2-3 黄昏は、地下女帝と共に
灰色を増したぼさぼさの髪は、幼少期の頃に抱え込んだ重度のストレスの賜物だ。すでに悪夢は克服したはずだったが、喪われた色彩は二度と戻っては来なかった。
機械造りのチェアに背中を預けた
マジックミラー式の窓ガラスの向こう側へ目をやると、フィールドでの訓練を終えたばかりのキリキックがタオルで汗を拭って何事かを陽気に口にしながら、二階で待つ兄弟達の下へ向かっていくところだった。
「グロテスク・シリーズのサイコ・バイオリズム、異常ありません。残留能度線スペクトルはチャミア・バレンシアを除き、
流体式演算装置に繋がれたディスプレイ。そこに表示された線形グラフを観測して、一人の技術者が訓練の結果を手短にドクター・サンセットへ伝えた。
小部屋には同様の作業に従事する者が四人ばかしいて、全員がドクターの部下だった。彼の手足となるに十分な技量と頭脳を獲得した、在野の頭脳集団である。
「上出来や」
「よろしいのですか?」
「チャミアの状態が芳しくないのは想定内や。本番での奴の爆発力を信じるかあらへんな」
狐のように細い目を鋭く光らせると、ドクターは訓練の結果にかねがね満足した様子で頷いた。
そうして、口内で転がしていたキャンディを噛み砕く。白衣で包んだ身に喜びの感情を充満させながら、喉の奥で低く笑う。剃刀で切りつけたような笑い皺が、喉の震えに合わせて溝の深さを変えて、複雑な紋様を描かせていた。
「これで全ての準備は整った。決行は四日後の十八時。喜んでくれや
ドクターは加虐に満ちる目をマジックミラーに向けたまま、チェアの直ぐ後ろで訓練の一部始終を見届けていた女に声を掛けた。
金や銀の豪奢な装身具。黒色のビキニ・アーマー。ゆったりとした薄紫色のハレム・パンツ。素足の爪は虹色のマニキュアで彩られていた。さながら中東の踊り子といった姿だった。
女の肌は、不健康を絵に描いたようなドクターの青白い肌とは大違いなくらいに健康的な小麦色をしていたが、とてつもない影を孕んでもいた。
その要因となっているのはきっと、女の浅黒い肌の至るところに刻まれた、戦争帰りを思わせる古傷の数々に違いなかった。それさえなければ、高級娼婦と見間違われてもおかしくないほどの美貌だった。
今から九年前の、ある日の事。女と初めて出会った頃、興味本位でドクターは訊いたことがある。色黒好きな輩が集まるショー・クラブで、ストリッパーでもやっていたのかと。
女は、随分と落ち着き払った様子で『違う』と答えた。この肌は生まれつきで、職業によるものではないと言うのだ。
ドクターは、女が訳アリであることをそれとなく悟ると、快く自らが設立した組織の協力者として、彼女を迎え入れた。だが一方で、彼女の肌に深く刻印された、もはや塗り潰すのは不可能な幾つもの切り傷の由来については、一度も尋ねなかった。うかつにその話題に触れると、自らの寿命を縮める結果になると予感した。
「あの
小鼻の下から顎までを覆い隠す薄紫色のフェイス・ヴェール越しに、女がうっそりと言った。冬凪のように穏やかな声色ながら、言葉の内容には鋭い棘が見え隠れしていた。
ドクターがチェアをくるりと回して、不満げな表情で女を見上げた。彼が何かを口にする前に、女の唇が動いた。先ほど発した言葉の裏に含まれた意味をまとめ上げ、一気にぶつけてきた。
「
「何か勘違いしとるようやが、
「貴方は機関の力を見くびっている。だから、そんなことが言える」
「ほう? そいつはまた聞き捨てならん台詞やな」
自前の
「
女の美しく切れ上がった青灰色の瞳に、凍てつくような硬質の真珠を思わせる白光が灯った。それだけは口にしてはならないと、女は冷罵を浴びせる代わりに、拳をきつく握り締めた。
途端、拳を中心に部屋の空間が大きくたわんだ。見えない手で空気が掻き回されているかのような、気味の悪い感覚。それが、波紋のように小部屋内に広がっていった。
女が何をしでかそうとしているか、長い付き合いになるドクターには直ぐに分かった。行動の意味を直ちに理解すると、さっきまで余裕を湛えていたはずのドクターの面持ちが緊張に満ちた。そうして、命乞いをするかのように慌てて顔の前で両手を忙しなく振ってみせる。
「待ちや、待ちや! 冗談! 今のは冗談やって! こんなところで能力発動せんといてくれ! あんさんの能力は移送用ならともかく、攻撃用に転化されたらひとたまりもあらへんのやぞ!」
「じゃあ今晩、貴方がぐっすり寝静まった頃を見計らって、たっぷり喰らわせてあげる」
「それも止めや!」
ドクターの怯える姿が面白いのか。それとも、この男はこの程度のことで肝を冷やすのだと、嘲りたくなったのか。女がふっと笑みを浮かべて拳を解いた。奇妙な空間の歪みと、瞳の奥で咲いた異様な白燐光が、どこかへと引いていった。
小部屋に満ちていた緊張が一気に解きほぐれた。目の端で事の次第を見守っていた技術者らが、懼れを表情に張り付けながらも、聞こえない程度の溜息を吐いた。
一方でドクターといえば、びっしりと額に汗をかいて、白衣のポケットから取り出したハンカチでそれを拭っている。それから、今度は殺気だった女の気分を宥めるかのように、ゆっくりと語り始めた。
「アンタが心配するのも分かるが、しかし無用や。ワシらには切り札がある。そうやろ? さしもの機関も、アレには手を出せまいて。ああ、状態のほうなら心配せんでええぞ。極めて順調や。生体エネルギーが基底状態を保ったまま、眠りについとる。
「その点は安心ね。でも、もう一つ気になる事があるんだけど」
女は手元にあったチェアの背に右手をかけると、立ったまま、そのしなやかな足を軽く組んで尋ねた。
「
「アハルのことが気にかかるっちゅうわけか」
「いくら
「確かに、ヴェーダ・システムの
ドクターの意味ありげな返答に、女が柳眉を僅かばかり動かした。
「
「その『系』というのは?」
「小脳や。いわば
話の核心を耳にしたと言わんばかりに、女の青灰色の瞳に冷たい光が宿り、凄絶な笑みが浮かんだ。艶美な風貌が鳴りを潜め、悪意を結晶化させたような顔貌となった。
「……最高じゃない。それ」
ほとんど悪魔じみた風貌でいながら、女の声は何処までも冷え込んで、感情が欠落しているのではないかと錯覚するほどだった。
「小脳は大脳よりもはるかに多くの神経細胞を宿している……なるほど、並列化するにはうってつけの代物というわけね」
「ただ、少し問題があるんや。肉体の五割近くを回路形成に使うと、粘菌が本来持つ元素変換機能が著しく低下して、生命活動に重大な支障が生じる。バイオプラントの中に漬けていても、最大活動時間はもって三十分というところやな」
「問題ないわ。ストックは山のようにあるんでしょう?」
不敵な口調に、不敵な目線でドクターが応じた。
「無論や。使い切れないくらいにな。半分を電脳戦。もう半分を
「それでいきましょう」
「なら、決まりやな」
黄昏時の魔術師と
ドクターは口元に確信の笑みを浮かべながら、チェアを回転してマジックミラー式の窓ガラスに向かい合った。白衣のポケットから
鼻腔の奥深くで芳醇な香りが躍る。その都度、ドクターの脳裡で過去の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。生まれてから現在に至るまでの、それは孤独と奮起と野心に塗れた歴史だった。
ドクター・サンセットこと、
実家は大変に裕福で、長野の軽井沢に別荘を持つほどだったが、そこに行ったのは数えるくらいしかない。
両親が多忙であったがゆえに、小学校時代は和歌山にある祖父母の家に預けられ、和歌山の学校に通っていた。
両親に出会えるのは夏休みと冬休みの、それも三日間くらいしかなかった。
学校ではおとなしい性格の成績優秀な模範生として知られた。虐められることはなかったが、友人と呼べる者は一人もいなかった。
罪九郎にとっての友人は、本だけだった。本の世界にのめり込んでいる時だけ、孤独と寂しさを完全に忘れることができた。彼にとって本こそが救いであり、世界そのものだった。
転機が訪れたのは、彼が十一歳の時だった。父に連れられて、建都されたばかりの幻幽都市に移住したのだ。それからずっと、現在に至る。
幼い頃の罪九郎には、なぜ住み慣れた土地をわざわざ離れてまで、災害の爪痕が生々しく残る街に移り住む必要があるのか分からなかった。
しかしながら、今なら彼にも理解できた。きっと、既にある程度のキャリアを積んだ父は、更なる実績を積むために新天地を求めたのだろう。この、オカルトとサイバネ渦巻く異形の都市で、自分の能力を試してみたかったのだろう。
幻幽都市に移住すると父が決めた時、母は反対しなかった。むしろ従順として夫の意に従った。
罪九郎の母は女だった。才知溢れる男の伴侶であることに至上の喜びを覚え、移住の話が決まると、あっさりとピアニストの職を捨てた。そんな女だった。
数か月振りに再会した父から突然移住の話を聞かされた時、罪九郎は何とも思わなかった。勝手にすればいいという気分だった。どうせ、誰も自分を見てくれていないのだから。自分の意志で何かを決定しても、それを尊重してくれる者はただの一人もいないのだ。己の価値など、何処にも転がってはいない。あるのはただ、奈落のように底の見えない虚無だけで、幼いころはそれから逃れようと必死だった。
ただ、何者かになりたいと願い続ける毎日だった。願い続けるがあまり、耐え難いストレスを抱え込んだ。
だがそれも、今となっては遠い遠い過去の話だ。記憶の水底に沈む、誰も見向きしない化石も同然。
現実の光景に目を向け、今の立場をじっくりと噛み締めれば、不安が一気に消し飛んだ。実に得難い充足感で心が満ち始めた。
まさか父と同じ科学者の道を歩むとは思わなかったが、血は争えないということだろうか……ふと、そんなことを思った。
科学者という点において、父はたしかに優秀だった。だが、今はそんな父など足元にも及ばないくらい、己が高みに達している実感がドクターにはあった。
それが、オカルトとサイバネに毒された都市で生きるための術だった。
新型の粘菌開発も、その一環だ。この多機能粘菌を生み出すのに、ドクターはあらゆる努力を惜しまなかった。それが、人道に反しているかどうかは別にして。
捕えた
いま、ドクターの眼前には栄光へ至る長い螺旋階段が、この世の真理のごとく威容として現出していた。階段の頂上まで突っ走れる自信があった。一切息切れすることなく。確実に一歩一歩を踏みしめて。
そうしてまた、螺旋階段の先を往く者を後ろから容赦なく蹴落とす残虐さも、ドクターは備えていた。そうであらなければならなかった。
幻幽都市は外側だけ見れば、まさしく幽玄として奇妙に映るが、内側にあるものはひどく現実的であることを、ドクターは学んでいた。都市を囲む巨壁の内側には、どこの国や地域にもあるような、厳粛とした社会原理が存在していた。福利厚生の享受が人を選び、富と貧困は最早手遅れなくらいに、互いの距離を大きく開けてしまっている。
そんな世界で真の強者たりえるには、野望と、それに見合った残酷さが必須だった。くだらない社会規範を捨て去り、都市を一変させるほどの
ぼんやりと夢見心地のままに
マジックミラー越しに映る、女の均整のとれた体格を蕩けたような眼差しで眺めると、寝言でも呟くようにして口にした。
「
「……だったら、どうだというの?」
「その反応は、図星と見て間違いなさそうやな」
かと思うと笑うのを止め、だらりと両腕を下げて壊れた人形のような目つきになり、しかしやたらとはっきりした口調で言葉を紡いだ。
「生身なのは脳みそと一部の内臓器官だけ。筋骨類はカーボン・チタン系列に総取っ換えか。おまけに最上級クラスの人工筋肉まで内蔵済みとは。なるほど、肉弾戦もお手のものというわけや」
「良く分かったわね。私が使っている人工皮膚、本物の皮膚と遜色ない一品なんだけど」
少し感心した素振りの女の言葉を受けて、ドクターは口の端から涎を垂らしながら、得意げに
「黙っていても、ワシの眼は誤魔化せん。それにしても、いい改造やな。ワシはサイボーグ技師としての資格は持っておらんが、そんなワシから見ても、あんさんが逸材であることは容易に理解できる。大小の歯車が正しく噛み合っているような感じや。実に見ていて気分がええ」
まるで、精巧な造りの電子機械を前に感嘆しているような口ぶりだった。
しかしながら、それと分かっていても、女にとっては決して気分の良いものではなかった。胃が煮えくり返るような感覚に一瞬襲われるも、女は理性を働かせて、必死に湧き上がる怒りを抑え込んだ。過去に味わった冒涜と屈辱を、遠くに追いやろうとするように。
「しかし驚きやな。ジェネレーターの中には肉体を改造すると、能力を喪うっちゅうケースも報告されとるに、あんさんはそうやないときとる」
「能力の喪失? なぜそんなことが?」
「身体機能の拡張技術が、精神の自己保存性に何らかの影響を与えるんやと。肉体が変貌すれば、それを受け入れる心も変わるっちゅう話やな。ジェネレーター能力は、その人自身が抱える内在的な願望そのもの。あるいは願望へ至る手段が具象化したものと言われとるが、あんさんも、何か野望があってジェネレーターに目覚めたクチなんか?」
「ドクター。貴方、今日は随分と舌が回るのね。それとも、反省という言葉を知らないだけなのかしら」
無遠慮にも自身の過去に踏み込んできたドクターに対し、脅しの意味を込めて女が拳を握りかける。
ドクターは、それでも話を止めなかった。栄光への階段に足をかける前に、自身の口から出る言葉の一つ一つを刻印として世の中に植え付けるような、そんな執念深さを感じさせた。
「実存は本質に先立つ……フランスの哲学者、ジャン・ポール・サルトルの言葉や。ワシが一番好きな言葉でもある」
感銘を噛み締めるような口ぶりだった。
「物事の本質は神様が決めるんやない。ワシら自身の手で決める。人生はな、生きる価値を獲得してこその人生や。人生に最初から価値があるなんて考えとる奴は、それこそ救いようのない阿保の極みや」
ドクターの言いたい事は、女にもよく理解できた。まさしく女自身がそうだったからだ。かつては価値が最初からあると信じた愚者であり、今は、決してそうではないと学んだ賢人だった。
女が先天的に宿したジェネレーター能力――生物学的全体論における産物としての異能力は、今や女自身の価値を支える柱の一つとなっていた。
過去に受けた屈辱。魂が味わった冒涜。それらが混じり合って、忌み嫌っていた異能の定義を改めさせた。
つまり、これは誰かの為に振るう為の力ではなく、他ならぬ己の為に振るうものだと信じ切るようになっていた。それこそ、女が思う価値の獲得だった。
「おや……こいつはけったいな事が起こったな」
ガラス一枚を隔てた向こう側の景色を見て、ドクターが飛び跳ねるような勢いで体を起こした。
そうして、我が子が初めて二足歩行を成し遂げた姿を喜ぶ親のように、大袈裟に両手をぱちぱち叩いて笑った。
「見ろや
制限時間内にキリキックが倒しきれなかった何匹かの
何匹かが自身の腕を奇妙に眺め、そこに力を込めるような仕草をした。
粘菌の集合知が高い活性値を示した瞬間だった。さすがの
「あの世で見とるか? ドクター・ロック……君のおかげや。ここまで到達できたのは」
ドクター・サンセットは、食い入るように
荒れ狂う沈黙の嵐に身を委ねながら、圧倒的なまでの快楽が、彼の細っこい全身を貫いていった。
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