6-6 崩れた安息

 時刻――20:07

 千代田区――日比谷第三地下シェルター


 避難者のほとんどが、石のように静まり返っていた。

 不安と恐怖を抱え込んでいるせいで言葉数は少なく、まるで時間が死んだような空気が、その場を支配していた。


 日比谷公園の真下に位置する、強固な隔壁により外の世界と完璧に隔絶された地下避難施設。

 太陽の届かぬ場所にありながらも、天井に吊るされた照明のおかげで、そこは昼間のように明るかった。


 食料と水の備蓄は、延べ五千人にも及ぶ避難者の腹を三か月近くに渡って満たせるくらいには十分にあるし、エネルギー面でも問題はない。

 シェルターの各ポイントに設置された受送電クラスタを介して、地中に埋め込まれた電量保存槽から常時電気が供給される仕組みになっているおかげだ。


 さらに、共用の浴槽ルームだけでなく、子供たちの精神的ストレスを和らげる目的で作られた遊具スペースまで完備されている。


 物質的には恵まれている状況だが、それが必ずしも、避難者の精神状態に安寧の灯を向ける事になるとは限らない。

 なにせ、幻幽都市全域を危険に晒すほどの大規模テロ行為など、滅多に無いことなのだ。


 予想もつかない惨劇が何時発生してもおかしくない。

 誰もがそのことを、無意識のうちに理解していた。

 そのせいで、恐怖に抗おうとする気構えが、硬質な仮面となって避難民たちの顔に張り付いている。


 日常を蝕む何者かの存在から目を逸らそうとする者も、中にはいる。

 それでも、超大型スクリーンが投影するニュース映像が、途方もない絶望感を伴って圧し掛かる様は容赦がない。


 ニュース映像は繰り返し繰り返し同じ場面を流すばかりで、決して最新の情報を更新している訳ではなかった。

 ヴェーダ・システムがクラックされたせいで、リアルタイムでの都市の姿は、現場にいる者にしか分からなくなっていた。


 シェルター内には明らかに顔色の悪い者もいた。

 膨れ上がる苛立ちに精神を圧迫されたせいか、一部ではちょっとした小競り合いが起きている始末だった。


 方法は色々あれども、みな大なり小なり、足元に忍び寄る耐え難いストレスと静かに必死に戦い続けている。

 それはなにも、都民だけに限った話ではない。

《外界》からやってきた獅子原琴美も、また同様だった。


 空調が効いているのと床一面が暖房カーペットになっているお陰で、シェルター内は寒さとは縁遠かった。

 それでも琴美は、シェルターの入口付近で配られた厚手の毛布を、頭から被る様に羽織っている。

 どうしたことか、寒さが引かない。


 視線が自然とスクリーンの方を向く。

 電子信号と化した、瓦礫や黒煙の映像が目に入る。

 破壊されゆく都市の惨状極まる光景から、片時も目を離せなかった。

 今起こっている事実の全てを、無理矢理にでも頭の中に叩き込み、正しく現状を把握するほかないと思った。


 その一方で、琴美の左隣に座るエリーチカはと言うと、先ほどからずっとこめかみの辺りに右手を押し当て、自身の肉体に内蔵されている無線装置を通じて再牙と連絡を取り合おうとしていた。もうかれこれ、三十回近くは通話を試みている有様だった。


「繋がりますか?」と、琴美が心配げに尋ねるも、


「駄目ですね。まだ回線が復旧していないようです」


 諦めたように、エリーチカはこめかみから手をどけた。

 琴美の眉間に、心配から深い皺が刻まれた。


「火門さん、大丈夫なんでしょうか」


「大丈夫ですよ」と、エリーチカが即答した。それだけで、彼女が相棒たる彼にどれだけの信頼を寄せているかが伝わってくる。だが、琴美は気が気でしょうがなかった。


「あの怪物たち、一体何なんでしょうか」


 スクリーンに目を向けながら、呟くようにして琴美は言った。

 今まさに、都市を混乱の渦中に落とし込んでいる元凶がそこに映し出されていた。

 獄卒を彷彿とさせ、どの動植物の系統にも収まらない、まさに怪物と断じて良い生命体が。


 都市の地上を我が物顔で跳梁跋扈する彼らを見ているうちに、琴美だけではなく、避難者の多くが言い知れぬ恐怖と、強烈な好奇心とをほとんど同時に刺激されていた。


「ベヒイモスに似ていますね」


「ベヒイモス?」


 聞き慣れない言葉を口にしたエリーチカに、琴美がいち早く反応した。


「都市の西部地域……デッド・フロンティアと呼ばれる禁足地に生息している怪物たちです。大禍災デザストルの発生直後から、その存在が公式に確認されています」


「あの怪物が、それに似ているんですか?」


「ええ、とても」と、エリーチカが映像に映し出されている怪物の一体を指差しながら続けた。


「額に紅い宝玉のような生体パーツがあるでしょう? あれはベヒイモスに良く見られる特徴の一つです。ただ、人間と同じ二足歩行をするベヒイモスなど、聞いた事もありませんが」


「あってもおかしくない話だがな」


 会話に割って入ってくる形で、後ろから声がした。

 振り返ってみると、見知った人物が紙コップを手に立っていた。


 その人物は昼間出会った時と同様に、黒いブーツに黒いコート、黒いマフラーで全身を固め、顔はやはり何度見ても、山狗のそれであった。


「捜索屋さんじゃないですか」


 琴美の暗く沈んでいた表情に、その時わずかだけ光が差した。太陽の光届かぬ地下で見知った人物と再会できたというシチュエーションが、小春日和のような心地となって彼女の懐に溶け込んできた。


「どうしてここに?」


「たまたまだ」


 捜索屋ことフリップ・フロップは琴美の右隣に座り込むと、紙コップに入ったソリッド・コーヒーを、持ち前の長い舌で舐めすくった。


「帰りにどこかで一杯ひっかけようと思ってな。私のような異形者フリークスでも、毛嫌いせずに受け入れてくれるバーがあるんだ。お気に入りの隠れ家さ。そこでスプリッツァーを頼もうとした矢先、あの忌々しいサイレンが鳴って、流されるままここに来た。まさか、君たちもここに避難しているとは知らなかったが……ところで、再牙の奴はどうした?」


「まだ、立川市にいます」


「同行しなかったのか?」


「行こうとしたんですが、再牙さんに止められて……」


「そうか」


 それで良いとフリップ・フロップは思った。

 依頼人を危険区域に連れて行くなど言語道断である。


 たとえそこに、父親の死因に繋がるものがあったとしても。 

 下手を打てば心が壊れかねない。

 突き止めた真実をどう依頼人に知らせるかも、万屋の力量にかかっている。


 フリップ・フロップは琴美の肩越しにエリーチカを見ると、懐かしそうに声を掛けた。


「久しぶりだな再牙の相棒。元気にやっているか?」


「お蔭様でなんとか」


「私のところに再牙を向かわせたのは、君の発案だろう?」


「その方が手っ取り早いと思ったんです。私も再牙も、貴方の腕前は信用していますから」


「君はともかく、再牙の方はどうなんだろうな。嫌々といった気分だったのかもしれないぞ。もう少し、あいつの力量を信じて、独り立ちさせてやってもいいんじゃないか? まぁこっちとしては、客が来るぶんには別に構わないんだがな。ただそれでも、ちょっと私に頼り過ぎなところがあるように思う」


「それよりも、『あってもおかしくない』とは、どういう意味ですか?」


「何?……あぁ、さっきの話か」


 フリップ・フロップは紙コップを傾けると、分厚い黄灰色の体毛に覆われた喉を鳴らし、一拍置いてから、先ほどの言葉の意味について解説しだした。


「別に、深い意味なんてない。幻幽都市で、あり得ない事象があり得ないまま闇の彼方に葬り去られるなんてことはないと、そう言いたかっただけだ。二足歩行型のベヒイモスが実在していても、なんら不思議じゃない。ただ今回の騒乱は……そうだな。自然発生というよりも、人為的な、ある種の作為を感じる」


「次元の門の事ですね」


 エリーチカの返答に、フリップ・フロップが大きく頷いた。


「あれを通じて怪物たちが現れたと、テレビでは伝えていたな。過去に前例がないほどの、同時多発的発生現象だとも」


「何なんですか、それ」と、琴美が二人の会話からはぐれるのを嫌がるような感じで訊いた。

 応えたのはエリーチカだった。


「次元の門というのは、簡単に言えばワープ機能を持った門のことです。Aという地点とBという地点。異なる二つの空間を繋げる時空間移動のトンネルで、定期的に発生している超常現象の一つです。ただ、シュレディンガー的特性を宿しているために外部からの正確な観測は不可能で、実際に門を潜ってみないと、どこに繋がっているか特定出来ないのだそうです」


「隣り合っている並行世界とも、稀に繋がることがある」と、フリップ・フロップがポケットからスマート・スティックを取り出しながら口にした。


 彼は、その見た目通り棒状スティックの形態をとっている次世代式情報端末を起動させた。

 先端部の投射口が光り、空間にA4サイズの画面が投影された。

 表示されているのは、過去のニュースサイト。日付は今から六年前になっている。


異界戦争バルバロイ・ウォーズと呼ばれる事件が、その昔にあってな」


 スティックの表面を体毛に覆われた指の腹でなぞってみせると、画面が下へスクロールしていった。


「どこかの異世界と、この都市が次元の門で接続されて、大量の異世界人が雪崩れ込んできたんだ。そこでちょっとした摩擦が起こり、機関との間でトラブルが発生した。あれも中々の騒動だったな。連日連夜、報道が過熱していたのを覚えている」


「ですが、あの時生じた次元の門は、たったの二か所だけでした。今回のように、一度に大量の門が都市のあちこちに現れるなんていう事態は、初めてのことです。なんらかの意図を感じます」


「つまり、誰かが、その、次元の門を造り出して、そのせいであんな怪物たちが現れたってことですか?」


 つっかえながらも琴美が推測で口にした内容に、フリップ・フロップは頷きも否定もしなかった。


「可能性の話だ。しかし可能性が実現性を伴って現出することだって、ままにある」


 煮え切らない言い方だった。

 自分が振った話なのに、先の見えない会話はさっさと切り上げようと思ったのか、フリップ・フロップはスマート・スティックをスリープ状態に移行した。


「どちらにせよ、何が起こっても不思議じゃない。幻幽都市ここはそういう場所なんだ」


 言い聞かせるような口ぶりだった。そうして、フリップ・フロップは両手を床について上体を腕の力だけで支えると、特に意味もなく天井へ視線を向けた。

 彼はしばらく、その姿勢を保ち続けた。まるで凍ったように動かない。

 何事かと思い、琴美もエリーチカも、習うようにして天井を仰ぎ見た。


 木目調のデザインが施された合金製の天井は、さながら蓋のようだった。

 そのドーム状に曲面を描く分厚い蓋の何か所かに、黒い染みのようなものが浮かんでいた。


 琴美は目を皿のようにして観察し、やや時間をかけて黒い染みの正体が亀裂であると知った瞬間、全身の汗腺からぶわりと汗が滲み出るのを覚えた。


 他の避難者らは気づいていないようだったが、ゆで卵をテーブルに叩き付けた時のように、亀裂は少しずつ広がりを見せていき、破片とも呼べぬ破片が、ぱらぱらとだだっ広い空間を舞い落ちていった。


 凶兆の到来。


「二人とも立て。ここを出るぞ」


 フリップ・フロップが腰を浮かそうとした直後、崩壊が駆け巡った。

 合金造りの巨大な欠片が、次々に避難者の頭上へ落下していく。

 ダンプカーが激突したような轟音が床を撃ち、運悪くその場にいた何人かが下敷きになった。


 弾かれたような叫喚があちこちで上がった。

 照明の幾つかが破損し、シェルター内は極端な明暗調の演出に晒される羽目になった。

 まさしくパニックの嵐という他なかった。

 一時の安全は脆くも破壊され、渦を巻くような混沌が地下シェルターを覆い尽くす。


「来い。離れるなよ!」


 フリップ・フロップは紙コップをその辺に捨てながら、立ち上がったエリーチカと琴美の腕を掴んで走った。

 地上へ脱出しようともみくちゃになる人ごみの中、彼は大穴が穿たれた天井へ厳しい面差しを向けた。


 そこで確かに目にした。密林を移動する猿を彷彿とさせる移動方法で、天井穴を通じて壁を這う悪夢の群れを。

 堅牢であったはずのシェルターを無残にも破壊してみせた、脅威の存在を。


 完全な破損を免れて不規則に点滅するしかない幾つかの照明が、蜘蛛の子を散らすようにシェルター内へ入り込む軍鬼兵テスカトルの姿を、不気味にも照らし出していた。


 鋭く長い爪や、口腔内に収まりきらないほどの長大な牙からは、強力な腐食性を秘めた透明色をした溶解液が滴り落ち、地上へ真っ逆さまに落下した分厚い合金片にかかって、激しい化学反応の末にあっという間に溶かし始めている。


 鉄塊を炙ったような臭気と、怪物らが細い喉奥で奏でる奇声とが、止まる様子を見せる事なくシェルター内に拡散していく。


 混乱は臨界点に差しかかりつつあった。

 六つある地上への非常出口のドア前で、怒号と喧騒が沸きに沸いて、壁を震わせている。


 一部では将棋倒しも起こり、人垣を超えて先に脱出しようとした者を、周囲の人々が引き摺り下ろしてぶっ叩いていた。

 生存本能を何よりも優先させた結果だった。


 多くの都民が正気をかなぐり捨てていた。

 理性が異常に蝕まれ、いつ怪物たちの犠牲になってもおかしくはなかった。


 しかしフリップ・フロップは、こんな状況に陥りながらも機転を十分に働かせられるぐらいには、まだ冷静さを保っていた。

 非常口を使っての脱出に拘っていては、あの怪物たちの犠牲になるのは明白だ。新たに道を切り開く必要性があった。


「私の体に掴まっていろ。ここを脱出する」


「でも出口が……」


 恐怖に怯える眼差しの琴美の方を見ずに、フリップ・フロップは手短に言った。


「出口が使えないなら、作るまでだ」


 すでに十体ばかりの軍鬼兵テスカトルが床へ着地し、こちらへと向かってきている。

 ぐずぐずしている暇はない。


 琴美とエリーチカの腕が、フリップ・フロップの逞しい胴体に回された。

 彼は右腕を天井へ向かって鋭く突き出した。

 その動きに連動して、彼の首元に巻かれたマフラーから幾条ものワイヤーが飛び出し、天井を支えている補強材の一つを絡めとった。


 火花が散る。しかし、補強材は切断されずに軽く折れただけだった。

 そのままワイヤーを高速で巻き戻し、三人の体が宙に浮いた。


 飛翔めいた動作で、フリップ・フロップはすぐ近くにあったもう一つの補強材へ飛び移りながら、今度は天井のてっぺんに向けてワイヤーの束を音速の如きスピードで放った。

 建設構造上、そこの壁は厚みが薄くなっているはずと判断したのだ。そして、確かにその通りだった。


 斬撃と呼ぶに相応しい、鋼糸の連撃だった。

 火花が壁の表面を激しく駆け抜け、ブロック状にくり抜かれた合金の塊が落下していく。


 いち早く、フリップ・フロップは落ち行くブロックの一つへ向かって跳躍し、踏みつけた。

 一秒と経たぬ間に、反動を利用してまた跳んだ。

 さすがに琴美が、驚き交じりの悲鳴を漏らした。


 残りのブロック群は、そのまま重力に引かれて、避難民へ襲いかかろうとしていた軍鬼兵テスカトルを圧し潰した。

 下界で、一際大きな悲鳴が反響した。

 舞い上がる粉塵が、琴美とエリーチカの足先に纏わりついた。


 混迷を極める避難民たちの様子などお構いなしに、フリップ・フロップは俊敏に即席の『非常口』へワイヤーを放った。

 今の位置から外の様子を伺うことは角度的に無理があったが、それはあくまで肉眼での話に限る。

 ワイヤーには疑似神経が埋め込まれていて、障害物の在処ぐらいは分かるだけの感覚能力があった。


 そうして狙い通り、ワイヤーが穴の外にある障害物――恐らくは巨大な瓦礫の塊を捉えたのを首元で感覚した途端、フリップ・フロップが手ぐすねを引くように腕を引いた。


 ワイヤーが宙吊りになった彼らを勢い良く巻き取っていった。

 あっという間に避難民らとの距離が遠ざかり、三人は打ち上げられたロケットのように穴を突っ切って、夜天の下に躍り出た。


 それでも安堵からは程遠かった。

 滞空の最中に、フリップ・フロップは地面を見た。

 軍鬼兵テスカトルの群れが、こちらを見上げつつも鋭い牙を剥き出しにしている。


「捜索屋さん!」ひどく切迫した声で琴美が叫んだ。


 その声に応じるように、フリップ・フロップが舞うように五指を広げ、機敏に腕を動かした。

 マフラーから飛び出したワイヤーが、地を這う獲物目掛けて急降下する鳥のように夜風を断ち割り、眼下の軍鬼兵テスカトルたちをサイコロ状に切り崩していった。

 地面に着地するまでに、五、六体ほどが、獣拷ワイヤーの洗礼を受ける結果となった。


「走れ!」琴美とエリーチカを体から引き剥がしつつ、フリップ・フロップは叫んだ。


「とにかく走れ! 止まったら殺されるぞ!」


 向かう場所は決まっていなかったが、とにかく三人は足の動く限りに瓦礫を飛び越え、小石を蹴とばしながら走り続けた。


 先頭をエリーチカが拓き、彼女の手をしっかりと掴んだ琴美が、喘ぐように息を切らして懸命に足を動かし続ける。


 しんがりを務めるフリップ・フロップは、修羅場を潜り抜けてきた経験を存分に発揮し、冷静ながらも容赦のない攻撃を、迫りくる軍鬼兵テスカトルらへ叩きつけた。


 ワイヤーの斬撃を受けて、軍鬼兵テスカトルは再生しなかった。

 額の、肉体の制御機能たる宝玉を完璧に破壊されていったせいだ。


 誰に教えられたわけでもない。フリップ・フロップは、そこがこの得体の知れぬ怪物たちの弱点だと導き出していた。

 未界開拓局ヴェアヴォフルに属していた頃の、経験の発露である。

 都民の天敵たるベヒイモス相手に、なりふり構わず腕を振るい続けてきた凄絶な経歴が、彼の命を繋ぎ止めていた。


 それでも数が多すぎた。

 殺しても殺しても、軍鬼兵テスカトルはあちらこちらの陰から飛び出し、次々に襲いかかってくる。

 次第に、フリップ・フロップの足が止まる回数が多くなり、自然と琴美たちの距離が開かれていった。


 たまらず、琴美が大声を上げた。


「捜索屋さん! はやく!」


「私に構うな!」


 黒い背中が吠えた。思わず琴美は声を失った。


「行け! さっさと行くんだ!」


 不思議と悲痛さは無かった。自暴自棄になっている訳ではないのが、声の調子で琴美にも分かった。

 生き延びる為に戦うというのだ。それは、今の・・琴美には出来ない芸当であり、覚悟だった。

 ある種の気高さが、輝きの中に確固としてあった。


「行きましょう。あの人なら、きっと大丈夫です」と、エリーチカが琴美の手を引いた。


「ここからなら、蒼天機関ガーデンの本部庁舎が近いです。そこで保護して貰いましょう」


 奇妙な巡りだった。まさか都市の中枢を、日に二度も訪れる羽目になるとは思わなかった。

 琴美は小さく頷いて、その場から走り去った。


 走って走って、しばらくして一度立ち止まり、振り返った。

 フリップ・フロップの姿は見えなくなっていた。


 それでも、耳の奥でワイヤーが肉を断つ音が、たしかに聞こえた気がした。

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