やさしいあさのおと
均等なリズムでまな板が音を立てる。トントントン、という響きと共に大根が透明に切られていき打ち寄せる波のように重なっていった。
欠伸をしながら階段を下りて居間へと出てくれば、彼女の背中が見える。それを見流し、いつも通り朝刊を取りに向かう。木目が玄関へと続いていた。ひんやりと冷たい床が素足に伝わってくる。サンダルにつま先を差し込んで、戸を開けた。
ガラリ。
すずめが庭先で鳴いていたが、玄関から聞こえてくる音に驚いたのか数羽が飛び立った。
うちに来るすずめは普通と比べても幾分か大きい。否、普通のすずめの大きさなど知らないのだが、取り分けふっくらしているように見えるのだ。今もぽってりとした丸っこい体を宙に浮かせては投函口の上へと羽を休ませている。相変わらず図太いというか、物怖じしないと言うべきか。そんな様子さえもどこか微笑ましく見えてしまうのは、愛着があるからなのかもしれない。
「んん」
私は新聞を手に取ると、うんと伸びた。朝の独特な静かな空気が肺を満たす。心地よい。昨晩のうちに雨でも降ったのだろうか。庭先の緑に朝露が光っていた。ぽちゃんと水たまりへと落ちると小さな波紋が広がっていく。一層朝の空気が冷えた気がした。
十分に朝を満喫し家の中へと戻ってきても尚、彼女は忙しなく料理を作っている。いつも座る定位置に腰を下ろして新聞を開き、そっと新聞の端から真っ白な割烹着を見つめて幸せを噛み締めた。もちろん、彼女には気付かれないようにであるが。
それからして、あまり時間の経たないうちにことんとテーブルが音を出し始めた。眺めているだけの新聞を閉じて畳み、今度はその音を眺め始めることに集中する。順番に並べられる朝食。どれもいい匂いだ。
一粒一粒が立った白飯。毎日削りたての鰹節で作ってくれる味噌汁。緑が鮮やかなおひたし。そしてなんと言っても黄色く、ほんのり甘い香りが食欲をそそる。妻特製の厚焼き玉子は結婚当初から作ってくれている物だ。これなしでは一日が始まらない。
全て運び終わると彼女は濡れた手を拭きに台所へと行き、俺に背を向けた。その背中に手のひらを合わせて静かに感謝する。
「……ありがとう」
ふと、振り向き様の彼女と目が合った。
「何言ってるんですか、あなた」
どうやら聞こえていたらしい。気恥ずかしい。
「いただきます、でしょう。もう全く……嫌ですよ」
おじいさんになりましたね、などと言いながらも妻はどこか嬉しそうだ。よいしょと声を出して目の前に正座した彼女を確認してから、目を閉じた。見ずとも分かる。二人分の手のひらが重なっている。食材への感謝の意を込めて、食事の前には手を合わせようと言いだしたのは彼女だ。彼女の実家は農家を営んでいて、幼い頃から食べ物の有り難さを両親から教えられていたらしい。自分たちの幼少期は今のように食べ物が溢れているような時代では無かった分、余計に。全て残さず食べなさいと私も母によく言われた。
こうして手を合わせ、目を閉じる時間は私にとってもう一つ意味がある。作って貰えることが当たり前ではないと改めて思い直すのだ。
「自分の為でもありますが、あなたの為でもあるんですよ」
結婚して数年、仕事に明け暮れていた時に言われた言葉だ。
「私はあなたの家政婦になったつもりも、食事係になったつもりもありません」
自分は外で稼いでいるから当然だと自分自身を驕っていたのかもしれない。結婚は、共に生活するだけでは成り立たない。生まれ育った環境が異なる二人が生活をするというのは想像以上に難しい。すれ違いや衝突などは些細なことから始まり、数えきれない程ある。円満の秘訣は感謝を忘れないこと。
あぐらをかいた足の上に手を乗せて、目を開けた。まだ合わせている彼女のその手には皺が深く刻まれている。白椿を彷彿とさせたのは、何十年も前のこと。しかし今も尚、芯の通った凛々しさを感じさせるのだから凄い。
嗚呼、この目だ。
「年を取りましたね」
彼女のその言葉は、皮肉のようなものではなかった。今までの時間をゆっくりと、丁寧に思い出して、そしてその全てを包み込むように愛しく思っているような。そんな言葉であった。
「そうだな」
「不思議と嫌では無くなりましたけど」
「そんなものか」
「ええ、三十を迎える時は嫌だ、嫌だと。まるで子供のように言っておりましたけれど今ではもう」
「懐かしいな」
ふふ、と私の目の前で微笑んだ。目尻に皺が刻まれる。笑い皺が目立った。この笑顔に惚れたのだ。ああ、花のように清らかな娘だった。
そしてもう一度。ゆっくりと手を合わせると、どちら共無く感謝の言葉を。深く思い出の刻まれた手が、二人分。
「いただきます」
「いただきます」
ずずっと味噌汁をすする。優しい味だ。味噌汁には削り節がそのまま入っている。これもまた、食べ物を無駄にしないようにという彼女らしい心遣いだ。私は汁の中から薄く削られた鰹節を箸で挟んだ。その下に、大根が顔を覗かせる。私の好きな具だ。
ゆっくりと。それでも止まらずに口へ運ぶ。幸せを噛み締めながら咀嚼して、味わうように飲み込む。そしていつの間にか皿が空になっているのだ。ああ、これは。果たして何度目の食事になるのだろうか。彼女と食卓を囲い、彼女の手料理を食べて。
そして、この幸せな気持ちになるのは果たして何度目なのか。
ひとり、頭の中で思い返していれば彼女が食器を重ね始めた。そうしてもう一度手のひらを合わせると「お粗末様でした、お先に」と言って席を立った。そう、いつも彼女の方が少しだけ食べるのが早い。一足先に食べ終われば食器を流しへと片付けて、それから俺が食べ終わる。見計らったかのように彼女は戻って来て空になった私の食器たちを運んで行くのだ。
私はまた彼女の様子をぼんやりと見つめる。
食器を洗う音がする。腹が満たされて今度は眠気に襲われるのか。全く、自分も正直な奴だなどと思うが欲には勝てない。腕を組んだままこっくりこっくりとお辞儀をし始めるのだった。
「ごちそうさま。今日も美味かった」
寝言のように小さく零せば、ばあさんの背中が笑った気がした。
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