まほうの小箱


 母は魔法使いだ。幼い頃から憧れている。彼女の魔法は人を笑顔にするもので、心を優しくしてくれるもので、悲しさや辛さを吹き飛ばす力を持っていた。魔方陣は使わなかったけれど、怪しい黒い液体を入れた鍋の前で不思議な呪文を唱えながら二本の杖をくるくると回しているのを知っている。もくもくと上がる煙の中身は何だったのだろうか。怖くて、見たことがない。


 「おかあさんはまほうつかいなんでしょ?」

 「ふふ、どうだろうね」

 「ずるい!わたしもまほうつかえるようになりたい!」

 「そうだね、いつか使えるようにちゃんとお母さんが教えてあげるからね」




 母の手から生み出される数々の魔法は、どれも温かくて輝いて見えた。特に印象的だったのが、箱につめられたもの。幼稚園の三年間と高校の三年間、毎日欠かすことなく私に持たせてくれた。それは自慢でもあり、少し特別だと感じることでもあった。


 ―「夕那ゆうなちゃん、ずるい」


 幼稚園の年中組。覚えたばかりの言葉を使うのは楽しいから、良い言葉より悪い言葉の方がたくさん使いたい。それでいて言われたことは素直に受け止めてしまう、そんなお年頃。やわらかな春のレタスのような心を持っているその時期には刺さる言葉だった。母自慢の魔法をずるいだなんて、幼稚園の頃の私には理解出来なくて。いきなり泣き出すその子につられて、うわんうわんと私までも泣き出しては先生を困らせたのだとか。ごめんなさい、先生。全く覚えていないけれど。

 私は何故か母がずるいと言われたような気がしてとても悲しくなった。その子に母を取られてしまうのではないかと不安にもなった。

 しかし、今なら分かる。何が彼女を泣かせたのか。


 ひとつひとつ丁寧に作られたおかず。たこさんウインナーにミートボール。緑色のマーブルが綺麗な卵焼き。私の大好きなお芋の煮ころがし。苦手な野菜はいつもお星さまに型抜きされていて、おべんとう箱はきらきらしていた。


 羨ましかったんだろう、私のおべんとうが。妬ましかったんだろう、自分のそれと比べて。


 私はその日、家に帰ると彼女に言われたことを話した。すると、母は次の土曜日にその子を家に連れておいでと言った。正直、私はあまり気が乗らなかったけれど大好きな母の言うことだったので素直に頷いた。私が誘うとその子も不思議そうにじっと私の目を見て疑っているようだったが、少しすると頷いた。


 土曜日、約束通りその子は私の家にやってきた。


 「いらっしゃい」

 「……おじゃまします」


 彼女は小さく頭を下げて、私の方をちらりと見た。気まずくて、なんとなく目を逸らしてしまう。母の提案ではあったけれど、自分から誘った客人だ。少し考えてから、酷い反応をしてしまったと後悔する。そんなことお構いなしに、母は私と彼女の背中を押してぐいぐいと部屋へと進んでいった。


 「ほら、仲良く遊んでね」


 母はそう言い残すと台所へと消えていった。

 残された二人。会話もぎこちなく、遊ぶフリをする。形だけ。私は色鉛筆を取り出して、ぐるぐると円を描いた。心のもやもやを映し出すような絵が二枚。隣の紙にはチューリップや蝶々が描かれていた。ちょうどそれが出来上がった時、台所から優しい声と共に母がやってきた。


 「お昼にしよっか」


 時計を見ると十二時で、それに気付くと一気にお腹がぐうと鳴った。母はおべんとう箱を三つ持っていた。きょとんと目を丸くする私と彼女。にいっと笑った母が私たちを見下ろした。


 「どこいくの?」

 「折角だから外で食べたいじゃない。近くの公園に行きましょう」

 「公園?」

 「そう、公園」


 水筒を持って、おべんとうを持って。芝生にシートを敷いて、三人で座った。母は私たちにおべんとう箱を渡す。まだ、ほんのりと温かい。


 「いただきます」


 おべんとう箱を開ける。私の大好きな匂いがした。大きく一口、頬張った。私の顔が笑顔になると同時に、彼女の顔も明るくなる。


 「外で食べるのもいいものでしょう?」


 母が自慢げに胸を張る。


 「うん!」

 「うん!」


 今日の小箱は笑顔の魔法がいつもより強めにかかっていた。





 「ほら。夕那ゆうな、おべんとう箱忘れないでよ」

 「あ、うん。ありがとう」


 母から手渡されるおべんとう箱はやっぱり温かい。しっかりと布で包まれたおべんとう箱を鞄の中にそっと入れて、家を出た。


 「今日で、これを受け取るのは最後か……」


 なんだか寂しさが押し寄せる。

 この年になり、母の前で『まほうの小箱』なんて名前では呼ばなくなったけれど。やっぱり、私にとっておべんとう箱は特別で、食べるときには冷たくても母の温かさを感じるものなのだ。


 「いただきます」


 お世話になったおべんとう箱をゆっくり開ける。私の大好きなおかずばかり。やっぱりきらきらと輝いて見えて、嬉しくなった私は母のほうれん草入りたまご焼きを箸でつついた。



 やはり、母は魔法使いだった。


 米粒一つも残さず空になり、名残惜しくもお弁当のふたを閉めようとした時だった。一枚の紙がひらり。ふたの裏に張り付いていた。


 ―『夕那へ。最後のおべんとうも、ちゃんと魔法かけられていましたか?毎日、ちゃんと食べてくれてありがとう。空っぽのおべんとう箱を振るのが、お母さんの楽しみでした。』


 一気に、何かがこみ上げて来た。胸が苦しくなって、息の仕方を忘れてしまい吸い込んだ息を体の中で震わせる。瞬きをしたら、涙が頬を濡らした。何度も何度も頷いた。ちゃんと毎日魔法はかかっていたよ、と。


 大学進学を機に、三月の下旬から一人暮らしを始める。次におべんとうを食べる時は自分で作るものになるのだろう。私にもちゃんと、魔法がかけられるだろうか。ううん。まほうつかいの母に教わったのだ。私は、まほうつかい見習い。きっと、大丈夫。

 

 小さな箱に魔法をかけて。

 大好きな母のように、きらきらと優しいおべんとうが作れるように練習をしよう。まだ少し先の、自分の子供にその小箱を渡す日まで。

 

 次のまほうつかいは、きっと私。

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