緑色の春
「ちょいと手を貸してくれるかい」
玄関から聞こえて来たその声に、私は呼び寄せられた。大好きなおばあちゃんの声。おかえりなさいと出迎えて、手を差し出した時はほぼ同時。そして視界に入って来た紙袋が気になった。
「ねえ、これなあに」
靴を脱ぐ為にゆっくり腰を下ろそうとするおばあちゃんを手伝いながらも、私はその紙袋に釘付けだ。
「これかい」
「うん」
「気になるかい」
こくこくと頷けば、おばあちゃんは皺を深めて優しく笑った。幸せが滲み出ている、この笑顔。楽しい時も、幸せな時も。勿論辛い時や哀しい時だってあっただろう。その度におばあちゃんは笑顔で居たのかな、なんて考えると私も笑顔だけは絶やしたくないと思うのだ。
「ほら、台所に持って行きんしゃい」
靴を脱ぎ終わったおばあちゃんは、よっこいせと掛け声をかけて洗面所の方へと歩いて行った。私は言いつけ通りに台所へと紙袋を持っていく。
机へ置く。紙袋についていた土がシンクの方へと落ちた。そっと中を覗き込もうと折り込まれている部分を開くと、一気に独特でつんとした香りがこぼれる。
「うわ、なにこれ」
「ふきのとうだよ」
食べたことなかったかね、と後ろから聞こえるおばあちゃんの声。私が「ない」と答えるとおばあちゃんは「そうかい、そうかい」と頷いた。
「晩ご飯にこれ食べさせてあげるからねぇ」
昔ながらの割烹着に身を包み、料理を作り始めるその姿を私は台所の椅子に座って眺めていたのだけれど、どうしても気になって隣へと立つ。
「ねえねえ。何作ってるの」
「今夜は天ぷらにしようかね」
「これも天ぷらになるの?」
「まあまあ、見てらっしゃい」
菜箸をくるくると回して、衣をかき混ぜれば泥をとって洗い終わった蕗の薹に絹を纏わせた。緑色の春が、白く染まる。
「こうやってねぇ、つぼみがかたく閉じているものがいいんだよ」
おばあちゃんは菜箸にほんの少し衣を付けると油に落とした。
じゅっ。
軽快な音が響く。そうして絹を纏わせた蕗の薹を油の中へとひとつ、ふたつ、みっつと入れて入れていくのだった。
「わ、あ」
じゅわっと音を立てながら蕗の薹が中で花のように咲く。まるで水面にふわっと花びらを開くようだ。
「凄い……綺麗」
「そうだとも、お花みたいだろう」
おばあちゃんは満足げに目を細めて笑う。私はその美しい光景に心奪われ、小さく溜息を漏らした。
「おお、今日は蕗の薹の天ぷらか。もうそんな時期か」
どうやら、父はこの食べ物を知っているらしい。ビールの缶を開けるとぷしゅりと跳ねる音がした。コップへ注がれる泡が溢れそうになって父は慌てて口をつける。真っ白なひげが鼻の下に出来て、面白い。くぅっと一口。ビールで喉を潤してから箸で天ぷらを摘む。さくっと音を立てて父の口の中へと消えていった。
「お父さんずるい!」
「なら、お前も食べればいいだろう」
私はこんなにも楽しみにしていたのに、紙袋の中に入っていた時から知っていたのに。自分よりも先に食べた父に対して何だか悔しさが募る。
負けじと自分の箸で一番大きい蕗の薹を取ると、顔の前に持ってきた。
不思議な香りがする。今まで嗅いだことのない、独特な香り。それはとても魅力的に感じて、どこか謎めいていた。
「いただきます……」
サク、と父と同じように音を立てた。口の中も独特な香りで支配される。そして、何とも。
「……苦い」
顔を歪ませて、舌を出すと父がおかしそうに笑っていた。
「大ぶりなものはな、苦いんだよ。こうやって小さいものの方が美味い」
欲張って大きいものを選ぶからだ、と父は私を笑う。そういうのは私が食べる前に教えて欲しかったと口が苦くて言えず、膨れっ面になって睨んだ。
「まだ早かったかねえ」
おばあちゃんが筍の煮物を運びながら私に聞いた。
「この苦さは大人の味だからな」
また蕗の薹をつまんでいる父が私の代わりにそう答えた。
私は小さく口をつぐんでから、思い切って残りの天ぷらを口の中に放り込んだ。やっぱり、苦かった。それを紛らわすかのように大好きな筍を口いっぱいに頬張って、まだ大人になれなくてもいいやと考えていた。
まだ僅かに寒さが残る夜に、新しい季節の香りが私の家を満たしていく。
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