アパートの女
唸り声のような雷が響いている。あと数分後にはここも雨が降ってくるだろう。夏の夕立は、たちが悪い。ペダルをギイギイと言わせながら漕ぐ。濡れるのはごめんだ。
正直、賭けだった。わざわざ今、買い物なんて行く必要も無かったのに。濡れる可能性だってあった。あの女も帰ったかもしれない。
簡易的な屋根のついた駐輪スペースに自転車を止める。鍵はかけなかった。こんなボロの自転車を盗む奴が居たら、くれてやる。元々俺の物でもないけれど。スーパーの袋を手に持って、階段を上る。二階までしかないが、上るのが億劫になることもしばしばだった。外階段しかない安いアパート。住人は半数以上が外国人だ。日本語を話せないらしく、挨拶もろくにしない関係だがその方が好都合だ。
「暑い」
夕方と言えど、夏の暑さは体をどっと疲れさせる。かしゃかしゃと揺れるコンビニの袋も気に障った。
ポケットから取り出した鍵を、穴に差して回す。これで開かなければそういうことだ。ゆっくりとドアノブを回してみる。
……開いた。
「帰った」
部屋は蒸し暑く、閉め切られた臭いが鼻の奥をつつく。むっとした空気。窓すら開いていないのか。
「おかえりなさい」
ひょろりと細い足首がスカートの裾から見える。痛々しい痣の痕が見えるが、誰がつけたものだろう。
「……出迎える馬鹿がいるかよ」
「ごめんなさい。私、馬鹿だから」
鍵は中から開けられる。手足は自由にしてあった。それなのにこいつはどうして。部屋の中は三日前と何ら変わっていない。気味が悪い程、同じであった。変わっていたのは乱雑に突っ込まれたポストの中身が増えていたことくらいだ。読みかけの雑誌は同じ場所に置かれたまま、俳優の不倫についてスクープ記事載っているページが開かれていた。あることないこと書かれている。
「だって貴方、私が居なくちゃ死んじゃいそうだったんだもの」
監禁していた女に微笑まれることがあるとは。暑さにやられたか。
「またビール買って来たの?」
「ああ」
「私も飲みたいわ。喉が渇いてしまって」
「水くらい飲めよ」
「それもそうね、考え付かなかったわ」
新鮮な空気が入った部屋は、ずんと重い空気を外に逃がそうと必死に思えた。ビニール袋の中から一本取り出して女に渡す。温くて不味そうだが、女はそんなことを気に留めることもなく缶を開けた。俺は冷やしてから飲むことにする。残りの缶を冷蔵庫の中に入れた。酒と食べかけのつまみが僅かに入っている程度だ。
「とっても美味しい」
扉を閉めると、女はテーブルの前で缶ビールを飲んでいた。
「飯買ってきてやった」
「ありがとう。優しいのね」
三日ぶりの女は、少しやつれている気がした。空腹の酒は胃に悪い。回りも早くなるだろう。それも、久しぶりに体内に摂取したものであれば尚更。
半分くらい飲み干したあと、女は賞味期限の三日過ぎた弁当を温めずにそのまま食べた。
「このお肉ちょっと酸っぱいのね」
「そうか」
「私の気のせいかもしれない」
冷凍庫は他に何も入る余地がないくらいに詰まっている。どこに入れるべきか。冷蔵庫では腐敗が進みそうだ。それに、ビールを入れることが出来なくなってしまう。俺はそんなことを考えながら、女の食事をじっと見つめた。
「あまり見つめられると食べにくいわ」
「俺の勝手だろう」
いくら賞味期限が切れていようが女の命綱はこの目の前の弁当だ。しかし、その命綱を切ることなど容易い。握った綱を離すも、持ち続けるも俺の自由である。
女は裏切る生き物だ。それを知っている。
だから彼女も俺を裏切った。俺の前から居なくなることなど許さない。目の前の女に彼女の面影を見て、彼女もハンバーグが好きだったなと思い出す。今度は手作りで作ってあげようか。冷凍庫に肉はある。それを食べれはこの女は本物の彼女になる。そんな気がした。
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