0.1と10
「今日は官能評価の実験をします」
生徒たちは机の上のお菓子に気を引かれている。視線が合わないのが何よりの証拠だ。そわそわとする生徒たちを一度こちらに向かせてから、授業を始める。
官能評価とは、人間の感覚を用いてさまざまな物の品質を判定するために用いられる。人の感覚とは視覚や嗅覚、聴覚、触覚などのことであるが、今回は味覚を使う。官能試験や官能検査とも呼ばれたりもする。
「今回は君たちの目の前にあるお菓子を評価して貰います」
そう言うと、教室はわっと沸いた。
「はいはい、静かに。ただ食べて美味しいって書くだけじゃないぞ。アイマスクをしてもらって視覚からの情報を遮断し、味覚のみで二種類のどちらが塩分濃度が高いのかを評価してもらう」
また、教室はざわめく。毎年同じような反応が返って来て面白い。きっと、あの質問もやって来る。
「先生は分かるんですか」
ほら来た。
「自慢じゃないけど分かります。0.1の差でもね」
毎年恒例のごとく、今年もスナック菓子を用意した。同じ味で、メーカーの異なるものだ。成分表示を先に見させて配ったプリントに塩分量を書かせる。
「食べ物は人が口にするものだから機械が評価しても、人の味覚に合わなければ意味がない。こういった官能評価を行うには味覚と嗅覚が優れたパネリストという人たちが必要不可欠なんだ」
「パネリストってなんですか」
「基本味である甘味、塩味、酸味、苦味、うま味を正しく識別することが出来る人だよ。嗅覚も正常であることが条件だね」
評価をする試験の方法は、3点試験法、採点法、順位法などというものがあるけれど今回は名前だけ。
食べ物はパネリストの嗜好の偏りがあったりもするから、データをどう扱うかが難しいところでもあると話してから二人一組を作るように指示をした。隣同士が楽でいい。
「アイマスクはしたか?」
「はーい」
「それじゃあAから」
片方が食べさせてあげて、アイマスクをした方が考える。勿論、どちらかを教えるなどといったことはしてはならない。
「次はB」
さて、どちらの塩分量が多いかな。正解するのは半分くらい。間違っていたから成績に影響が、などということはないから別に良いのだが。
「もうひとつ良いかな」
今度は嗜好の調査。AとBどちらが好きですかというだけだが、興味深い。例によってどちらも同じ味の試料であるがAは砂糖入りのジュース、Bは人工甘味料が使われているジュースとなっている。
「AとBどちらが好みだ」
手をあげて貰う。ここ数年、Bを美味しいと感じる生徒が増えている。慣れ親しんだ味というのは好ましいと感じるためか。これが生徒ではなくもう少し上の年配者になるとAを選ぶ割合が多くなる。年齢によっても嗜好は変わってくる。
味覚は人それぞれ。百人がいて百人美味しいと思うものはこの世にないだろう。
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた。夕飯出来てるわ」
「ありがとう」
家に帰れば俺も教師ではなく、ただの夫。それ以前に男であるのだが、男というものはどうしてこう変化に疎いのだろうか。小さなことには気付く癖に、ぱっと見の変化を見逃しがちである。
「……ね、分からない?」
妻の言葉に、ああこれかと煮物を食べながら思う。
「分かるよ」
「えっ、本当?」
「醤油変えただろう」
彼女の反応はあまり良くない。間違えてしまったのだろうか。いや、そんなはずない。いつもと違う味だ。
「お醤油……あ、うん。いつものが高くて」
正解。だが、妻の反応はやはりいまいちだ。気付いて欲しかったものはまた別にあるというのだろうか。
「ちゃんと分かっただろう」
「そうじゃないの」
「ん?」
目の前の彼女の様子を観察する。着ている洋服は前も見たことがある。新しい洋服を買った訳では無さそうだ。あアクセサリー類はつけないタイプであるし、ネイルなどは好まない。見た目の変化ではないのだとしたら、お手上げだ。
「あなた、本当に分からないの」
「えっと……申し訳ない」
「もう、あなたってば。私が少しでも可愛く居たいっていう女心全く分かってくれないのね」
「え」
「今日髪の毛をね」
そう言われて視線を向かわせる。これか。
「あ、ああ!綺麗だよ。染め直したのか」
「いいえ。染めたのは先週よ。あなた、気付かなかったけど」
「……すいません」
的外れではなかったが、一週間もの間気付くことなく生活をしていた自分が恥ずかしい。もう少し妻への気遣いを出来たら、彼女も喜ぶだろうと肩を落とす。
「今日は髪の毛を切ったのよ」
「切ったのか。そう言えば少し雰囲気が変わったような気がするな」
「10センチも切ったのにその程度だなんて」
「……」
0.1グラムの味の差が分かっても、彼女の10センチは気付けない。
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