。これこそ普通の、よくある人生だと。

 だが今のままでは普通以下だ。


 冥界の底を、マヤはイメージしてみることがあった。

 そこは身が凍るほど寒く、果ての見えない深淵の奈落だ。

 死んだ者は、皆そこに放り込まれるのだ。

 そうして溶かされる。どろどろに跡形も無くなるまで。

 精神的な自我を失うまで徹底的に。


 宿命に等しい最期だ。

 生きとし生ける者は、誰もがそうなるのだ。必然の理だ。

 そう思うと、不思議と死の恐怖は薄らいだ。

 けれども、もっと恐ろしいと感じることがあった。


 それはつまり、自分のような人造生命体ホムンクルスは、死ぬまで創造主の支配域から逃れられないままなのだろうかという、ある種の強迫観念に近かった。


 自分の意志で人生を歩いたという実感もなしに、生涯を終えるのだろうか。

 自我を失い、何の価値も得る事無く、冥界の亡者の仲間入りをするのだろうか。

 自分が何の為に生まれたか、その意味の断片すらも掴めないままに。


 マヤはキリキックたちの事を考えた。チャミアを始めとした、他の兄弟のことも。

 彼らは、自分の意志で物事の取捨選択を行っていると無意識に自覚しているが、それこそ、ドクター・サンセットによる超高度なマインド・コントロールの結果だった。


 自分とチャミアは、ドクターの洗脳魔術から何とかして逃れられているが、それは偶然によるものなのか。

 あるいは、そうなるようにドクターが設計したのか? 何故? 一体何の狙いがあってのことだ?


 いくら頭を働かせても、霧がかかっているようで判別としない。

 考えれば考えるほど、足元が見えない底なし沼に嵌っていくように思えた。

 ゲシュタルトが崩壊を起こしかけて、このままでは自分が何者かであるかすら、不明なままに人生を終えてしまうような危機感に囚われた。


 自分が何者であるかすら、分からない。


 そう考えた時、それは本当に・・・・・・恐ろしい・・・・ことなのだ・・・・・と、脳が震えた。

 おぞまし過ぎて、心臓が弾け飛びそうだった。

 と同時に、拭いがたい苛立ちと怒りがこみ上げてくる。

 誰かの強い影響下で怯えながら毎日を過ごすなど、もうまっぴらだという怒りが。


 これ・・は俺の人生で、誰の人生とも交換することは許されない。

 俺の人生の手綱は、俺自身の手で握るのだ。

 自覚する度に胸の奥で熱い迸りが生まれた。その熱を駆動力として、マヤは突き動かされるように廊下を渡り続けた。


 廊下の突き当りに差し掛かり、扉が見えてきた。

 近未来的な幾何学模様がプリントされた、電子錠の備わった研究室。

 ドクター・サンセットが、訓練の時以外は常にこの部屋に籠っているのは、誰もが知るところだ。

 中で何が行われているかはさっぱり分からないが、どうせろくなことではないのだろう。


 マヤは上着の右ポケットに手を突っ込み、おもむろに中身をまさぐった。じゃらじゃらと、何らかの金属同士が擦れ合う音がする。

 その一つを手に取って状態・・を確認し終えると、今度は左のポケットからデコード・カードを取り出した。

 この日の為に用意してきた、電子錠破壊専用のカードだ。


 カードを差してから三十秒後。

 電子錠の開閉ランプが赤から緑へ。

 炭酸の抜けるような音と共に、ドアが横滑りに開いた。


 電灯で照らされた室内には機材が山のように積まれていた。

 目ざとく室内に視線を投げる。

 部屋の中央付近で、機材に囲まれながらディスプレイに向かい合っている、椅子に座った男性の後ろ姿を確認。


 突然ドアが開いた事に驚いたのか、男は反射的に背後を振り返った。

 その時には既に、マヤは左のポケットから大量のパチンコ玉を取り出し、小銃を撃つように部屋の中へ向かってばら撒いた後だった。

 男の顔を、確認するまでもなく。


 パチンコ玉の群れは、直ぐに球形ではなくなった。

 さながら毬栗かウニのように――同時に、それらが有する一般的な棘よりもずっと凶悪的な鋭さと長さで――びっしりと全方位から棘を生やすと、物凄いスピードで伸長。

 それだけでは終わらず、伸びきった鋼の棘から、枝分かれするように新たな、それも無数の棘が生え茂った。


 棘の群れは機材を串刺しにし、白い格子模様の壁に突き刺さり、部屋中を瞬く間に覆いつくした。

 そのせいで、男は椅子から立ち上がる前に、魔性めいた鋼の槍を全身に浴びる形となった。

 からんと、血に汚れた電子眼鏡サイ・グラスが床に落ちた。灰色の髪が紅く染まっていた。

 背中から突き出た太い棘の先端に、不気味な血の珠が浮いていた。


 マヤの能力=その名に現れている=血漿鋳造密林ブラッドフォレスト=手で触れた物体を、鋼に良く似た物質へ変貌させ、自在に操作する能力。

 それが今、確かに開花して男の身をズタボロにしていた。


 マヤは、小さく息を吸った。

 部屋に入った。彼が棘に触れると、まるで萎れた花のように、棘はあっという間にその強度を失った。


 遺体に近寄り、呼吸がないことを確認する。

 確実に死んでいる。即死だ。

 軽く安堵する。


「(やるべきことはやった。あとは、チャミアと合流して壁門ゲートに向かえば――)」


 今後の行動について、事前にチャミアと打ち合わせした内容を反芻している時だった。


 背後でドアが閉まった。

 あり得ない。

 デコード・カードは差し込んだままのはずだ。


 まさか――トラップ


 どっと冷や汗が沸いて腋の下を濡らした時には、相手の術中に嵌まってしまった後だった。


 部屋の空気が、妙な流れを見せた刹那だった。

 背中に強烈な圧が掛かってきた。堪えようとする間もなく、マヤは床に強く胸と膝を打ち付け、そのまま強制的に腹這いの格好をとらされた。


 ごほっ、と大きな咳が零れた。

 なんとか起き上がろうとするも、体が言う事を全く聞いてくれなかった。

 まるで、見えない岩の下敷きになったかのようだった。


『親殺しとは、またえらい行動に出たもんやなぁ』


 ハッとして、マヤは串刺しになっている男の亡骸を見上げた。

 確かにドクターの声がした。

 驚くなという方が無理な話だった。


「馬鹿な……」


 唇が震える。

 全身の急所を貫いてやったのだ。

 生きている筈がない。


 混乱と焦燥の渦中に沈んだマヤの心境などお構いなしに、目の前の風景に異変が起こった。

 死んだはずの悪魔の肉体、辺りに転がる演算装置――それらの何もかもに光の亀裂が入り、ガラスの破片のように砕け散った。


「せやけどな、そう簡単に殺せるもんやないで、ワシは」


 偽造のヴェールが取り払われた室内。

 一人堂々と、白衣のポケットに両手を突っ込み、不敵な笑みを浮かべるドクター・サンセット本人が、マヤを虫けらでも見るかのような目つきで見下ろしていた。


 稲妻のごとき衝撃が、倒れ伏したマヤの全身を舐めるように駆け抜けた。

 それと同時に、掴み始めていた未来が、するりと手元から逃げていく、とてつもなく絶望的な感覚があった。


「一体……」


 喘ぐようにして漏れたそれは、質問したというより、疑問が口を突いて出たと言った方が正しい。


疑似現実投射装置デミ・リアライザーや」


 そう言って、ドクターは目線を軽く動かして、天井を見やった。

 マヤの丁度真上に位置するそこに、スプリンクラーにも似た装置が取り付けられていた。


「特殊な電磁波を放出し、視界情報を誤認させる装置や。と同時に、限定的な過重力形成場を発生させ、こちらが指定した対象の動きを封じる事ができる。マヤ・デイブレイク・ブラッドフォレスト。お前さんはこの部屋に入った瞬間から、ずっとまやかし相手にご自慢の能力を奮い、仮初の勝利に浸っていたんや」


「貴様……!」


「そう睨むなや」


 ドクターが鼻で笑った。

 貴様が辿るべき運命が『これ』なのだと、その瞳が告げていた。


 マヤの激情に灯る目が、そこで新たな光を見せた。

 反撃の光だった。

 重力の枷から逃れるように、腕の骨にひびが入るのも構わず手を動かすと、床を思いっきり手の平で叩いた。


 だが、何も起こらない。

 どうしたことか、能力が発動しない。

 驚愕の面を被るマヤに対し、ドクターはひとしきり笑った後、悠然と口にした。


「誰がお前さんのジェネレーター能力を造ってやったと思っとる。お前さんの能力の特性も、弱点も、全てこっちはお見通しや。対策を講じない筈がないやろ」


 部屋の床は一見してどこにでもありそうなただの床だったが、その実、マヤの能力を封じる特殊な金属で構成されていた。

 いや、床だけではない。壁も天井も、全てがそんな具合だった。


 牙と爪を折られて檻に入れられた虎を前に、命の危機を感じる者などいない。今のマヤは、まさにそれだった。

 起死回生の芽は、どこにも生えてはいなかった。

 ドクターの暗殺は、失敗したのだ。


「(チャミア……すまない……)」


 愛しい妹の身を想えばこそ、屈辱感が途方もなく湧き上がる。

 ドクターの底意地の悪さを侮っていた。

 己を鼓舞する為とは言え、全てが上手く行くと、どこかほんの少しだけ楽観的な姿勢でいたのがまずかったのか。

 もっとじっくり、作戦を練りに練っておけば、こんな結果にはならなかったのかもしれないと後悔した。


 だが、次にドクターが発した言葉が、反逆の牙を剥いたマヤの心の有様を、もう二度と修復が不可能なぐらいに叩き壊した。


「ワシはな、全部分かっていたんや」


 冷徹な目が、運命の敗者を見下ろしていた。

 マヤの心臓が、一際大きな鼓動を打った。


「……どういう意味だ」


 震える声で問いかける。


「意味もクソもあらへん。全部は全部や。お前さんをこの世に生み出してから今日までの行動、そこに裏打ちされたお前の考え……全てが手に取るように理解できとる」


「万能感も、そこまでくると病気だな」


「黙れや」


 ドクターの目が、すっと曇る。

 不意に右足を持ち上げると、皮肉を口にした我が子の後頭部へ、強く打ち下ろした。

 ごり、と鈍い音が鳴る。

 マヤの眼の奥で、火花が一斉に散った。


「ぐぅ……!」


「お前さんの人生なんちゅうものはな、最初から終わっとったんや。そうなるように・・・・・・・ワシが仕組んだだけのこと。釈迦の手のひらの上を舞う孫悟空みたいなもんや」


 ドクターの口の端に、嗜虐的な色が宿った。


「お前さんがワシに反抗心を抱くのも、今回の卒業試験セレモニーをきっかけに、ワシの命を狙ってくるのも、全部、全部ワシは分かっとった」


「なんだと……」


「それだけやない。お前さんが《血漿鋳造密林ブラッドフォレスト》の最大奥義……自らの血を物質と練り混ぜ、自分の分身体を造り、本体の代わりに卒業試験セレモニーへ参加させたこともな。その分身体が、ノルマを一向に達成する様子を見せず、早々に機関の奴らに撃ち殺されてしまった事実も……そう、これら一連の流れ……全部、ワシは『理解』しておった」


「まさか……貴様、俺以外に対しても……」


「その通りよ。キリキックも、ルビィも、スメルトも、チャミアも、アハルも……お前ら殺戮遊戯グロテスクの命運の手綱は、ずーっとワシの手の中にあり続ける。最初から最後までな」


「なぜだ……!」


 何時の間にか、マヤの瞳から熱い滴が流れ落ちていた。

 滴は冷たい床に落ち、急速に熱を奪われていった。

 まるで、今後辿る彼の運命を暗示するかのようだった。


「お前は……俺達を一体……何だと思って……!」


「駒や」と、低い声で囁くようにドクターは言った。


「だが優秀な駒や。そうでなかったら、お前さんらにわざわざ『名前』を付けてやることもなかった。そう、『名前』や。マヤ・デイブレイク・ブラッドフォレスト。お前さんは自分の名前に、一度でも想いを馳せた事があったか?」


 一般都民の多くは意識していないが、幻幽都市において『名前』は重要な要素だ。

 なぜなら、都市だろうと《外界》だろうと関係なく、物質、現象、組織、法律、生命といった種々の存在規定は、名づけによって行われるからだ。


 人間は、固有名詞を持たない存在に対して十分な理解と考察を発揮できず、ゆえにそれは恐れに繋がる。

 なぜ『幽霊』という存在を恐れる人がいるかと言えば、それは『幽霊』という曖昧な名称によってその存在が一括りにされているからである。

 あるいは、かつての昔に与えられた『名前』が、現代においては廃れ、風化してしまったからだ。


 都市においてもそれは同じであり、同時に違った。


 幽霊とは異なり、名前を与えられぬことで、人間の手では扱えぬ程に存在力を増大させているモノが、都市には存在するのだ。

 ゆえに都市で行われる名づけの儀式には、呪術的な意味合いが込められていた。


 幻幽都市では、名を規定することで存在をこの世に固定化し、属性を与え、人々の理解と考察、そして観察が及ぶレベルまで、存在の次元を落とし込む。


 蒼天機関ガーデン有害獣ダスタニア……組織や生物に『二重の名前』が施されているのは、『二重の枷』を履かせることで、その存在と属性をより強固なものとするためだ。


 反対に、ベヒイモスのように『一つの名前』しか持たない存在は、存在自身が宿す力が巨大過ぎるが為に、名づけによる縛りが十分ではないことを意味している。


 名前は、存在を規定する。

 ひいては、存在が宿す力の根源すらも。


 それを考慮すれば、『マヤ・デイブレイク・ブラッドフォレスト』という名前ほど、意味深なネーミングもなかった。


「マヤ……古代マヤ文明の申し子。失われた神を発動させる、神話性を宿した者よ。ワシはその意味を込めて、お前さんに名をつけ、ワシが開発した能力名を組み込むことで、その存在を固定した。運命輪環召喚計画――ホイール・オブ・フォーチュン・プロジェクトに携わる者としての役割が、お前さんにはある」


「ホイール・オブ・フォーチュン・プロジェクト……!?」


「お前さん、『神話』について調べたことはあるか?」


 面白がるようにドクターは訊いた。

 そんなものにマヤが興味を持っていないのを分かった上で、あえて尋ねているように見えた。


「世界中の神話を紐解くとな、まぁ大雑把に言って、共通の話っちゅうのがある。人々が悪神の手によって蹂躙される中、英雄が現れて悪神を倒し、人類は平和を取り戻す……この世界中で語り継がれる御伽話のテンプレートを、ワシの手で少しだけいじり、違った結末を迎えるように仕組む。つまりは、『創作神話の再現』……それによって『神』を生み出し、都市を破壊する。それがワシの本当の目的や」


「そんな途方もないオカルト話が、本当に実現可能と思っているのか!?」


「ああ、できる」


 すっと、ドクターの眼差しに真剣さが宿った。

 そこに狂気はなく、ただ確信だけが顔を覗かせていた。


「それを可能とするのが、幻幽都市の面白いところや。そしてマヤ、今初めて明かすが、お前さんらの兄弟には、マヤ文明の神々の名が刻まれている。無論、そのままではワシの計画が上手く発動せんから、幾つかの名を組み合わせておる。なぜ、そんな事をしたか分かるか?」


「お前が目覚めさせようとしている、クソッタレの『神』とやらの供物にするためにか……!お前の計画を発動させるための、捨て石にするためにそんなことを……!」


「それもあるが、一番の狙いは別にある。ワシが生み出す神の『依り代』を目覚めさせる為に、あいつらには動いてもらったんや。忌々しい結界を破壊し、神の器となるべき『怨霊』を蘇らすためにな。はなからあいつら自身が、自由を勝ち取れるなんて思ってはおらん。そうはならない『運命』を、ワシは奴らの体に細工してやったんや。運命移植手術っちゅう、ワシ独自の医療技術を使ってな」


「……全部……!」


 全身の血が、終わりの見えない沸騰を起こしていた。

 際限のない怒りが、とめどなく精神の奥底で産声を上げていた。


「全部……お前の手の平の上で……踊らされっぱなしだったと……!」


 青一色の海――いっさいの障害はなく、どこまでも世界は広がっている。

 きっと、そこに飛び込める日が訪れると、希望を願って生きてきた。

 だが、マヤが直面した現実は、そうではなかった。


「さて、そろそろ最後の時や」


 ドクターが、電析眼鏡サイ・グラスつる・・を軽くなぞる。

 すると、それまでマヤの身を縛り付けていた疑似現実投射装置デミ・リアライザーが、その機能を停止させた。


 ふっと全身が軽くなるのを覚えた瞬間、マヤは跳ね返ったゴムボールのように飛び上がった。

 その目に、途方もない怒りと、わずかばかりの混乱を見せながら。


「正々堂々、一対一の勝負と洒落込もうやないか。英雄クン♪」


 ドクターの白衣が、ひとりでに翻る。

 分子配列機能を持たせた一張羅にして一つの兵器。

 それは折り紙でも折るかのように規則的な畳みを見せた挙句、二対の、硬質の翼へと変化した。

 それこそ、神話に登場する天使のような。

 だが翼に変異した部分は、分子配列の影響を受けて光の屈折が変化して、暗黒一色に染まっている。


 さながら、悪の化身が如く。


「マヤ・デイブレイク・ブラッドフォレスト。古代マヤの石碑に刻まれた、英雄の名を持つ者よ。悪神たるワシを倒し、その手に夜明けデイブレイクを取り戻すか?」


 呼びかけるも、返事はない。

 マヤはただ、稲光のような鋭さを宿した眼差しで、目の前に立つ男の姿を見つめていた。


 計画……ホイール・オブ・フォーチュン・プロジェクト……今のこの状況も、その一環なのだと理解はしている。

 どの方向に足を一歩踏み出したところで、もう閉塞した道しか残されていないのだという事実も。

 自分の運命は、初めから終わっていたということも。


 何もかもを理解して、だがそれでいてなお、マヤは抗おうと固く決意した。


 ただ憎くて――天にも昇る憎悪のままに、ポケットから残りの鉄球を取り出した。


 ドクターが、実に、実に面白げに笑った。

 世界の全てが愉快でたまらないとばかりに。


「もう一つ、お知らせしとこうか」


 背中から生えた二対の暗黒翼をばさりとなびかせて、ドクターは、おそらくマヤが最も耳にしたくなかった事実を、絶望の吐息ブレスとして迸らせた。


「残りの兄弟、もうみんな死んだで。チャミアに至っては、顔面を破壊されて死んだんや。全部、じぇーんぶ、ワシがそういう『運命』を辿るよう、仕込んでやったんや! なぁ? たまらんやろぉ!?」


 眼鏡の奥に再び現れる、狂気の眼差し。そして哄笑。


 マヤは、声にならない雄叫びを上げて、ドクター・サンセットという名の悪神へ突撃した。





 ▲





 五分後――

 夜明けは、来なかった。


 床に視線を落とせば、そこにうつ伏せで倒れ伏しているのは、絶命したマヤ。

 部屋の床や壁には、たった五分の間に壮絶な戦闘が繰り広げられたことを物語るように、生々しい傷跡が刻まれている。


「結構、手こずらせおってからに……」


 荒い息をつくドクター・サンセット。彼もまた、深手には至らないが大小の傷を負っていた。

 頬と右脇腹に裂傷。左足首を複雑骨折。

 室内の壁や床がマヤの能力を受け付けない造りになっているとは言え、無傷で切り抜けられるほど甘い相手ではなかった。


「だが、これでええ……」


 ドクターは翼の展開を終了させ、元の白衣へと戻すと、左足を引きずりながら壁際へ移動した。

 右手の指先で壁を撫でて干渉。壁の一部が左右にスライドし、緊急警報装置が現れた。

 その、ふてぶてしく赤色に染まったボタンを、握り拳を作った右手で思いっきり叩いた。

 施設内中に響くビープ音――異常を感知した施設内の作業員たちが、どかどかと駆け込んでくる。


「ドクター!? こ、これは一体……!?」


 雪崩れ込むように室内へ入ってきた作業員たちが、手負いのドクターと、血だまりの中に伏すマヤを交互に見て、動揺も露わに口ごもる。


「そいつを外に運べ」


「は、運ぶ……?」


 要領を得ない作業員の一人へ、ドクターが苛立たしさを隠しもせずに言い放つ。


「反逆者や! こいつ……今まで育ててやった恩を忘れて、突然ワシに向かって牙を剥いてきおった……目障りやから、さっさとこっから運べ! 全員でや!」


「は、はい!」


 言われるがまま、作業員たちはマヤの遺体へ駆け寄った。

 外で様子を見ていた他の者たちも含め、全員が室内に入ったのを確認して――


 ドクターが、意味ありげな笑みを浮かべ、電析眼鏡サイグラスつる・・をなぞった。


 空いていたドアが、ひとりでに横滑りして閉じた。


「さて……と」


 ため息一つ。

 計画の達成に向けて、ドクターは荒々しく肩を揺らすと再び壁に干渉した。

 壁の一部が左右に開閉して、プラズマライフルと夥しい弾帯が現れた。


「あ、あの、ドクター……何を……?」


 ドアが勝手に閉じた事と、ドクターが手にした物騒な武器を前に、不穏な空気が作業員らの間で流れた。


「ん? ああ、そうか。説明しておらんかったな」


 まるで、これからハイキングにでも行くような口ぶりで、ドクターはプラズマライフルを構えた。


 その冷たい銃口を作業員らに向けて、


「君らな、ここで死んでもらうわ」


 強く引き金を引いた。


 銃口から、暴れ狂うように放出される電磁の弾丸。

 その一つ一つが、作業員らの顔や胸を焼き千切り、濃密な赤黒い噴霧を生じさせていく。


 叫喚――騒乱――喉と肺を焼かれ、作業着が弾け飛んだ。

 肉の焦げる悪臭が、途方もない程に室内を埋め尽くした。


 惨劇と呼ぶにはぬるいほどの地獄絵図。

 それを生み出しているドクターの眼は、粘ついた熱意に燃えていた。


 飽くことなく続く凶行――眩く光る電磁の連射――その最中に、ドクターは死んだはずの父と母の幻影を、数瞬の間ではあるが見出した気がした。

 だがそれも、絶え間なく乱射される蒼白い弾丸の彼方に消え、もう二度とドクターの心に降りてくることはなかった。


 およそ一分近くにも渡る乱射撃は、弾帯を全て消費尽くしたところで終了した。

 不気味なほどの沈黙と、常人がこの場にいたら気が狂いかねないほどの血臭で、部屋は一杯になった。


「英雄を斃した悪神は、無辜なる人々を蹂躙し――」


 折り重なった焼死体へ向けて、謡うように台詞を口にしながら、ドクターはプラズマライフルを放り投げた。

 続けて、また壁の一部を撫でた。すると今度は、入口とは反対側の壁が重い音と共に左右へ開閉した。

 さながら、封印されし神殿へドクターを誘うかのように。


「人々を蹂躙し尽くした悪神は、閉ざされた世界を築くために――」


 大仰な手振りを交えながら、ドクターは歩く。

 新たに開いた壁の向こうへ。

 組織を設立した当初からずっと安置させていた、召喚の儀式を執り行う為の神殿へ。


「おお、神よ。その偉大なる力を、常世の闇に目覚めさせん――」


 足を踏み入れた先に『それ』はあった。


 虹色に輝き、天井にまで届こうかというほどに巨大な虹色の珠。

 台形型の土台に設置されたその珠の全面からは色とりどりのチューブが伸び、壁際に密集する機械式演算機へ繋がっている。


 僅かな血滴を床に垂らしながら、ドクターはゆったりとした足取りで、その不可思議極まる装置へと近づいた。

 昔ながらのキーボードタイプのインターフェース――その隣に目をやると、ガラスのカバーが掛けられた、四角形型の穴がある。


「時は来たれり――」


 カバーを空けながら、ドクターはまたもや白衣を変形させた。

 かつて、ドクター・ロックを脅した時と同じように、その裾が鋭利な刃物の形状を象ると、


「Xivalver(シバルバー)の目覚めは、悪神の血贄により始まる――」


 ずぶり、と胸の真ん中を深く突き刺し、勢いよく引き抜く。

 夥しいほどの血潮が間欠泉の如き吹き上がり、キーボードを濡らし、四角形型の穴にどくどくと流れ込む。


 ドクターの肉体が、穴を覆い隠すように、どっとうつ伏せに倒れ伏す。

 薄れゆく意識の中、迫る死の足音。

 だが、ドクターの気分は黄金じみた恍惚に囚われている。


 虹色の珠が、強い明滅を繰り返し始めた。

 自身の研究――『捜索神話の再現』が生み出した『最高傑作』の産声を確かに耳にして、瞼を静かに閉じる。


「Xivalver(シバルバー)……名の殻を打ち破り……名もなき邪神として都市に悪夢をもたらさん……!」


 研究者としての誇りと矜持に包まれて、ドクターの命は捧げられた。


 自らの叡智が生み出した、『神』そのものへと。

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