3-3 獅子原琴美、捜索屋と出会う

「ここだな」


 新宿区中央新東口の改札口を出て、途中の公園で休憩を挟んでから数十分後。人気の無い路地の一角を歩いているうちに、目的の店が現れた。

陽紅亭ひこうてい』と印字された立体式看板ホロ・サインの控えめなネオン発光が、やけに目立って琴美の視界に飛び込んでくる。今時珍しい赤レンガ造りのその店は、とっくに死滅したはずの純喫茶を彷彿とさせる出で立ちをしていた。


 再牙は琴美を連れ立って、カウベルを鳴らして店の扉を開けた。店内に設置されたスピーカーから流れる、小洒落たジャズの音色。二人の耳に聞こえてきたのはそれだけだった。

 狭い店だった。カウンターが五席と、四人掛けのテーブル席が三つ。それだけだ。カウンターの向こうでは、店主と思しき壮年の男性が「いらっしゃいませ」と言いながら、一人で洗い物をしていた。


 客もまた、一人しかいなかった。入口から一番離れたテーブル席で、窓を背にして椅子に座り、電子ペーパーを捲っていた。しかもちょうど、琴美がいる側から顔を確認できる位置にいた。

 その客の姿を見た途端、琴美は思わず肝を潰しかけた。同時に、きっとこの人物が捜索屋なのだろうと、反射的に察知した。

 仮にこの店がもっと広く、多くの客で賑わっていたとしても、当たりをつけるのは容易だ。つまりそれだけ、捜索屋らしき人物は異彩な風体をしていたのだ。


 服装が、という意味ではない。木枯らしが舞うこの季節に、黒いコートに黒いブーツを身につけ、首元に黒いマフラーを巻いて防寒対策をしている姿は、どこもおかしくない。

 異質を極めていたのは、彼の顔つきである。

 顔が、どこからどう見ても山狗やまいぬのそれであったのだ。

 狼じみた貌のフォルム。野性を剥き出しにした顔立ち。黄色味がかった灰色の体毛に覆われた両耳は、少し前方を向いている。まさに、人面犬ならぬ人身犬面じんしんけんめん。獣人そのものといった出で立ち。

 もうどんな現象に直面しても驚くまいと肚を括っていた琴美も、これには大いに面食らって言葉を失うしかなかった。


「あれが目当ての人物さ。憑物病つきものやまいって言う、動物霊に憑依されて細胞構造が変異する難病に罹っちまってる」と、再牙が小さな声で琴美に耳打ちした。


「遅いぞ再牙。五分遅刻だ」


 電子ペーパーを閉じて、客がこちらを向いて呼びかけた。名前を呼ばれていない筈の琴美が、緊張した面持ちになった。再牙をとがめたフリップ・フロップの声色が、冷然として重みに満ちていたからだった。獣そのものといった顔つきも相まって、疵面の再牙にも負けず劣らずの迫力があった。


「時間を指定したのはそっちだぞ。なのに遅れるとはどういう了見だ」


 文句を垂れながら、フリップ・フロップはテーブルに置かれていたティーカップを口に運んだ。器用に舌を操って、カップの中身を一滴も零すことなく飲み干す姿が、琴美に驚きと感心をほぼ一辺に与えた。


「五分くらいいいじゃねぇかよ。十五分遅刻したら問題だろうけどよ」


「時間の長短は関係ない。遅刻は、私が嫌う不健全な社会習慣の中でもかなりの上位に位置する悪癖だ。マイナス三点だな」


「マイナスって、なんだそりゃ?」


「お前と依頼人の合計ポイントがマイナス二十点に到達したら、店じまいだ。依頼の話は無かったことにさせてもらう」


「今回はポイント制で対応を変えるってことか? ずいぶんと階級的な考えだな」


 露骨に嫌そうな表情を見せる再牙だったが、フリップ・フロップはぴくりとも笑わずに、唸り声にも似た溜息を吐いた。


「今の言い方は気に食わない。更にマイナス三点だ」


「まだ店に入ってから数分しか経ってないのに、もうマイナス六点とは。巨大複合企業メガ・コーポの昇格試験なみの厳しい査定だな」


「今日の私は、階級的な気分・・で誰かと接したいんだよ」


「その『誰か』を、約束通り連れてきたんだから、ちょっとは加点してくれてもいいんじゃないかな?」


「ふむ……」


 フリップ・フロップは再牙の傍らに立つ琴美へ、文字通り獣じみた視線を向けると、じっと観察するような目つきになった。それは、琴美が初めて体験する目つきだった。

 獲物を見定めるように鋭く光る金色の瞳に見つめられて、しかし不思議と恐怖は抱かなかった。むしろ驚きに近い衝撃を受けたが、それも直ぐに消えて、琴美の中に奇妙な感覚だけが残った。自分はいま、未体験の領域にいるのだという自覚の現れが、その正体だった。


「まぁ、遠慮せずに掛けてくれたまえ」


 慇懃無礼といった調子でフリップ・フロップは言うと、黒いコートに包まれた右手を突き出して、対面の席を指差した。その指でさえ、人間というよりは狼のそれに近かった。顔中を覆う体毛と同じ、黄灰色の毛がびっしりと手の全体に生え茂っていて、黒く硬そうな爪は短く切り揃えられている。 

 ほとんど呆気に取られながらも、琴美は勧められるがままに席に座った。その隣に、再牙がどかりと腰を下ろした。

 直後、フリップ・フロップが琴美の目を見て口をきった。


「それでは早速仕事の話を……といきたいところだが、ここは喫茶店だ。客である君には、何かを注文する権利がある。それは存分に行使して問題ない権利だ」


「はぁ……」


「選べ。好きな物を」


「あの、でも……」と、琴美はテーブルの周りを見てから言った。「メニュー表が見当たらないんですけど……」


 そこで、フリップ・フロップの左右の耳が、言葉の残滓を拾うようにピクリと動いた。


「君、もしかして《外界》からの来訪者か?」


「はい」


「なるほど。プラス五点だ」


 これでマイナス一点の状態になった。

 加点の理由はなんですか? と言いかけた琴美だったが、それより先に、フリップ・フロップが少し獣臭い吐息を漂わせて口にした。


「《外界》からの依頼者というのは、実のところかなり珍しい。俺はこの仕事を続けて今年で七年目になるが、来訪者からの依頼は五件しか受けたことがない。貴重な体験だなこれは。それと注文の仕方だが、覚えておくといい。君が何時までこの都市にいるかは知らないが知っていて損はない……テーブルの淵を強めに撫でてみろ」


 琴美は言われた通りにした。すると、テーブルの表面に一瞬だけ虹色の光彩がはしり、電子表記されたメニュー画面がテーブル上に浮かぶようにして現れた。反射防止フィルムがテーブルに貼られている為か、店内の照明を真上から浴びていても、電子情報化された画像や文字は鮮明だった。


「画面を手でスライドさせて、気に入ったメニューをタップして選択。メニューの下部分を横一直線になぞって注文となる。インタラクティブ・テーブルだ。ほとんどの飲食店が採用している。さ、選びたまえよ」


「は、はい」


 まるで命令するようなフリップ・フロップの口調を少し煩わしく思いながらも、琴美はメニューをスライドさせていった。

 そんな時だった。彼女がその行為を始めてからまだ五秒と経たないうちに、再度フリップ・フロップが言った。それも、どこか投げやりな口調で。


「マイナス十点だな」


 一気にマイナス十一点に陥った事実を直ぐには受け入れられなかったか。唖然となって、琴美は反射的に顔を上げた。


「もっと早くメニューを決めて欲しかった」と、フリップ・フロップが腕を組みながら、如何なる感情が込められているかも分からない瞳で琴美を見た。


「そんなに遅かった……ですか?」


 泣きそうな感じの琴美の声を耳にしても、フリップ・フロップは首を縦に振るだけだった。同情して加点する様子も見せなかった。


 琴美は助けを求めるように、隣に座る再牙を見た。しかし、再牙もお手上げだと言わんばかりに肩を竦めるだけだった。そうして、ちゃっちゃと決めた方が身のためだと言いたげに、電子メニュー表をせわしなく指差した。

 慌てて、琴美は無難なメニューを――目についたホット・ミルクティーだけを選び、決定の所作をした。


「一つしか選ばなかったようだが、いいのか?」


 一連の様子を眺めていたフリップ・フロップの言葉を受けて、琴美は再び蘇ってきた緊張感に心を圧迫されながらも、「大丈夫です」とだけ言って頷いた。

 元々小食なため、飲み物だけで昼食を済ませることは普通にあったし、軽食を頼もうかという考えもあったが、別に無くても問題はなかった。


「そうか。中々謙虚な性格をしているんだな。与えられた権利をむやみに貪ることなく、適度に自らの欲求を満たす、か」


 フリップ・フロップが組んでいた腕を解いて、ふさふさとした自らの顎を右手でさすり、そしてまたポイントを告げた。


「プラス七点だ。これで合計マイナス四点。君たち・・・の状況は僅かながら回復した」


 しかしながら、嬉しいとは微塵も思わなかった。意識とは関係なく、琴美の白い額に若干の皺が刻まれ、細く整った眉がハの字に崩れ、薄い唇が軽く曲がった。

 怒りにも似た、激しい困惑に呑み込まれたせいだった。

 いよいよ本当に、この捜索屋なる人物の考えが読めなくなり、何をどうすれば『正解』なのかが琴美には掴めなかった。

 意地悪を仕掛けているのだと分かったなら、琴美にだって幾らでも対処の方法は残されていた。だが目の前に座る山狗の顔をした男からは、底意地の悪さは一切感じられない。一方的に点数を与えて相手を翻弄している立場にいながら、今の状況を愉しんでいる素振りすら見当たらなかった。

 男の言動がどこか凝っていながら、しかし淡々とした調子でいるのが、そう感じてしまう最大の要因だった。


 気まぐれな男フリップ・フロップ――なるほど確かにその通りだと、琴美はここにきてようやく理解した。

 彼女の考えていた以上に、この人物は気分屋であり自由人だ。それでいて、この都市にやってきて初めて立ちはだかる壁だった。下手を打てば、圧し潰されかねない分厚い壁だ。


 その後も、琴美が何かしらの仕草をするたびに、いちいちフリップ・フロップの口から点数が乱れ飛んだ。

 一杯目のミルクティーを飲み干し、二杯目を――幻幽都市オリジナルのソリッド・コーヒーなる、泥のような色合いのコーヒーを――無理やり注文させられる流れになった。

 その最中も、数字は加点と減点のシーソーゲームに勤しむものの、マイナスからゼロの領域へ戻ることはなかった。琴美は、余計なことは極力口にしないよう己に誓いつつ、重たくなるばかりの空気に耐え続けた。

 話は依然として本題に差し掛かる様子を見せず、店に入ってから既に三十分間もの無意味な時が経過した。状況が遅々として進まない現状を前に、琴美の堪忍袋は少しずつ膨張し、一方では、捜索屋の人を食ったような態度に辟易とし続けるしかなかった。

 しかしそれでもなお、琴美は反抗的な弁を吐くことはなかった。彼女はただ、ひたすらに口を噤み続けた。

 そうしているうちに、壁の方から擦り寄ってきた。


「君、どうして怒らないんだ?」


 フリップ・フロップは、注文した炭酸入りのミスティック・ハワイが運ばれてきたところで、少し不思議そうな口調でそう尋ねた。


「どういう意味ですか?」


 質問を質問で返すかたちで琴美は訊いた。

 膠着しきった状況に、ほんの僅かではあったが亀裂が入った。


「君ぐらいの年の女の子で、私の気まぐれにそんな態度で・・・・・・付き合ってくれたのは、君が初めてだ。まったく、今日はなんて日だ。こんな事が起こりうるとは……」


「男でも、三十分もこんなどうでもいいゲームに付き合わされたら、軽い自閉症に陥りそうなもんだけどな」


 再牙が茶々を入れるように口を挟んできた。

 フリップ・フロップは喉奥をごろごろ鳴らして耳をピンと立たせると、獰猛さに満ちた獣の目線を再牙に送った。


「ちょっと黙ってくれないか、再牙。今の私は、この女の子を相手に喋りたい気分・・なんだ」


「分かった。お前の気が済むまで、そうするがいいさ。俺はちょっと、トイレに行ってくる」


 そう言い残して、再牙は席を立った。

 カウンターの奥にある個室トイレへ消えていくのを見届けてから、フリップ・フロップは毛むくじゃらの手をテーブルの上で組み、依然として尊大な口調で琴美に訊いた。


「もう一度聞くが、どうして怒らないんだ? あれだけポイントポイント言われて、自分が品定めをされているとは思わなかったのか?」


「品定め……とは、思わなかったです」


「……では、怒りすら抱かなかったと?」


「えっと……」


 琴美はやや小首をかしげ、それほど時間をかけない内に結論を導き出すと、フリップ・フロップの……山狗そのものの顔を正面から見据えて言い放った。


「正直、初対面の人に怒ったりするのは、ちょっと気が引けるというか……だから、黙ってあなたの話を聞くことだけに集中しようと決めました。下手にこちらから話を振って、それで点数が引かれるのは、やっぱり嫌ですから」


「沈黙を矛としたわけか。それが、君の戦い方という訳だ」


「さっきから気になっていたんですけれど、どうしてそんな言い方をするんですか?」


「そんなこと?」


「再牙さんは貴方の事を気分屋だと仰っていました。けれど……いや、だからこそ理解しかねます。貴方が私にどんな反応を求めているか、さっぱり分からないんです。それに、会話を戦いに見立てているような感じに聞こえるのも、おかしいですよ」


「君は、会話が戦いではないと、そう言いたいのか?」


「そんなの、当然じゃないですか」


 ごく当たり前の事を告げるように琴美が言うと、フリップ・フロップが石を飲み込むようにして言った。


「少なくとも私にとって、会話ほど酷く苦痛な文化はない」


 それが世界の真実だとでも言いたげなフリップ・フロップの強い口調に、琴美は呆気に取られて何も言い返せなかった。

 十五年間生きてきた中で、そんな事を口にする人物は、琴美の周囲にはただの一人も存在しなかった。


現実リアルであろうと仮想世界であろうと、人が人とコミュニケーションを試みようとするのは、相手を理解したいからじゃない。自分の考え、姿勢、思想、そういったものを相手に押し付けて支配したいからだ。征服欲――人間の根源に眠る本能が、言葉を編み出し、会話という習慣を根付かせた。そういう考え方があってもいいんじゃないかな?」


「そんなの、一方的過ぎますよ」


 たまらず、琴美が目くじらを立てて言い放った。しかし、フリップ・フロップは揺るがない。金色の瞳に一切の妥協を拒むような光を宿すばかりだった。


「君だって、一度や二度は経験したことがあるはずだ。相手から一方的に言葉を浴びせられて、為す術なく従わざるを得なくなった状況を」


 反論しかけた琴美だったが、逆に押し黙らざるを得なかった。クラスメイトの顔という顔が幻影の如く脳裡を過り、担任を務めていた男性教師の、およそ暴言と断定して差し支えない言葉の数々が、泡のように弾け飛んでは消えていく。

 亡霊の如く迫る過去。胸につかえる孤独さと不安に押し負けそうになって、琴美は沈痛な表情のまま目を伏せた。


「会話とは、血の流れない戦争だ。だが皮肉なことに、会話という習慣から完璧に隔絶された生活など存在しない。ならばせめて、必要最低限の会話で事足りる職業を選びたい。そう思った私は、捜索屋の道を選択し、同時に気まぐれな人間であろうとした」


 毒々しい青一色の炭酸水が入ったグラスを口に運びながら、フリップ・フロップはそう口にした。琴美に話しかけているというより、自分自身に向けて言っているようだった。


「気まぐれというのは、一つの防衛手段であり、会話という名のゲームを制するのに最も適したスタイルだ。相手を翻弄し、主導権を握り、リアクションを分析する。そうやって、相手が次にどんな言葉を発するかを予見し、それに対して自分がどういった返答を寄こすべきかを考える。そんなことの繰り返しを経て、私は生きてきたんだ。予期せぬ言葉から、己を守るために」


 フリップ・フロップが眼光鋭く『会話』の何たるかについて唱える様は、まるで戦場を生き残る為に知恵を絞る兵士そのものだ。だが、彼の台詞を世迷言だと一蹴するだけの余裕は、既に琴美の中から失われていた。己の過去に、思い当たる節が多すぎて。


「あなたの仰っていること、悔しいですけど、少しだけ分かってしまいます。言葉が人を傷つける……それも、確かな事だと思います。私も、そういった目に遭ったことがありますから。でも、それを踏まえたうえで言わせてください」


 琴美は視線を上げると、臆したりする様子もなく、逆に相手の心を労わるような口調で訊いた。


「私が、今こうして口に出している言葉は、貴方を傷つけていますか?」


 捜索屋の片耳がピクリと動き、次いで驚いたように金色の双眸を見開いた。未だかつて、そんな質問をされたことは無かったと言いたげに。

 琴美はあくまで、自分の吐き出す言葉には微塵の悪意すら込められていないのだと伝えたかっただけだ。しかし、捜索屋は彼女の真意を、別の意味として捉えたようだった。


「心配する必要はない。後言語野こうげんごやの活動を抑制する薬を服用しているから、君がどれだけ多くの言葉を口にしようとも、私の心が速攻で破壊されることはない。多少の効果はあるが、それは仕方ないことだ。都市が開発する薬も、決して万能薬ではないからな」


「……それ、どういう意味ですか?」


 話の流れが思いも寄らぬ方向へ舵を取ったことに戸惑いを隠しきれず、琴美が身を乗り出して尋ねた。

 そんな彼女の反応を見て、これは丁寧に一から説明してやらないと、あらぬ誤解を受けそうだと判断したのだろう。フリップ・フロップは、黒コートに包まれた分厚い肉体を椅子の背もたれに預けると、とうとうと身の上話を切り出した。


「君は何か勘違いをしているようだが、私は悪意の込められた言葉のみを嫌悪するのではない。善悪に関係なく、相手から受け取るありとあらゆる話し言葉の全てが、私にとっては猛毒・・に等しいのだ。一方型口語認識不全症と言ってね。憑物病に罹患すると、ほぼ百パーセントの確率で併発してしまう、精神病の一つだ。会話ほど酷く苦痛な文化はないと私が感じるのも、気まぐれな人間になろうと決意したのも、これが原因だ」


「病気……なんですか?」


「そうだ」


「治らないんですか?」


「いくら都市の医療技術が《外界》より先んじているとは言っても、限度がある」


 その一言で、フリップ・フロップの辿る未来が、決して明るくはないことを琴美は悟った。彼は、会話は血の流れない戦争だと口にしたが、それは決して大袈裟な表現でもなんでもなかった。

 彼は日々、戦場に立ち続けている。言葉という名の弾丸。その嵐に身をさらして、それでも挫けることなく、自分なりのやり方で恐るべき難病に立ち向かっていた。

 フリップ・フロップは心配する必要はないと言ってくれたが、しかしそれでも、いや、だからこそ、琴美は自身の無知さと愚かさを責めずにはいられなかった。相手の事情も読み解かないうちに、レッテルを貼った自分が馬鹿みたいだった。

 知らなかったとはいえ、自分の言葉が毒となって、この人を傷つけていたかもしれない――そう思うと、氷の刃で胸を貫かれたような気分だった。自分が残酷であることを知らなきゃ駄目だ――火門再牙の言葉が、今になってようやく分かり始めていた。自覚があるにせよ無いにせよ、人はいつだって無意識のうちに、見知らぬ誰かに牙を突き立てている。


 再び俯いて、琴美は今の気持ちをどう表すべきかを考えた。そうして、気づいた時にはポーチに手が伸びていた。

 一体何をするのかとフリップ・フロップが見守る中、琴美はポーチからメモ帳と黒のサインペンを取り出した。メモ帳から紙を一枚破り取って、そこに何かを丁寧に書き込んでから、恐る恐るフリップ・フロップへ差し出した。


『ごめんなさい』


 紙に書かれた琴美の本心を見て、ここで初めてフリップ・フロップが、その鋭い犬歯と長い舌を覗かせて笑い声を上げた。嘲笑とは遠く離れた、それは快心の笑みに近かった。


「気にする必要はないと言ったろう? 薬の効果は丸一日持続する。謝ることもないし、別に普通に話してくれてもいいんだぞ?」


 だが、琴美は目を閉じて首を縦に振るだけだった。そうして、またメモ帳から紙を一枚破り取り、言葉を書き込んだ。


『今だけは、こうして謝らせてください。貴方に、失礼な振る舞いをしてしまったんですから』


「もう慣れっこさ」


 フリップ・フロップは自嘲気味に鼻を鳴らすと、不意に視線を紙から外し、遠くを見るように目を細めた。その立派な口元から、焼けるような吐息が漏れた。


「……火門の奴にも話していないことだが、私はその昔、蒼天機関ガーデンに在籍していたんだ」


 琴美が、ぽかんと口を開けた。伊原に人質にされた際に出会った二人の機関員と、目の前の獣人が、どうみても同一線上にあるとは思えなかったがゆえの反応だった。


「十年以上も昔の話だがね。その頃は、私もまだちゃんとした人間だったんだ。蒼天機関ガーデンは多くの部署を抱えていて、私はその中の一つである未界開拓局ヴェアヴォルフという部署で、第三小隊の隊長を務めていた。都市の西部地域……デッド・フロンティアと呼ばれる開拓地の調査や、それに付随する諸問題の分析と解決策の提示。それが未界開拓局ヴェアヴォルフに課せられた主な任務だった」


 蒼天機関ガーデンの中核を成す呪装鎮圧部隊イシュヴァランケェは、治安維持活動の実行部隊という立場のため、花形扱いされる傾向にある。

 それとは対照的に、未界開拓局ヴェアヴォルフの任務は、ベヒイモスや有害獣ダスタニアの駆除、捕獲、調査、分析など様々だ。

 未知の生命体を対象とするため、彼らの任務内容は特殊性と秘匿性を大いに有する。よって、活動内容が公にされることはほとんどなく、世間一般からの認知度も低い。それでも、幻幽都市唯一の未開拓領域とされるデッド・フロンティアの調査によりもたらされる発見の数々は、都市のますますの成長を促す。

 蒼天機関ガーデンにとって、未界開拓局ヴェアヴォルフなくてはならない存在なのだ。機関に数多とある部署の中で、そこに属する機関員の平均給与が一番高いことからも、その重要度が良く分かる。


 デッド・フロンティアはベヒイモスが跳梁跋扈する苛烈な環境ゆえに、未界開拓局ヴェアヴォルフの機関員は常に精神と肉体を万全に保つことを要求される。潜入前には綿密な身体検査ボディ・チェックと何十種類もの最適予防接種アンチ・ヴァイラス・パスを行い、入念なメンタル・マッサージが義務づけられている。それでも、未知の奇病に罹ってしまう危険性は、勿論ある。


「ある日の事だった。デッド・フロンティアの第三十七次現地調査に乗り出した我々第三小隊は、とあるハプニングに遭遇した。早い話が、未確認のベヒイモスたちの襲撃を受けたんだ。万全を期して臨んだが、結果は散々だった。二十二名の部下のうち、十五名が彼の地で絶命し、私を含めた残る七名も無事では済まなかった。帰還後に受けた検査で、七名全員が未知の奇病に罹患していることが判明した」


 憑物病つきものやまい――琴美が青ざめて、病名を脳裡に浮かばせた。


「私の顔は山狗そのものになり、他の者らも動植物の特徴をその身に宿してしまっていた。加えて最悪な事に、全員が一方型口語認識不全症を併発していた。機関は、ただちに我々を第一級奇特病理被験者として隔離し、症状の原因追及と治療薬の開発に取り掛かった。私は隊長としての責務から、消毒液の匂いで満たされた病室で、必死に部下たちを励ました。私が持ちうる、ありとあらゆるプラスの言葉を以て。それが、彼らにとって壮絶な苦痛を伴う言葉どくであるとも知らずに」


 心の中の錆を吐き出しながら、テーブルの上に置かれたフリップ・フロップの武骨な手が、自然と硬く閉じられた。


「やがて、段々と皆の様子がおかしくなっていった。言葉をかけると狂暴化して襲い掛かり、コミュニケーションは不全に陥り、まるで人間ではなくなっていった。それから一人、また一人と姿形が獣そのものになり、病室を脱走して何処かへ去っていった。そうして二度と、彼らは戻って来なかった。山月記に登場する李徴のように……私が、彼らをそんな風にしてしまったんだ」


 病室を脱走し、何処とも知れぬ場所へ去った部下たち。その中には、フリップ・フロップと将来を誓い合った女もいた。

 彼女は最終的に哺乳類と爬虫類の混合体となり、身の毛もよだつような叫び声を上げながら、病院を半壊し、捕獲部隊の浴びせる銃撃をものともせず、暗闇の中へ消えていった。


「部下たちが悲劇的顛末を迎えた直後、私もまた、両腕が山狗のそれに変貌しつつあった。そんな最中だった。薬がようやく開発され、憑物病と一方型口語認識不全症の具体的症例の全貌が判明したのは。人間の言葉を聞き取ると、脳細胞の縮小と体組織の変異が活発化し、完全な獣に堕ちてしまう不治の病。それが、我々が罹患した症状の正体だった。有効な対応手段は、症状を遅らせる薬の投与と、コミュニケーション時における、相手がこちらに投げかけてくる話し言葉の予測に伴う精神防御。それだけだった」


 フリップ・フロップは、そこで言葉を区切った。それからテーブルの上で両手を組み、寒さに耐える孤人のように、身を強張らせた。

 金色の瞳が震えながらも宙を見つめていた。得体の知れぬ衝動に内側から食い破られようとするのを、懸命に抑え込んでいるようだった。


「今でも夢に出ることがある。獣と化して消えていった部下たちの姿が。考えれば考えるほど、怖かった。いつ私も、部下たちのように理性を失い、自分が何者なのか分からなくなる日がくるのかと思うと、恐ろしくてたまらなかった。それでも、私は人間として生きたかった。人間であることをやめさせられた彼らの分も、生きなければならなかった。それが、私に課された役目だった」


 怒涛のように押し寄せてきた情報を、しかし琴美は確実に消化していた。結果、色眼鏡は完全に砕かれ、意識が更新された。今なら、目の前に座る男が、障壁でもなんでもない存在だとはっきり認識できた。決して拭えぬ毒に全身を侵されながらも、徹底的に抗い、命を諦めない気高い人間そのものとして映った。

 自分が、もし同じ状況に立たされたら、と琴美は考えた。これほどの胆力を持てるだろうかと自己に問うも、答えは導き出せなかった。

 途端に、自身がひどく小さな存在のように思えてならなくなった。それでも、惨めさや卑屈さとはまるで無縁だった。むしろ、自らの矮小さを通じて、世界の広さをまざまざと痛感させられた気分だった。


「やがて、私は機関を辞めた。そうして職を転々とし、最終的には今の状況に落ち着いた。気まぐれなフリップ・フラップな捜索屋……我ながら、良い業界名だと思う。それこそ、私にぴったりの生存方法だ。気まぐれに言葉をまき散らし、相手がどのワードに引っ掛かるかを見定めて、会話を支配する。だが、そんな定石も、どうやら君には無駄だったようだ」


 フリップ・フロップが両手を解いて、にやりと口角を上げた。一本取られたという風に。


「まさか、だんまりを決め込まれるとは思わなかったよ」


「さっきも言いましたけど、困惑していましたから。下手に怒って機嫌を損ねたら、依頼を受けて貰えないと思ったんです」と、遠慮がちに笑ってから琴美は言った。


 そこで、フリップ・フロップが右の耳を器用に折り曲げ、針穴に糸を通すような、それでいて優しげのある眼差しを琴美に向けた。


「なるほど。君は人を探しているのか」


 琴美は、思わず目を見張った。内心を言い当てられ、ただただ驚愕するしかなかった。するとフリップ・フロップは、マジシャンが手の内を明かすように、淡々と種明かしを始めた。


「物探しか、人探し。私のところに持ち込まれる依頼は二つに一つ。《外界》からの来訪者が、物探しの為にこの都市へやってくるというのは稀だ。ここは、物よりも人の出入りが多い都市だからな。加えて、先ほどからの君の様子を見ていると、ただの人探しじゃなさそうだということが分かる。ますます興味深くなってきたな……よし、決めたぞ」


「何をですか?」


「君の話を聞こうじゃないか。話はそれからだ」


 フリップ・フロップが、好奇心を露わにして言った。


「これは君へ手向ける礼儀でもある。私の気まぐれな言葉の数々を、沈黙という手段を以て耐えた君へのね。それじゃ、話してくれたまえ。私の気分が変わらないうちに」


 獣の面に、いたずらな笑みが浮かんでいた。

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