7-5 死者への弔い

「やっぱり、慣れねぇなぁ」


 千代田区にある病院の一室。

 個室用のベッドに寝かされた再牙は、渋い表情で己の右手をじっと見つめていた。

 秋晴れの空に浮かぶ太陽の光を浴びて、右手は影をつくり、シーツに控えめな陰影を浮かばせている。


「大丈夫ですよ、再牙」


 ベッド脇の丸椅子に座るエリーチカが、レモレンジの皮を剥く手を休めずに、慰めるように語り掛けた。

 ボディの交換は既に完了していた。窓に差し込む太陽光に照らされて、金色の髪と純白の肢体が一層のこと眩しく光っていた。


「きっとそのうち、慣れますよ」


「…………」


 再牙は何も言わず、もう一度己の新しい右手に視線を戻した。

 元々あった手首から先の部位は、バジュラとの壮絶な死闘の果てに失われた。

 今後は、サイボーグ手術で手に入れたこの黒い義手が、代わりを務めることになる。


 右手を顔の前まで持ってくる。

 五本の黒々とした指のすべてを内側に曲げ、伸ばし、また曲げてみた。

 納得しなければらないと言い聞かせるように。今の状況に至るまでの全ての過程を噛み砕くように。

 そうして闘いの果てに辿り着いた結果を、胸の中に落とし込もうとした。


 五日前の決戦の夜。

 バジュラの死を見届けた再牙は、激しい疲労で意識が混濁しかける中、別棟の捜索に当たっていた機関員へ結果を報告した。

 終わった・・・・と。ただ、それだけを告げた。


 そこから先の事を、彼は覚えていない。

 気を失っている間、まるで長い夢の中を漂っているような気分に侵されていた。

 ようやく目を覚ましたのが一昨日の事で、すでにその時、右手のサイボーグ化手術は完了していた。

 後で聞かされた話では、現場の判断でそうなったという。


 そのことについて、当の本人は特に何とも思わなかった。

 それよりも、ずっと別の事が彼の頭の中を支配していた。


 バジュラが自らの手で自らの人生に区切りをつける寸前に、遺した言葉。

 再牙が気を失っている間中、彼の心の奥底まで、それは深く染み込んでいた。


「人間として、生まれたかった」


 エリーチカが、レモレンジの皮を剥く手を止めた。

 ゆっくりと顔を上げ、死線を掻い潜った弟弟子の顔を見る。


「バジュラが、最後にそう言ったんだ」


 苦しそうに、再牙は顔を歪めた。

 染み一つないベッドシーツを掴む左手に、自然と力が入った。

 溢れ出そうとする感情を必死に堪えるような仕草だった。

 顔の疵痕がそれまで以上に痛々しく、エリーチカの目に映った。


 バジュラは己の過去を消滅させることに奔走し、ついには自らを葬り去ることで決着をつけた。

 その選択が正しいか正しくないかを決めるのは、他の誰でもない。彼女自身であった。


 私の勝ちね――

 死に際にそう告げたバジュラの顔が、いつまでも再牙の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 再牙は身を起こして、遠くを眺めるような目つきになった。

 細められた視線は、エリーチカの背後に向けられていた。

 壁に掛けられた黄色いコート――オルガンチノへと。


 闘いの激しさを物語るように、オルガンチノはあちこちが破れてひどく煤けていた。

 これが無かったら、きっと自分は死んでいたに違いない。

 そう、再牙は思わざるを得なかった。


 闘いの中で、オルガンチノはずっと彼を守り続けていた。

 脅威を遠ざけ、時に打ち砕いてくれていた。


 再牙はかぶりを振った。

 自分がいかに恵まれているかを、またもやはっきりと思い知らされた。


 優しさと、愛情と、厳しさ――人生を歩む為に必要な糧を、涼子は常に与えてくれた。世界の広さを教えてくれた。

 過去に縛られて生きることが、どれだけ恐ろしいことかを、懇切丁寧に話してくれた。


 火門涼子と出会ってからはずっと、大変だが楽しい日常が当たり前の様に続いていた。

 自らの置かれた環境に慣れ過ぎて、気が付かなかった。

 無意識の中で、誰もがそうなんだ・・・・・・・・と、当然の如く思い込んでいた節があった。


「あいつは、出会えなかったんだ。涼子先生のような存在と」


 言葉にした途端、再牙の胸の中に、どっと湧き出るものがあった。


 なぜ、涼子先生に出会ったのが自分だったのか。

 なぜ、バジュラにはそういう出会いが無かったのか。

 なぜ、俺は彼女を助けてやれなかったのか。


 何が必然で、何が偶然なのか。

 無限の問い掛けが次々に泡となって生まれ、それは消える気配を全く見せずに不気味に漂い、再牙の胸の内を圧迫していった。

 耐え切れず、自身が内側から破壊されかねない恐怖すらも感じた。

 いや、いっそのこと破壊されてしまえばいいと、半ば投げやりな気持ちになりかけた。


 その時だった。

 顔に、冷たい感触を覚えた。

 抱きしめられているのだと遅れて悟り、再牙は見上げた。


 視線がぶつかる。

 エリーチカが、再牙の頭に両腕を回していた。まるで、抱きすくめるように。その紺碧に輝く双眸で、彼を見下ろしていた。


「昨日の晩にもお伝えしましたが、今日、琴美さんがお見舞いにやってきます」


 唐突に、そんな事を言い出した。


「さっき連絡がありまして、あと一時間はかかるそうです……だから、あと一時間、こうしていましょう」


 エリーチカは静かに目を閉じ、より深く再牙の温もりを感じようと、腕に少しだけ力を込めた。


「再牙、前にも言いましたよ。他者と協力し合わなければ、人は生きてはいけない。なんでも一人で解決しようとしないでくださいって。忘れっぽいんですから。全く、困った弟弟子です」


 旧式のアンドロイドらしく無表情であったが、不思議と、再牙には長年連れ添った相棒の声に優しい温もりを感じた。


「貴方の苦しみや辛さ、私にも、分け与えてください」


 エリーチカの心からの訴えが、良薬のように再牙の全身に広がり、壊れかけていた心へと伝わった。


 言葉にならなかった。引き寄せられるかのように、ゆっくりとエリーチカの小さな背中に両手を回して、再牙は己へと向き合った。

 やるべきこと。後に遺された者の義務。自分自身の望み。それらを考え、直ぐに一つの答えを導き出した。


 エリーチカの胸の中で、再牙は静かに涙を流した。

 祈りの涙だった。

 悲しき宿命を辿った同胞へ手向ける、精一杯の鎮魂歌でもあった。

 それが、彼の中で導き出された答えであり、今、この場でやるべきことでもあった。


 エリーチカは何も言わず、何も聞かず、震える再牙の肩を優しく抱きしめた。

 貴方の気が収まるまで、そうして良いという無言の意思表示であった。


 涙に濡れた、哀切に満ちた声が病室に静かに響き渡る。

 時としてままならない現実へ向けるやり場のない怒りが、それを助長させる無限の問い掛けが、心の深いところで、溶けるようにして消えていく。


 再牙の中で、少しずつ、少しずつ、収まるべきものが収まっていった。

 道に迷った小鳥たちが、正しく自分たちの巣へ帰っていくのに、それは似ていた。


 私の勝ちね――バジュラの声が、最後の泡となって、再牙の胸の内に現れた。

 かと思いきや、それは陽炎のように揺らめいて、囁きへと変じた。


 私の事を、忘れないで欲しい――

 そんな囁きへと。


 忘れるものか。

 決して、忘れるものか。


 太陽の光が差し込む中、死者への厳かな祈りは、粛々と続いた。

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