3-4 恨みは買わないほうがいい

 再牙がトイレから戻ってきた直後だった。ようやく話の流れが本題に突入したのは。

 琴美は、話の要点だけを絞ってフリップ・フロップに伝えた。三日前の晩に、再牙に話して伝えたのと同じように。どうして自分が幻幽都市を訪れたか。その理由について。

 全てを話し終えた後、琴美は何とも言えない視線を捜索屋に向けた。ここまできて、依頼を断られてしまうのではないかと不安を覚えたからではない。再牙の提案とはいえ、死者の道程を洗い出すという作業を、人や物の行方を捜すのを生業とするこの男に頼むのは、やっぱり筋違いなんじゃないだろうかと思ったせいだった。

 しかしながら、琴美の心配は杞憂に終わった。

 話を聞き終えたフリップ・フロップが開口一番、


「分かった。君の父君の足取りを調査する役目、確かに請けさせてもらおう」


 と、あっけらかんとした様子で言ってのけたからだ。琴美は胸を撫で下ろす一方で、ますます奇妙な感覚に襲われた。

 つまり可能だというのだ。再牙が三日間かけても発見に至らなかった獅子原錠一の足跡を見つける自信が、この男にはあるのだ。

 しかし一体どうやって? 琴美は難しそうに眉根を寄せるだけで、これから先の展開を全く想像できない。


「君、写真は持っているかい?」と、藪から棒にフリップ・フロップが訊いてきた。


「写真と言うのは?」


「決まっている。君のお父さんが写っている写真だ」


「あ、それだったらポーチの中に……」と言って、琴美は肩から下げていたポーチの口を開けて、父が映っている写真を取り出した。


 フリップ・フロップは獣臭い手を伸ばして写真を受け取ると、そこに映る人物を――スーツ姿の獅子原錠一の姿を、しげしげと眺めた。

 明らかに写真をどうにかするつもりの様子だったので、琴美は念のために確認を取ることにした。


「その写真、どうするつもりなんですか?」


「別に変な事には使わないから安心してほしい。写真の匂いを嗅ぐだけさ」


「匂いを?」


「それが、私の能力・・なんだ。人や物が持つ『匂い』を『色』として識別し、居場所を探し出すことが出来る」


「凄い。超能力みたいですね」と、琴美は素直に感心した。


「事実、超能力さ。この都市じゃ、能力という呼び方の他にも、ジェネレーター能力だとか、異能力だとか色々ある。そういった異能力の使い手のことを総じて、ジェネレーターと呼ぶのさ」


 フリップ・フロップはごく淡々と説明し、都市の新たな一面を琴美に垣間見せた。それは同時に、彼が幻幽都市という名の精密機械を成す部品の一つであることを証明していた。彼がその身に獲得した異能力が、色彩嗅覚レザボア・ドッグスの登録名称で機関のデータベースに記されている事実からして見ても、決して大袈裟な表現ではない。


「私の能力は、より特別な効果をいくつか、人間のみに限定して発揮する。そのうちの一つが、今回は役立つはずだ。つまり、死者が生前、何処にいたかを遡って知ることができる」


 その決定的な一言を受けて、琴美の脳裡で疑念が瞬く間に溶けて無くなり、明らかな喜色が顔に浮かんだ。目の前に突如として、歩むべき道が現れたように感じたはすだ。

 だがそこで、フリップ・フロップは釘を刺すように、一言付け加えた。


「ただし、万能ではない。遡れるとは言っても限度がある。死者が亡くなった日よりも一週間前。それが限界リミットだ。それに、私が把握できるのは死者が生前、何処にいたかを知るだけであって、この都市で・・・・・何をしていたか・・・・・・・・を知ることはできない。それを明らかにするのは、コイツの役目だ」


 そう言いながら、フリップ・フロップは尖った鼻先を再牙へ向けて軽く振った。再牙は黙って頷き返すことで同意した。業界の住み分けはきっちりしなくてはいけないと、暗に述べているような態度だった。

 もしフリップ・フロップが錠一氏の過去の動向までも探ろうとしたら、再牙と琴美が結んだ依頼契約に抵触してしまう。そこまでやってしまうと二重契約となり、それは依頼者の意向を抜きにしても踏んではならない地雷だった。


「ジェネレーターは決して超人ではない。何かしらのデメリットを抱えているものだ。そのあたりを考慮してもらうと、こちらとしては随分助かる」


「贅沢は言いません。父が亡くなる前に何処にいたかが分かるだけでも十分です」


「聞き分けが良いな」


 フリップ・フロップはたっぷりとした体毛に覆われた顔を綻ばせると、次に真剣な表情で写真を見た。

 すると変化が起こった。写真ではなく、フリップ・フロップの方に。

 その金色の獣の目が、にわかに淡い緑色を帯び始めたのである。

 十秒か、一分か。とにかくフリップ・フロップは、写真の中に佇む獅子原錠一を射抜くように凝視し続けた。ほとんど瞬きすらしなかった。それだけの集中力を必要とするのだ。


 やがて、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れる感覚があった。眼光に灯る異様な力の片鱗が、徐々に引いていく。

 彼は体重を椅子の背に預け、ふぅと大きな溜息をついた。生暖かい獣の香りが、琴美の鼻先を掠めた。それでも彼女は嫌な顔一つしなかった。彼女なりの、思いやりがそうさせた。


「どうやら、済んだみたいだな」


 能力発動の儀式を見守っていた再牙が、頷きつつ言った。フリップ・フロップは何の感慨もなく「ああ」とだけ呟くように応えると、視線をゆっくりと写真に落とした。

 写真からは、一筋の煙が立ち昇っていた。焚かれた香のように、静かに揺らめいていた。鈍色の煙。死者に特有の匂いだ。

 煙は身をくねらせるように踊ると、すぐに細い紐状のかたちを取った。写真の中に映る錠一氏を起点に、喫茶店の外へするすると伸びていく。

 能力発現――フリップ・フロップにしか見えない鈍色の煙。その先を辿っていけば、錠一氏が一週間前まで住んでいた場所が特定されるはずだ。


 と、その時だった。

 店の外で何か重い音がするのを、フリップ・フロップが察知した。

 それは再牙も同じだったようで、


「伏せろっ!」


 大声で叫んで琴美を押し倒しながら、テーブルを勢いよく蹴り上げた。

 即席のバリケード――その後ろに、二人はすっぽりと身を隠した。

 その直後。琴美の鼓膜を、今まで経験したことが無いほどの轟音が駆け抜けた。

 店の窓ガラスとレンガの壁を粉々に粉砕しながら、爆撃じみた銃声が一斉に店内に轟き渡った。天井部に設置されていたスピーカーが火花を吹いて破壊され、木造りのカウンターが蜂の巣と化し、卓上に置かれていた調味料の瓶が木端のように散った。椅子やテーブルが無数の弾丸に蹂躙され、奇妙なダンスを踊った。幾つもの木片が琴美の頭上を激しく舞い、目の前に落ちて焼け跡を刻んだ。

 店内に充満する、むせ返るほどの硝煙。喉と眼の奥に痛みを感じながらも、琴美は再牙に後ろから抱きかかえられる恰好のまま、バリケードの裏に隠れて目を瞑り、耳を両手で塞ぐことしかできなかった。死の恐怖を覚える暇もなかった。

 予兆なき突然の銃撃は、店を半壊状態にせしめたところでようやく止まった。バリケードと化したテーブルは、辛うじて大破を免れていた。

 琴美が弾かれたように、身体中のいたるところをまさぐり始めた。痛みはない。血も流れていない。あれだけの銃撃に遭いながら、その身に傷を負っていないのが不幸中の幸いだった。


「そこにいるのはわかってんだぜぇっ!? 気まぐれな捜索野郎さんよぉっ!」


 発砲音の代わりに、店の外から粗暴も粗暴な野郎共の声が響いてきた。


「よくもこの前はウチのヘッドをコケにしてくれたなぁっ!?」


「落とし前、キッチリつけさせてもらおうじゃねぇかボケェ!」


「テメェの穴という穴に銃口突っ込んでぶっ放して、内臓黒ひげ状態にしてやんよゴラァ!」


 およそ、知性という概念を置き去りにした、野蛮人も吐かないような暴言の数々。琴美はすっかり怯えきって、雨に打たれた子猫のように身を縮こまらせるしかなかった。

 だがしかし、こんなひどい状況にありながらも、ただ唯一、分かったことがある。発言から察するに、店の外で声を張り上げる武装集団の狙いはフリップ・フロップその人だ。


「おい! こいつはどういうことだ! 説明してもらうぞ、気まぐれな捜索野郎さん!」


 再牙が虫食い状態になったカウンターの奥へ怒鳴るように声を掛けた。すると、何かをどけるような音がして、


「説明するほどのことでもない」


 カウンターの奥から、捜索屋の不機嫌な声が届いた。あの銃撃の最中、彼は一発も銃弾に当たる事なく、獣じみた身のこなしでそこへ隠れるのに成功していたのだ。


「店主は?」と、再牙。


「無事だ。気絶しているがな」


「それにしたって、これは一体どういうことなんだ? あの野蛮人、お前さんに相当な恨みがあるようだぜ?」


「ネオ・エンペラーの奴らだ。歌舞伎町に根を張る都市渡世トライブ。一週間前、私の下に依頼を寄こしてきた。しくったな。私としたことが、尾行されていたことに気づかなかった」


「何だってそんな奴らに目をつけられた? とんだヘマでもやらかしたか?」


「お前じゃないんだ。仕事はきっちりやったさ。ただ、思い込みの激しい客というのは、やっぱり面倒臭いな」


「どういう意味だ?」


「失踪したヘッドを探してくれという依頼だった。調査の結果、ヘッドは組の金庫から金を持ち出し、堅気の女と都市を出たという事実が判明した。それをそのまま伝えたら、組の若い奴らが烈火の如く怒り狂ってきた。そんな話は信じないやら、いい加減な調査をしたんだろとか、色々言ってきたのさ。早い話が、逆恨みだ」


「どうせお前の事だ。相手の神経を逆撫でするような言い方をしたんだろ」


「私は、ああいったチンパンジー以下の動物にも分かる様に、物事を噛み砕いて伝えるだけの話術がある。お前とは違う、火門」


「その言い方! その言い方が問題なんだよ!」


「いつまでも隠れんぼしてんじゃねぇぞオラァ!」


 会話を断ち割るように、怒号が引き金となって再び銃火が轟いた。小粒の弾丸が五秒間ほど一斉掃射され、さらに店の調度品を破壊していった。蓄えた不満をところ構わずぶちまけるような、正確さをおなざりにした銃撃。それでも、威嚇を込めた攻撃としては大凡正しい。


「仕方ないな」


 何かを諦めたような声が、カウンターの向こうから聞こえた。再牙が、少し意外そうな顔をした。


「お前、まさかやる気か?」


 そう問い質すのも、無理からぬ話であった。捜索屋の実力を疑っているのではない。彼という人間の性質を理解しているつもりだからこそ、飛び出た発言だった。

 詰まるところ、いつものフリップ・フロップなら、まさに気まぐれフリップ・フロップさをここで十全に発揮し、トラブルを煙に巻いて現場から逃走するはずだ。そのはずだったのだ。

 それがいったい、どういう風の吹き回しか。


「今は、戦いたい気分・・なんだよ」


 フリップ・フロップが、ひょいと軽い身のこなしでカウンターを一息に飛び越える。漆黒の衣装に包まれた獣人が、破壊された店内に立つ。琴美は再牙と共にバリケードの裏に隠れながら、事態の行方を見守るしかなかった。

 ふと、フリップ・フロップが目の端でこちらを見つめた気がしたが、気のせいだと思い何も言わなかった。


「やっと現しやがったなぁ……!?」


 店先に居並ぶ襲撃者らが、違法改造した重火器の群れを携え、狂喜に全身を預けきっている。見れば、今さっき銃撃を終えたばかりの銃口から、細く白い煙が溜息のように吐き出されていた。

 襲撃を敢行してきた構成員の数は七人。その七人全員が、歌舞伎役者を真似て目のまわりを赤や青のスプレーで化粧していた。着ている衣服も、金や銀と派手派手しい。まさに奇抜を絵に描いたような恰好だった。歌舞伎町では名の知れた都市渡世トライブたるネオ・エンペラー。その構成員が出入りの際に装着を義務付けられる戦闘衣裳がそれだった。


 まず一言、面と向かって何か言ってやろうか。そう思ってフリップ・フロップは口を開きかけたが、直ぐに閉じた。話を聞く耳など持たない彼らの興奮しきった様子が、一目見ただけで察せられたからだ。

 敬愛する組織の顔に泥を塗られたという勝手な思い込みが、構成員らの瞳の奥で壮絶な怒りを生み出していた。

 だが同時に、激しい喜びにも満たされている。誇りを侮辱した相手を、いまから徹底的に痛めつけられるのだという念願の喜び。それを全身で噛み締めているのが、禍々しい笑みから分かる。

 

 これだけの猛烈な悪意を眼前にしながらも、対峙するフリップ・フロップは手ぶらを維持していた。懐から、何らかの武器を取り出す仕草もみせない。ビンの破片や焦げ付いた木片が散らばる店のど真ん中で、飄然と突っ立いているだけだった。一見して、無防備にも過ぎる態度だった。


「だ、大丈夫なんですか?」


 怯えと心配の入り混じった表情で、琴美が再牙に問いかけた、その直後だった。


「お前ら、やっちまえ!」


 先頭に立つ男の号令がきっかけとなり、脇に控えていた構成員らが、ありったけの銃弾をフリップ・フロップ目がけて撃ちまくった。薬莢が周囲に跳ね、銃弾という銃弾が黒のコートを焼き切り、無数の弾痕をフリップ・フロップの身に刻ませる――

 しかしながら、そうはならなかった。

 獣の咆哮の如き勢いで飛来してきた弾丸の全てが余すことなく、フリップ・フロップの目の前で火花を散らして消失したからだ。やや遅れて、カウンターキッチンの棚に並べられていた、いまだ無傷を保っていた幾つかの酒瓶が一斉に割れた。

 主な被害はそれだけだった。フリップ・フロップの体が、穴だらけになることはなかった。


「心配するな。あいつは強えから」


 琴美の耳元で、再牙が安心させるように囁いた。


「今、何が起こったんですか?」


「テメェ、何しやがった!」


 同じ問い掛けでも、込められた感情には雲泥の差があった。

 琴美のそれは純然たる疑問から生じたもの。

 他方、都市渡世トライブのメンバーは、戸惑いと怒りを声色に乗せていた。


「返す言葉を口にする権利は、潔く放棄させてもらう」


 素っ気ない返答に、男達がいきり立った。手早く弾帯を装填し直し、躊躇することなく重火器の引き金を引いた。銃口から弾けるマズルフラッシュが、昼間の裏路地に暴力的な光の幕を垂らす。

 だが今度も、銃弾は見えない壁に阻まれたようにフリップ・フロップの下へは届かず、その残骸を周辺の壁や床に熱痕として穿たせただけに留まった。

 構成員を指揮していた先頭の男が、喘ぐように呻きを漏らした。焦燥と恐怖と困惑が三つ巴となって互いを食らい合い、ただ一つの恐るべき感情……すなわち恐慌へと変じて男の顔面に浮かび上がった。


「どけ、俺がやる!」


 状況を打開せんと、一番後ろに控えていた大柄なスキンヘッドの構成員が仲間を押しのけ、見るからに巨大な武器を肩に担いで見せびらかした。

 バズーカ砲に酷似した形状の、対巨大獣類メイサー砲。トリガー一つで極太の熱光線を発射可能なそれを目にした時、フリップ・フロップがついに動いた。 


 フリップ・フロップが、黄灰色の体毛に覆われた右腕を素早く突き出すのに合わせて、彼の首に巻かれたマフラーから、空気を切り裂いて何かが勢いよく飛び出した。と思った次の瞬間には、鋼鉄製のメイサー砲が引き金に手を掛けていたスキンヘッドの指ごと、一纏めにバラバラに破壊された。

 何が起こったのか理解できず、切断された自身の指を見てスキンヘッドがぽかんと口を開けた。


 琴美の目が、驚愕で大きく見開かれた。全く視認できなかったが、とにかく何かが起こり、スキンヘッドの武器が砕けたことだけを事実として認識した。それでもしばらくして、空から降り注ぐ陽光のおかげで、少し遅れて彼女にも正体が分かった。フリップ・フロップの攻撃の正体が。


 それは糸だった。

 蜘蛛が吐き出すそれより細く、肉眼で捉えるには頼りない。それでいながら荷電粒子を纏った弾丸や鋼鉄製の兵器を、容易く解体せしめるほどの強靭さを携えた黒い糸。

 それがフリップ・フロップの首元に巻かれたマフラーを起点に、店内のあちこちに張り巡らされ、破壊された窓を通じて店内に降り注ぐ太陽光を浴びて控えめに輝いていた。さながら蜘蛛の巣めいた鋼鉄の網だった。

 カウンターを乗り越えた際に、フリップ・フロップは一瞬にしてこれを構築してみせたのだ。防御の為に。そしてたった今、攻撃の為にそれを放った。破壊の糸を。自らの体毛にベヒイモス由来の油を沁み込ませ、首元に再度移植した結果、マフラーのような形状を取ることになった。その獣拷じゅうごうワイヤーと名付けられた代物を。


 隠し玉を容易く無効化された衝撃は予想以上に大きかったようで、構成員達が歯の隙間から炎を吐き出すような勢いで何かを叫び、めいめいに重火器を構えた。

 しかし引き金を絞るより前に、またもやフリップ・フロップの腕が俊敏に動き、黒めいたマフラーから幾条もの獣拷ワイヤーが解き放たれた。

 ワイヤーは、まるで命あるもののようにきょくを描き、吸い込まれるようにして重火器という重火器に激しく絡みついた。フリップ・フロップが手ぐすねを引くように指を動かすと、それに合わせてワイヤーが軋み、あっという間に全ての火器を再現不可能なほどに細かくバラした。


「まだ、やるかい?」


 跡形もなく破壊され、地面に散らばった飛び道具の残骸に目を落としていた構成員らが、フリップ・フロップの挑発的ともとれる一言を受け、豹変して顔を上げた。怯えるどころか、後戻り不可能な怒りに駆られているのは明らかだった。誰もが怒気を隠そうともせず、ギンギラに装飾された服の内側に手を伸ばし、ちゃきんと音を立てて高電磁ヒートナイフを取り出した。

 しかしそんな彼らの挙動も、フリップ・フロップの心に僅かほどのさざ波すら立たせなかった。無数の荷電粒子の弾丸を受けても破壊されないワイヤーなのだ。たかだか数百度の高温を浴びたとして、どうというわけでもない。


 それにしてもと、フリップ・フロップは鼻白んだ。

 これだけの圧倒的実力差を見せつけられて、それでもなお立ち向かう彼らの心境が、まるで理解できなかったからだ。もし自分が彼らの立場だったら、最初の銃撃が防がれた時点で、とんずらを決めているだろうと考えた。

 この都市で生きていくのに一番必要なのは、敵対者をねじ伏せる圧倒的な力ではない。他人を犠牲にしてでも状況を掻い潜るだけの狡猾さだと、これまでの経験で学んでいたからだ。

 フリップ・フロップにしてみれば、彼らはもはや襲撃者でも何でもなかった。自らの力量すら推し量れない阿保に過ぎなかった。

 そして彼は、阿保を相手にした戦闘を長引かせるほど物好きでもなかった。だからこそ一気にカタをつけようと、今度は片手だけでなく両腕を繰り出そうと構えた時だ。


 誰も想像だにしていなかった、第三の存在が乱入した。

 それ・・は地の底から、土中を凄まじい速度で押しのけて、アスファルトの蓋を食い破りながら地上に現出した。正確には、ネオ・エンペラーの構成員らの足元へ。

 大地を震わせるような轟音を奏でて、姿を現す乱入者。その正体は、青、赤、緑の三色がまだらに発光する触手の群れであった。太陽の下に姿をみせたそれは、ざっと見ただけで十本以上は存在していた。

 フリップ・フロップの表情が一転して緊張の色を帯び、気色悪そうに顔中の毛を震わせた。


妖触樹テンタクレイ……」


 嵐じみた銃撃を受けてもどこか余裕の表情を浮かべていた再牙が、バリケードから顔を覗かせてその異形なる生命体を目撃した途端、血相を変えて思わず叫んだ。それだけで、琴美には事の重大が嫌になるくらい理解できた。

 事実、アスファルトを割って出現した触手の群れは、その表面部から謎の粘液を分泌しながら旋回し、肉々しさを存分に見せつけながら邪魔者の排除にかかった。

 触手出現時に地盤が局所的に陥没したせいで体勢を崩したネオ・エンペラーの構成員らが、まず狙われた。イソギンチャクのそれを何十倍にも太ましくさせたような触手の群れは自らを猛然としならせ、逃げ惑う構成員らに断末魔を上げる間も与えることなく、彼らを一方的に叩き潰し、薙ぎ払い、貫いて鮮血を迸らせた。

 ある者は、無数の触手に一息に巻き付かれて全身の骨という骨を粉微塵に砕かれて絶命した。またある者は、口に生暖かい触手の先端部を突っ込まれ、窒息死させられた。

 全員がそのような調子で殺されていった。まるで、触手の一本一本に黒めいた殺意が宿っているようだった。


 突如として血に彩られた光景に、琴美が激しいショックを受けて愕然としている時だった。彼女を背中で守る様にして、再牙が触手の前に立ち塞がったのだ。


「奴らの目的は君だ。俺の後ろに隠れていろ!」


 再牙が琴美へ言い放ったのと同時、十本以上もある触手の群れが店の扉を完全に破壊し、内部に張り巡らされていたワイヤーの網を引き千切りながら、一斉に雪崩の如く到来してきた。

 触手の表面。まだらに浮かぶ三原色の明滅が、いよいよ激しくなっていた。それこそ、この妖触樹テンタクレイと称される怪物の固有種が一つ、無貌の手オービットの感情の現れであった。

 下半身の健全な男子諸君がポルノを見て息を荒げるように、彼らもまた、美味なる獲物を骨までしゃぶらんと興奮していた。十五歳以下の少女の体液を栄養分とする触手らの目的は、琴美の瑞々しい肉体そのものである。

 それが分かっていたからこそ、再牙はついに、自らに備わった武力の一つを行使することを決断した。


 にわかに、再牙の瞳が蒼色を灯した。伊原を殴った時と同じように。だが、振るいかざすのは豪腕ではなかった。

 水鳥が翼を広げて羽ばたくかのように、オルガンチノを翻す。脇に吊った特注製・・・のホルスターから、リボルバー式の拳銃を素早く抜き取る。その馬鹿でかい銃口を猛然と迫りくる触手へ向けて構えると、再牙はためらうことなく引き金を引いた。

 ずがん、と、もはや砲火と呼ぶに等しいマズルフラッシュが店内を満たし、ごとりと重い音を立てて薬莢が床に転がった。


 再牙が銃を構えたのを見て、琴美は反射的に耳を塞いでいた。それでも鼓膜は震え、銃声は肚に響くほどに凄まじかった。

 もはやガンという領域を超えてキャノンと呼ぶにふさわしい、その五十六口径の六連式リボルバー拳銃――《マクシミリアン》が放ったニトロ・マグナム弾の一撃を受け、無貌の手オービットが二、三本、木端のように消し飛んだ。そこだけ、空間ごとくり抜かれてしまったようだった。

 しかしながら、元々痛覚を備えていない為だろう。残る触手らは特段怯む様子も見せず、耳障りな奇音をその内部で発生させながらますます斑模様の明滅を強め、再牙の背後に隠れる琴美へと迫る。

 それを、徹底して再牙が排除にかかるという構図に、何時の間にか突入していた。


 とんでもない威力を誇る銃火の猛攻を受けて、なおも暴れ回る触手も触手。琴美にとってはそれ以上に、再牙が平然と操るハンドガンの巨大さに目を奪われるばかりだった。

 仰天して声も出せなかったが、しっかりと網膜に焼き付いて離れなかった。銀色に塗装されたそれを見て、琴美は初めて『力らしい力』の存在を意識した。

 伊原が振るっていたような卑しい力とも、機関が纏う正義を標榜する力とも違う。純粋に、道に転がる何かをどける為だけに存在する力。

 再牙の手に宿る銃の重み。きっとそれは、今のように人間以外の何かに向けられる。そう琴美は直感で確信し、事実その通りだった。


 轟音を伴う銃火が、無貌の手オービット自慢の触手群を次々と容赦なく引き千切っていく。再牙が操作するマクシミリアンの攻撃力は凄まじいものがあったが、しかし状況の打破には繋がらなかった。触手という触手が、透明で粘り気のある体液をまき散らして吹き飛ぶにつれ、地面という地面から、それこそ千軍万馬じみて、新たな触手の援軍が這い出てくるせいだった。

 まるでイタチごっごだった。フリップ・フロップが加勢し、自慢のワイヤーを放って触手の動きを止めようにも、到底追いつかないほど大量に。

 銃と触手。戦いのシーソーゲーム。その均衡が傾きつつある。再牙の額に、焦りから汗滴が浮かぶ。触手を破壊しても死なない妖触樹テンタクレイ。己の知識にない新種・・の類と気づいた時、『撤退』の二文字が再牙の脳裡を掠めた。


 まさにその時だった。

 通りの向こうに、重々しい装備に身を包んだ集団が迅速な足取りでどこからともなく現れたのだ。

 全員、消火器に酷似した青色の筒を抱えている。


「エクスタンク、構えッ!」


 しなる鞭のように飛ぶ女と思しき声を受けて、集団の幾人かが円の陣形へ展開。見ると、ガスマスクらしきものを装着している。

 これから彼らが実行に移す作業を思えば、それは正しい装備と言って良かった。


 ガスマスク部隊が、消火器に酷似したエクスタンクと呼ばれる対触手兵器の元栓を引き抜く。端部に繋がれたホースを掴んで、噴霧口を向けた。 無貌の手オービットの発生点たる、陥没により大穴が穿たれた地の底へと。


噴霧開始レディッ!」


 エクスタンクのトリガーが次々に引かれ、性的衝動消滅剤アンチ・リビドーが混入された青色の霧が、地面に埋没する触手群の根元目掛けて勢いよく発射された。

 思いがけない助太刀を前に、再牙の指が引き金からゆっくりと離れる。自分の役目を終えたのを宣言するように、瞳の色が蒼色から元の薄茶色に戻っていく。琴美も、固唾を呑んで事態の経過を見守った。


 エクスタンクの一撃を受け、痛覚を持たない筈の無貌の手オービットが悶えるようにして滅茶苦茶に触手の束を乱舞させた。自らのアイデンティティーが奪われかけているという恐怖に慄いているのだ。

 アイデンティティー――すなわち、『美少女と淫らな行為に及びたい』という、およそ異生物らしからぬ行動原理にして活力源。

 性的衝動消滅剤アンチ・リビドーには、彼らのアイデンティティーを文字通り消滅し、存在を無害化させる効果があった。


 高密度の霧に巻かれて、無貌の手オービットが落ち着きを無くしたように痙攣を始めた。かと思うと、その太い触手の群れがどっと床に倒れ込み、ベランダに数か月放置したキュウリの如く、あっという間に干からびて灰色に変色した。まだら模様の明滅は、完全に止まっていた。


 脅威は去った。しかしそれでもなお、エクスタンクの噴霧は止まらない。徹底過ぎるほど徹底していた。


 やがて、陥没穴から溢れ出した噴霧剤が、風を受けて店内になだれこんできた。アンモニアを彷彿とさせる刺激臭が鼻腔を痛烈に刺激。琴美は涙をにじませながら大いに咳き込んだ。再牙もまた息を一時的に止め、警戒する視線を、突如として触手撃退の為に現れた集団へ向けていた。


新種・・妖触樹テンタクレイを相手取る時、触手自体を攻撃しても何の意味もなさない」


 集団の中から聞こえる、くぐもった女の声。続いて、迷彩柄に塗装された動力機動甲冑マニューバ・アーマーで――マッスル・アシスト機能を備えた強化外骨格の一つで――全身を防護した人物が、集団を離れて床を踏み歩き、二人の下に近づいてきた。

 先ほど、エクスタンクを使うように指示を飛ばした人物。そして恐らくは、この一連の騒動に終止符を打った集団を率いる存在でもあるに違いなかった。


「対応策は二つ。触手群の根元たる球根バルブを完全に破壊するか、私たちがやったように、性的衝動消滅剤アンチ・リビドーを含む噴霧剤を撒くしかない」


 霧が晴れていく頃合いを見計らって、その人物はガスマスクを脱いだ。マスクの中から、整った女の顔が現れた。手入れの行き届いた黒い髪を甲冑の中に仕舞い込んでおり、長い睫毛が印象的だった。


「覚えていて損はない知識よ。噴霧剤は市販でも売っているから、念のために買っておいた方がいいわ。今回のような出来事に、また巻き込まれる可能性がないとも言えないからね。獅子原琴美さん」


 女は再牙の存在を無視したかのように、切れ長の瞳に僅かな笑みを浮かべ、琴美を見下ろして言った。

 琴美は依然として目の奥に痛みを感じながらも、息が止まりそうになった。見知らぬ土地で見知らぬ人物にフルネームを言い当てられたのだから、それは当然の反応だった。


「あなたの《来訪端末》が異様な心拍値を示しているって連絡を受けてね。何かあったんじゃないかと思って、ここに駆け付けたの。来訪者の身の安全を守ることも、我々の仕事のうちだから」


「我々って……まさか」


蒼天機関ガーデンか」


 再牙が心の内を隠そうともせず、面倒くさそうに顔をしかめた。これから自分達がどういった手続きの下に、どのような場所に連れていかれるかを予想できたからこその反応だった。

 女が、再牙の方へ涼しげな視線を向けた。まるで、今初めて彼の存在に気が付いたかのような素振りだった。そしてまた、琴美の方へ目を向けた。


「現場を見ただけじゃいかんとも判断しがたいわ。私たちが駆け付ける前、ここで一体何があったのか。場所を変えてじっくり事情聴取と洒落込みましょうか。特に貴方からは、色々と聞きたいことがある」


 と、手甲に覆われた太い指先で、女は不躾にも再牙を指差した。


「三日前に入都したばかりのか弱い女の子を連れ回して、何を企んでいる気?」


「ちょっと待ってくれ。俺はただ、そいつに……」


 と言いながら振り返るも、今までそこにいたはずのフリップ・フロップの姿が見えない。どうやら、機関員らが到着した直後に、いつの間にか離脱したらしい。

 おおかた、あのワイヤーを使って店から大急ぎで脱出したのだろう。面倒な事態になる前に。琴美から託された依頼の一部を遂行するために。

 軽やかすぎる身の振り方を見せつけられて、再牙は唖然となったが、諦めたように額に手をやると女に向き直った。


「分かった。大人しく従うよ」


「グッドね。それじゃ行きましょうか、二人とも。外に車を用意してある」


 女が歩き出そうとした時、カウンターキッチンの奥から「あ、あの……」と、遠慮がちそうな声がした。

 気絶から我を取り戻した店主が、よろけながらも立ち上がり、都市で生きる者の逞しさを象徴するように言ってのけた。


「飲み物のお会計……千百都円です……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る