2-5 一握の反抗心

 ドクターから聞かされた野望と、卒業試験セレモニーの内容を頭の中で何度も唱えながら、マヤはコンクリ製の薄暗い廊下を音も無く、やや前傾姿勢で左右に体を揺らして歩いていた。

 吉兆や害悪をもたらす呪的歩道ワンダー・ロードに備わった偶然性を解析し、歩行者に幸運だけをもたらすように改良された、呪的歩行術ワンダー・ウォークと呼ぶべき技術。生まれて直ぐに会得させられ、自らがドクターの所有物であることを否応なく自覚させられるその歩き方は、癖として拭い難いほどに沁み込んでいた。

 こんな、およそ危難とは無縁の場所においてさえも、無意識のままに発現してしまうほどに。


 組織ダルヴァザの秘密施設。その地下二階に当たる空間に、人造生命体ホムンクルスたちの個室が用意されている。およそ一般的なプライベートルームとして機能しているその一画が、マヤにとって唯一心休まる場所だった。

 自室のドアの前まで来て、マヤは備え付けのハンドリーダーに手をかざした。生体認証が完了。カチッという音が鳴って電子錠が外れ、空調設備が静かに稼働を開始した。電気は敢えてつけなかった。

 マヤは身を滑らせるようにして狭っこい自室へ潜り込むと、仰向けの姿勢でベッドに身を投げ出した。そのまましばらく、ぼんやりとした気分のまま天井を見つめていたところで、思い出したように体を起こし、左手の甲に移植した電子タトゥーを頭の中で操作した。


 データがすみやかに連動リンクを開始。ベッドの真向かいに位置する白い壁の一面に映像素子が集合し、大型の粒帯スクリーンが現れた。

 昨晩、途中まで見ていたイメージビデオを3Dで再生。暴力的なまでの青々しい立体映像と穏やかな波音が、暗闇に代わって部屋をいっときに埋め尽くした。海洋をテーマとする三次元式のイメージビデオだ。

 マヤの周囲で、色とりどりの魚が輝く海面の下を優雅に泳ぎ回り、海藻やサンゴ礁が柔らかそうな海水に揉まれている。水を掻き分けるように映像に軽く触れると、微細な粒子が舞って映像の一部が不鮮明となったが、直ぐに手を引っ込めると、粒子は夜光虫のように飛び集まって元の状態へ戻った。

 今度はベッドの上で膝立ちになり、長袖のジャージに包まれた両腕を大きく横に広げた。そのまま、ぐるりと身を一回転させて映像を指先で搔いて、ベッドへ仰向けに倒れた。先ほどよりもずっと多くの粒子が青い煌めきを放って天井へ舞い上がり、逆さまにした砂時計のように、静かに元の映像へと還っていく。

 その幻想的な光景を見て、龍の刺青が刻まれたマヤの表情に、穏やかな笑みが浮かんだ。まるで、自分が海と一体化したかのような心地だった。


 どこにも障害はなく、どこまでも道は広がっている――擦れた心を慰めるそんな囁きが、胸の内に降りてくる。

 海は雄大だ。あらゆる選択肢が存在し、誰に強制されるでもなく、己の意思で歩める。

 限定的な地下世界しか知らないマヤにとって、この青い世界こそが幸福の象徴であり、窓のない部屋で味わえる唯一の風景でもあるのだ。


 仮初の海に囲われ、夢の世界にいるような浮遊感を味わっていたマヤの耳に、ひどく現実的な音が介入してきた。ドアが遠慮がちにノックされる音が、鼓膜を打つ。来訪者が誰であるか、マヤには大体予想がついた。


「兄さん、ちょっといい?」


 ドアの向こうから、くぐもったチャミアの声が聞こえた。マヤは電子タトゥーを操作して内側からドアロックを解除すると、電脳の個人回線を使って、ドアの前で少し淋しそうに立っているであろう愛しい妹へ、声を掛けた。


《開いている。入ってきていいぞ》


 ドアが横滑りに開いて、ゴシック衣裳に身を包んだチャミアが部屋に入ってきた。背面に大きなリボンがパッチされた黒のコルセットが、彼女の抱える不安や臆病さを閉じ込めるように、細い腰のあたりで固く締め付けられている。そのせいで、可愛らしい小洒落た感じの衣裳のはずが、どこか痛々しい印象を与えていた。


「そんなにきつく締めて、息苦しく無いのか?」


「こうしているほうが、安心するから……ねぇ、隣、いい?」


「ああ」


 マヤの短い返答に、チャミアは嬉しそうに微笑んだ。そうして、主人に甘える猫のように隣に腰をかけた。


「このイメージビデオ、気に入ってくれたんだ?」


 立体映像の水を掬い上げながら、チャミアは嬉し気に顔を綻ばせると、仰向けになったままのマヤへ語りかけた。映像の入手先は、都市が誇る巨大にも巨大な電子の海・超現実仮想空間ネオ・ヴァーチャルスペース。チャミアはそこで非合法的な手段を用いて、この海洋映像を入手したのだった。そういうやり方しかドクターからは教わっていないのだから、他に手などなかった。


「実にいいな、これは」と、マヤは感慨深げに感想を口にした。


「俺が真に望むべきものは、これだという実感をくれる。良く見つけてきたな」


「環境ドキュメンタリーのキーワードで絞り込んで、テレビ会社の電子倉庫アーカイバを漁ったら、直ぐに見つかったよ。喜んでくれて嬉しい」


 それだけを告げて、チャミアは黙り込んだ。マヤに背を向ける形でだ。

 彼に合わせる顔がないというのではなく、それは一種の照れ隠しに近かった。


「さっきは庇ってくれてありがとう。それだけ、言いたかった」


 チャミアが、ぽつりと呟いた。ほとんど声は掠れていたが、少女の真心から出た感謝の言葉は確実に仮初の海へ溶け込み、甘やかな香りとなってマヤの心に沁み込んだ。それでいながら、マヤは複雑な面持ちのまま、なんと口にすべきか思案していた。


「悪い事をしたと、思っている」


 考え抜いた挙句に出た台詞がそれだった。チャミアが驚いたように振り返り『なんでそんな事を言うの?』と、目で訴えてきた。


「お前に、劣等感を植え付けるような言い方だった」と、チャミアの大きく愛らしい鳶色の瞳から、目を逸らして言った。


「あんな言い方をするべきじゃなかった。もっと別の言い方があったはずなんだ。ごめん」


「相変わらず、兄さんは考えすぎなところがあるよね」


 大したことじゃないとばかりに、チャミアがくすくす笑った。マヤが、少し意外そうな表情になった。


「あたしがありがとうって言ってるんだから、それでいいじゃない」


「そういうものなのか? だが、だとしても俺にはもっと、あの場で口にするべき言葉があったはずなんだ。お前を守るための、最適な言葉が」


「それって、あたしを守るっていうより、ドクターを打ち負かす為の言葉を探してたんじゃない?」


 言われて、マヤは驚いた表情をチャミアへ向けた。予想もつかない場所から光を当てられ、自らも意識していなかった心の一端が暴かれたような感覚だった。

 相手が兄弟の中でも最も親愛の情を抱いているチャミアだった為か、心の内を暴かれても不快に思う事はなかったが、それでも衝撃を受けたことに変わりはなかった。


「前から思っていたんだけどさ」チャミアはベッドの座り心地を確認するように、すこしだけ体を横にずらしながら聞いた。


「兄さん、なんでそんなにドクターに噛み付くの? あたし、時々心配になっちゃうよ。あんな反抗的な態度をいつまでもとっていたら……そのうち、廃棄されるかもしれない」


「だが、俺はこうして生きている」マヤが、確信を込めた調子で続けた。


「反抗的な態度をとっても、なぜドクターは俺を処分しないのか。答えは一つしかない」


「あたし達の力が必要だから。都市を陥落させるために。そういうこと?」


 マヤは、苦々しい表情で頷いた。


「所詮、あいつにとって俺達は駒のままだということだ」と付け加えて。


――幻幽都市を破壊する。

 それは、ひどく曖昧なイメージとなってマヤの脳裡に焼き付いて離れない。

 人間や有害獣ダスタニアを殺すのとは、また訳が違った響きに聞こえて仕方がなかった。捉えどころのない表現とも言えた。手段が目的化している感じだ。

 何より、自分をはじめとする六人の人造生命体と、あの軍鬼兵テスカトルとかいう疑似不死の怪物だけで達成できる話なのだろうか。


 ドクターが目的を完遂する為ならどんな危険も平気で侵すタイプの男であることは、マヤも良く知っている。自分の命すら省みず、都市の西部地域デッド・フロンティアへフィールド・ワークに乗り込んで研究用の素体を確保し、不眠不休で研究活動に命を捧げる異常者。理性と好奇心という名の薪をくべ続け、どす黒い情熱と上昇志向の炎を決して絶やさない。

 そんな、目的達成を第一至上に掲げるあの男が、果たして勝ち目のない戦争を仕掛けるのか――疑問が渦を巻き始めたところで、チャミアが訊いた。


「でも、駒だって言うなら、どうしてあたしたちを解放・・するなんて言ったんだろう?」


「目的を達成したら、後はどうなろうと関係ないんだ。自分の事しか考えていない。俺達のことなんて、本当はどうでもいいんだよ。まったく、ひどい親だよな」


 そこまで喋って、マヤは彫像の如く一言も発さなくなった。頭の片隅で、閃きの矢がぎりぎりと絞られ、勢いよく発射される感覚に襲われたからだ。

 解放。自由。腐った牢獄からの脱却――全てはこの・・ためだったのだと理解した。この為に、ドクターへの反抗心を捨て去ることが出来なかったのだと。

 いつの日か、己自身の手で完全な自由を勝ち取りたい。縁遠い存在だった『自由』という概念を、しかとこの手で掴み取りたい。

 その為には、生命倫理の欠片もない、あの苛斂かれんなる外道科学者を打ち倒さねばならない。

 そんな、本能に根差した覚悟が発露して、あのような態度を取り続けていたのだと、いまさらのように気が付いた。


 しかしいま、状況は刻々と変化していた。打倒すべきはずの当人から告げられた、解放の二文字。条件付きとはいえ、まさかあのドクターがそんな提案を寄こしてくるとは。

 マヤが動揺しないはずがなかった。自分の知らないどこか遠い地で、世界を変革させるための儀式が、粛々と進められている感じだった。

 一方で、こんな思いもあった。もしかしたら、自分達は踊らされているだけなのではないかと。それこそ、釈迦の手の平で舞う孫悟空のように。ただ、ドクターは決して釈迦のように慈悲深くはなかったし、自分も孫悟空のような英雄性を持っているわけではないことぐらい、マヤにだって分かっている。それでも、そんな比喩表現がまさに正鵠を得ていると思った。

 ノルマとやらを無事に達成したとして、それでドクターが約束事を履行してくれる保証は何処にもない。所詮は口約束だ。彼の人間性を信じるしかなかったが、マヤにとって、それは泥を金に変えるくらい無理な注文だった。

 あの男の何を信じれば良いのか。命を物質として扱うことになんの躊躇も見せない利己的な男のどこに、良心があるというのか。

 困惑と猜疑心だけが増大し、マヤの心を途方もなく圧迫していった。


「チャミア、お前はどうするつもりだ?」


 それは、そんな息苦しさから逃れる為に零れた質問だったのかもしれない。あるいは、単純にどこか鈍くさい妹の身を案じての発言だったか。

 どちらにせよ、チャミアはその小さな体を鞠のように弾ませると、敬愛する兄の体に抱きついてきた。


「……あたしだって、外に出たい。でも……」


 チャミアは、細く頼りない腕でマヤの逞しい体にしがみついたまま、ジャージの生地をきつく握り締めた。黒く染め上げられた彼女の長い髪から、柑橘系のほのかな香りが漂い、マヤの鼻腔をくすぐった。


「怖いか?」


 マヤが優しく訊いた。チャミアの小顔が、腕の中で弱々しく上下する感覚があった。少女特有の細い肩が、恐るべき怪物を前にしたかのように震えていた。

 しかしながら、本当の怪物はドクターではなく、彼の背後で傲然と構える『何か』と言って良かった。

 理不尽、不公平、苛烈な運命……それらの、人生という名の旅路に時折顔を覗かせる障害がいま、混然一体となって彼女彼らの前に立ち塞がっていた。

 ここより先へ往くのであれば、我を超えてみせろと告げるように。


 マヤにもチャミアにも、そんなものに構う気は僅かばかりもなかった。それは全部、自分のミスが招いたものではなく、他人の手によって――ドクター・サンセットの企みにより生じたものだ。なぜ、そんなもの・・・・・に付き合わなければならないのか。

 妹を想う心が憤然たる怒りへ変じるのを、マヤは意識した。同時に、これは正しい感情だと思った。自分が歩むべき道を、光の中に見出した気分だった。


「大丈夫だ、チャミア」


 ゆっくりと、妹の柔らかな手をジャージから引き剥がしながら、マヤは黒手袋に包まれた手で、チャミアの小さな手を包み込むように握った。

 兄の言葉が、単なる気休めのそれではないことを悟ったのか。チャミアはじっと身を固め、敬虔な信者が神の声を求むるが如く、兄の言葉を待った。


「俺がお前を助ける。お前だけは……あんなクソッタレのノルマから解放してやる。大丈夫だ。お前だけは必ず、《外界》へ送ってやる」


 悲壮な決意だった。殺戮遊戯グロテスクの長として、チャミアだけではなく全ての兄弟を救いたかったし、そうあるべきだった。

 しかし、もう何もかもが手遅れだった。みんな毒されていた。無尽蔵に湧くドクターの思想改造を促す言語に。それは完熟しきった果実の如く、強烈な匂いを放ち、兄弟の心へ余すところなく浸透しきっていた。取り除くことは、もはや不可能に近かった。悪徳を極めた新興宗教に洗脳された教徒たちから、信奉心を根こそぎ奪おうとするようなものだった。


 ドクターの野望と卒業試験セレモニーの全容を聞かされて、最初に参加を表明したのはキリキックだった。その次に、ルビィ、スメルトと続いた。

 返事を保留したのは、チャミアとマヤの二人だけだった。

 アハルは再三に渡る発作で錯乱していたせいで、意志の表明には至らなかったが、彼はある意味でドクターの寵愛を一番受けている電脳戦士だ。無意識診断を行えば、迷うことなく『イエス』と口にしてしまうのだろうと思うと、マヤは絶望的な気分に陥った。

 テーブルを叩いて、心の底から叫んでやりたかった。それでいいのか、お前ら――と。

 だが出来なかった。

 いくらマヤの心にドクターへの反逆心が芽生えていると言っても、限度がある。あの場でそんな台詞を口にするだけの勇気がなかった。それが溜まらなく悔しくて、チャミアを抱き留める手に思わず力が籠った。何かを思い切り叫びたい衝動に駆られるが、ぐっと堪えるしかなかった。

 最も危惧すべきは、ドクターが嘘をついている場合ケースだ。解放など詭弁で、結局は駒の尊厳など微塵たりとも理解していないのではないか。

 そうだ。きっとそうだ――奴は十中八九、俺達を欺いている。卒業試験セレモニーには、隠されている何かがある。


 マヤの瞳に熱情が灯った。ドクターの人間性をこれまで観察し続けた結果が、推測をより強固な確信へと至らせていた。ならば、このまま黙って事の成り行きを見守っていて、良いはずが無かった。胎の底に隠していた矛を、今こそ毅然として向けなければならなかった。

 たとえこの身が朽ちても、なんとしてもチャミアだけは――ドクターの枷から逃れようと必死になっている愛しい妹だけは、救わねばならなかった。

 それが、マヤにとっての価値への挑戦だった。

 価値への挑戦――ドクターが発した言葉の中で、それだけがマヤの心にすとんと落ちた。

 悔しいが、あれは真理を衝いた発言だと認めざるを得ない。それでいて、飢虎きこの心を焚き付けるも同然の言葉だった。自らの尊厳と誇りに飢えた虎に、自己証明の場が用意されたのだ。その場こそが、ドクターの傲慢さを打ち砕く最後にして最大の舞台に違いなかった。


 バイオプラントを胎盤に、培養液を羊水に、亜生体チューブをへその緒として誕生した人造生命体ホムンクルス。闇社会の一部品として、何かを消費する為に造り出された存在。

 そんな自分達に価値があるはずがないことは、マヤも薄々と理解していた。路傍に転がる石ころに、価値がないように。

 このまま、使い捨ての人生を歩んでいかなければならないのかと、暗鬱とした念に支配されていた。昨日まではそうだった。

 いまは、そうではなかった。

 只の石ころに見えても、磨けば光るかもしれないと思えた。

 この俺でさえも・・・・・・・。もしかしたらと。

 価値を生み出す場面は、誰にでも平等に用意されている。多くの人々はそれに気が付かないまま人生を終えてしまうのだろう。

 しかしマヤは幸運にも、その事実に気が付けた。人のうねりが生み出す社会の中で、自分に何ができるのかを、彼は強く意識できた。自らが真に欲する願いに目覚めた。その願いに身を委ねようと決意した。


「チャミア、心配はいらない。何もかも、きっと上手くいく」


「うん」


「だから、俺を信じてくれ」


 マヤの右手がするすると動き、チャミアの左手に指を絡ませ、掌同士をぴっちりと合わせた。チャミアの体温だけでなく、彼女が抱く不安や恐れの全てが、そこから洪水のように流れ込んでくる感じがあった。それで一向に構わなかった。

 夜が明けるまで、二人は仮初の水底に沈んだまま眠りについた。

 来るべき、三日後の卒業試験セレモニーに備えて。

 今はただ、そうすることしかできなかった。

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