第一幕 《外界》からの来訪者/獅子原琴美
1-1 来訪者・獅子原琴美①
『幻幽都市の練馬区』と聞いて強烈なイメージを抱かない者など、この二〇四〇年の時代に、果たしてどれほどいるのだろうか。
オカルトと科学が支配する異端の都市。その一帯をぐるりと円形状に取り囲む、白くて高い巨大な壁の存在は、やはりそれなりのインパクトがある。
外壁は、不法手段による都市侵入を物理的に防ぐ防御システムであると同時、正当な手続きでやってくる者たちを洗礼する場でもあった。
壁には、練馬区方面へ開かれている
なんらかの目的を抱いた者や、あるいは観光目的で都市にやってきた者は必然的に、未知なる領域への一歩を、この門を通じて練馬区に捧げることになるのだ。
必要な手続きを終えて門を潜れば、来訪者の多くは吸い寄せられるように視線を上空へと向け、驚嘆の溜め息を漏らすことだろう。
乱立を極める
駅の名称は、
空っ風が吹く初秋の快晴下にあって、昼時の練馬駅周辺は雑踏を極めていた。
練馬駅前の道路を我が物顔で往来する
バイオ関連企業の業務用アンドロイド達は、ノルマ達成の為に、治験キャンペーンの電子ペーパーを道行く人々へ配り続けている。
道路の一角に停められた煌びやなステージ・トラックの上では、大企業お抱えの
アスファルトを舐める靴底の数々が、無意味な囁きとなって耳元で響く。
練馬区駅前の大通りは多くの人々でごった返していて、見れば彼らのほとんどが、腕や足の一部を黒めいた何かに挿げ替えていた。
それこそ、ナノマシンを集積させ、電子制御技術が施された機械製義肢に他ならない。
身体障碍者が地域社会に貢献できるように、日常生活の補助をすること。それが、機械製義肢に与えられた当初の役目だった。
だが、社会情勢の変動と共に、その役割も大きく変貌を遂げた。
身体性の拡張――都市の代表的科学技術たるサイボーグ化手術は、今では自己防衛手段のほか、ファッションとしての側面も併せ持っている。
たったの二十年で都市の科学がここまでの発展を遂げた理由といったら、人に『寄り添う事』を至上命題として与えられたが故の宿命としか、答えようがない。
幻幽都市の科学技術は、人間の体内領域にまで人工的な魔術が及ぶのを当然の事として認識し、魂の領域にまで守備範囲を広げている。
それが、人と科学の正しい付き合い方なのかどうかは、誰にも分からない。自らの手で生み出した科学力に、人間自身が食い荒らされているように、見えなくもない。
ただ言えることは、都民の大多数は幻幽都市生まれの科学技術がもたらす恩恵を享受して、今後も相変わらず都市の日常を送っていくということだ。
『やっちゃったぁ。さっき観た
『ねぇねぇ、クロス・ノボルの
『お前、サイボーグ化するんなら
『羽村市の
『
『人型のベヒイモスなんて、本当にそんなのいるのかね?』
すれ違いざまに鼓膜を震わせる、奇妙なワードを含んだ他愛ない会話の数々。
通りを行き交う人々の言葉は日本語が大半でありながら、どこか面妖な響きを含んでいる。
人波を縫うように歩く
それが、電車とタクシーを乗り継いで幻幽都市にやってきた少女――琴美に与えられた二週間の寝倉だった。
アパートまでのルートは、門番が用意していた端末を通じて手持ちのスマホに送信されていた為、迷わず目的地まで行ける自信があった。
着替えと日用品が詰め込まれた旅行ケースは門番に預けてあり、今日中にアパートへ送り届けられる手筈になっていた。
肩から小さめのポーチを下げ、教科書を読み耽る苦学生のように、スマホの画面に視線を落として通りを歩く琴美の姿は、一目で外からの来訪者だと分かる。
当然、彼女の雰囲気は周囲から浮いていた。陽光に揺れる海面を泳いでいた青魚が、何を間違ったか、昏く凍える深海に迷い込んだような、そんな場違い感があった。
水圧の代わりに、視線が重くのしかかる。
都民が通りすがりに向けてくる視線。よそ者へ容赦なく浴びせる排他的な感情が、琴美には辛くて仕方なかった。さっきからどうにも居心地の悪さを感じて仕方がない。
道行く人の腰に目をやれば、嫌でも護身用の拳銃が視界に入ってしまうのも、琴美の心がざわつく要因の一つに違いなかった。
ここは日本列島の一部なのに、なんだか異国にでも迷い込んだかのような気分だ。
琴美は足早に大通りの角を曲がり、逃げるようにして路地裏の商店街へ入った。
角を曲がる瞬間、背中越しに一層強い視線を感じたのは、決して錯覚ではなかった。
事実、僅かな光しか差し込まない裏路地へ消えていく琴美の姿を、多くの人が眺めていた。
好奇心と嫌悪感。そして何より、危うい生物の行方を見守る眼差し。それらの一切を無視して、琴美はひたすらに歩みを進めた。画面に表示されっぱなしのナビゲートが示すままに。それ以外に選択すべき道はないのだと、自らに言い聞かせて。
だが、その歩みこそが、琴美自身を窮地に陥らせる何よりの元凶であることに、肝心の当人が気づいていない。
幻幽都市には――全ての土地でそれが必須というわけではないが――
風水と四神相応の原理に基づいた
スマホのナビゲートはあくまで『道を教えるだけ』の役割しか担っておらず、道が歩行者に吉兆を呼び込むか害悪を呼び込むかまでは考慮されていない。
そしてツキのないことに、練馬の表通りから裏路地へ潜るというルートは、
自分で経験して学ぶべきだというメッセージが、そこに込められていた。それが、都市で生き抜くのに最も重要な要素であるという風に。
清潔感のある表の通りとは一転して、裏路地は薄汚かった。路上の隅には生ゴミが散らばり、
質の悪い食材を取り扱っているのか、商店の前を通り過ぎるたびに、すえた臭いが琴美の小鼻をついた。
肩の辺りで揃えられた栗色の自慢の髪に臭いがこびりつきそうで嫌だったが、アパートまでのルートを外れる訳にもいかなかった。
ふとスマホから目線を外してみれば、目の前に広がる光景に思わず息を呑む始末だった。
都市の西部地域に棲む巨大獣類・ベヒイモスの加工肉を取り扱う
生き物のように両手で
ふらつく足取りで道傍へ盛大に吐瀉物を撒き散らすのは、都市原産の薬物に骨の髄までしゃぶられた
自作のゴシップ記事をばら撒いて日銭を稼ぐ
大通りと比べれば人通りは少ないが、得体の知れぬ熱気の蔓延具合で比較すれば、路地裏に軍配が上がるほどだった。
更に奥へ進んで行くと、古ぼけたアパートの壁を背に、色とりどりの天幕をたたえた露店区画が飛び込んできた。
露店の主たる露天商人らは、一様に死んだような眼差しを浮かべては、用途が分からぬ調度品を布の上に広げてぼーっと居座っている。都市最下層の住人が就かざるを得ない職業らしく、負け組に甘んじている雰囲気を発散していた。
自らの生まれ故郷である田舎町とは、全く
今ならまだ引き返せるのではないかという弱音が、脳裡に沸く。
だが、そんな本能の呼びかけに従うことはしなかった。
せっかく魔境に飛び込めたというのに、ここで踏ん張らなければ、何も手に入れられないまま終わってしまう。それでは、都市に来た意味がまるでない。
琴美は、内に秘めたる想いを確かめながら再び歩みを進めた。
「(知らなくちゃ。お父さんが、この都市で何をしようとしていたのかを……)」
琴美は自分の置かれた境遇をよく理解していた。つまりは、過去を
それを実現するには、頼り甲斐のある協力者が必要であることも。
「(アパートに行く前に、ちょっと聞いてみようかな)」
意を決すると、琴美は目についた一人の露店商人の下へ近づいた。「すみません」と声を掛けると、布の上に胡坐を組んでぼけっと宙を見つめていた商人の顔つきに、色が戻った。
「あ? あぁ……お客さんか。いらっしゃい」
「すいません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
「なんだ、客じゃないのか」
言葉の内容とは裏腹に、声に落胆の色は見られない。
露店商人の着ている服は見るからに薄汚れていてみすぼらしく、風呂に何日も入っていないせいだろう。全身から漂う古臭い油のような体臭に目の奥がむずがゆくなりながらも、琴美は遠慮がちに尋ねた。
「この辺りに、
男は直ぐには返事を寄こさず、琴美の全身を舐め回すかのように眺め始めた。
白のブラウスに薄手のカーディガン。下はベージュのチノパン。ほっそりとした、発育途中の体つき。白い肌に、大きな瞳。
薄く小さな唇には、控えめに口紅が引かれている。覚えたての化粧は全体的に薄く、ナチュラルメイクに近かった。
「嬢ちゃん、えらく美人さんだなぁ」
商人のひび割れた唇から、黄色く濁った前歯が覗いた。
「あ、え?」
思いがけない台詞にきょとんとしていると、商人が声を上げて笑った。
白濁した瞳に鈍い光が宿り、季節外れに咲いた花を興味深く眺めるような目つきになった。
「その褒め慣れていねぇ感じ、ウブだねぇ。ここらじゃ見かけない顔だけど、もしかして《外界》から来たのかい?」
「ガイカイって、何ですか?」
「都民の間じゃあ、都市の外側にある世界を《外界》って呼ぶんだよ。その反応は、当たりってところかな」
商人が頭を揺らしてけらけら笑うと、埃の付着した油ぎった前髪が奇妙に揺れた。
「そいで、なんだい。あんたみたいな美人さんが、万屋に一体何の用だい?」
「それはもちろん、依頼を持ち込むためです。ネットで知ったんですよ。万屋さんっていう、お金を払えばなんでもやってくれる職業が、この都市にあるって。あくまで噂として、ですけれども……」
琴美は不安げな表情を浮かべた。
最後の方は、ほとんど声が消えかかっていた。
既に日本国の一部として機能することを廃棄し、完全に独立した行政特区として生まれ変わった幻幽都市ではあるが、それでも噂は外に流れる。
そのほとんどが眉唾ものの都市伝説として《外界》で囁かれる一方で、しがみつく者も大勢いた。琴美も、そんな大勢の中の一人だった。
「安心しなお嬢ちゃん」
やや塞ぎ込んだ様子になった琴美を励まそうと、わざとらしいほどの大声を出して商人が語りかける。
「この街に、確かに万屋はいる。それも腐るほどにな」
「本当ですかっ!?」
「ああ。ただ――」
商人はしかめっ面をして、顔の前で大仰に手を振った。
「やめときな。あんな奴らに頼るのは」
「どうしてですか?」
「馬鹿みたいに高い金取られて、それでおしまいさ。あるいは、はなから相手にされないかもしれない。十年……いや、十五年ぐらい前かな。万屋が初めてこの都市で看板を掲げた時、そりゃあ多くの奴らが喜んだものさ。犬の散歩からご近所同士のちょっとしたトラブルまで、迅速に解決するってのが売り文句だったんだ。ところがおめぇ、蓋を開けてみたらなんだい。依頼料は高いばっかりで、しかも犯罪組織と癒着する輩の多い事……まったく、下手に夢を見させやがってよ。この前も、向こうの通りに構えていた万屋が、行方不明者の捜索をお願いされて、前金の段階で百万もふっかけて問題になったばっかりだよ」
次々と商人の口から飛び出てくる万屋稼業のあくどさに、琴美は辟易としてしまった。
だが、琴美もなかなか諦めが悪い性格をしていた。ここで物分かりの良い返事をしてしまったら、全てが無駄になってしまうと思ったのだろう。他に手立てはないかと、必死で露店商人に食い下がった。
「なんとか、なりませんか?」
「そう言われてもなぁ。依頼の内容にもよるが、困り事があるんなら、機関を頼った方がいいんじゃないかねぇ」
「機関?」
「
商人は琴美の背後を、正確にはそこから大通りへと続く道を指差して続けた。
「大通りに出て真っ直ぐ南に向かって歩くと、機関の練馬支部がある。行ってみる価値はあるが、まぁ、あんまり期待しないでおくれよ。奴らの仕事はあくまで治安維持活動だからな」
「分かりました。あの、色々教えてくださって、有難うございます」
「いいってことよ。ああ、そうだ」
立ち去ろうとする琴美に対して、商人は一際露骨な笑顔を見せて引き留めた。
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