日曜日の朝は


 「おやすみなさい」


 パジャマを着た彼が自室へと戻るのを見送ってから、私もそろそろ寝ようと布団を敷いた。

 月曜日から土曜日までの六日間、私のお供をしてくれるアラーム。今夜はそれをわざと解除した。土曜日の夜。そう、明日は。


 「日曜日は誠史朗せいしろうさんが起こしに来てください」


 そう提案したのは私。一緒に住み始める際にダブルベッドという案も出ていたけれど、それだと私が彼を意識してぐっすり眠ることが出来ないだろうと未だに別々に寝ている。

 毎朝、私は彼を起こしておはようのキスをする。こそばゆい気もするが、挨拶のようにしてしまえばいい。自分からすることなど恥ずかしくて出来ないのだから、この際起こしに来た時にキスをして欲しいと提案してきた誠史朗さんに甘えてしまえ。


 「……明日は、誠史朗さんが私を」


 起こしに来てくれる。そう考えただけで頬の位置が上がり、口元がだらしなく緩む。ああもう、誠史朗さんが好き。


 「よし、寝よう!」


 布団に入ってただ眠るだけなのに、何故か意気込んでいる自分がいる。


 「……何を張り切っているんだろう」


 リビングの電気を消す。カーテンの隙間から細く覗く月明かりが仄かに部屋に差している。普段であればそんな些細なことなど気にならないはずなのに、今日はいつもと違う。

 時間を刻む時計の秒針も、月明かりも、心臓が跳ねる僅かな音でさえ。どれもこれもが耳に響く。


 「眠れない……」


 羊を数えるのは逆に頭を使ってしまうから目が覚める、ということを思い出す頃には、私の羊は柵の中に収まりきらず、草原を埋め尽くしていた。


 「一万九百三十……二。あれ、一万三百九十二だっけ、ああ……もういいや」


 妄想の中の羊達が一気に走っていく。さようなら、羊さん。頭の中でそんな風に叫んだりして。緑の草原だけが残る。ああ、皆行っちゃった。私の眠気もどこかに行っちゃうのかしら。しかし、そんな心配は無かったようで。羊を数えて頭は使ったけれど、なにぶん数えた数が数だ。いつの間にか疲れていたらしい。目を閉じるとすんなり眠ることが出来ていた。




 明日は早く起きなければ。ベッドに横になりながら思う。

 日曜日の朝は、めぐみさんを起こしに行く。いつもは起こして貰うので、彼女の方が早起きをしている。


 「誠史朗さんが仕事の時は結局、朝ご飯とお弁当を作らなくてはいけないので。起こしに行くくらい気にしないで下さい」


 そう彼女は言うけれど、少し申し訳なさも感じる。明日はゆっくり寝させてあげよう。何か予定があるわけでもないのだから。僕は深呼吸をひとつして、目を閉じた。


 朝。


 アラームが数秒鳴り、僕はそれを止めるために体を起こす。正直、まだ眠い。恵さんは毎日こんなに早く起きているのか。いつもごめんなさい。いや、ここはありがとうございますと感謝をするべきか。


 朝と言っても僕が普段起きる時刻より随分と早く、この時期はまだ暗いのかなんて思いながら寒さに身を震わせる。もう一度、このベッドに入って寝てしまいたい衝動に駆られる程だ。


 もし、ダブルベッドで恵さんと寝ていたら。


 前にこのシングルベッドで寝たときよりはゆったりと、それでいてやはり近くに。彼女の存在を感じるのだろう。彼女の寝顔が見られる。それ以上に、彼女の寝息まで聞こえるのかもしれない。そんな状況下であれば僕はきっと眠るなんてことに集中出来そうもないし、もっと言えば眠らなくてもいいとさえ思ってしまうかもしれない。仮に眠ることが出来たとしても目を覚ましたときに彼女が横で寝ていたら、何もしないという自信は限りなくゼロに等しい。


 「あああ!」


 いけない。駄目だ、駄目だ。慌ててベッドから出る。朝から僕は何を考えているのだろうか。邪念を払うため、そして目を覚ますために顔を洗おうと洗面所へ足を向かわせた。


 「全く僕という人は……!恵さんに失礼だろう。それ以前に何をしでかそうとしているんだ」


 ばしゃばしゃと勢いよく水で顔を洗う。思ったよりも朝の水は冷えていて、余計なことを考える頭まですっきりした。タオルで顔を拭いてから、鏡を見る。

 寝癖がついている。

 この寝癖を見られたことがあったが、彼女は僕を小動物でも見るような目でじっと見つめ、そのあとに少しにやにやしながらキッチンの方へ走って行った。なんでもこれが可愛かったそうだが、自分には理解し難い。


 ずっとパジャマを着ているわけにもいかないので、私服に着替えてから朝ご飯を作る。今日の目的はこれだ。


 恵さんと生活をするようになってからというもの、毎日食事は用意されているのが当たり前になっていた。しかし、これでは彼女の負担が大きい。日曜日の朝は。日曜日くらいは。僕が彼女に手料理を作ってみてもいいのかもしれない。


 「あんなに家事をする時間が勿体ないと感じていた僕が、自分の時間を家事に割くなんて」


 自分でも驚く。いつか並んで食べた餃子を再現しようと挑戦したときにも使ったエプロンを引っ張り出した。手際が良いとはお世辞でも言えない手つきで、彼女がいつも作ってくれるのを真似て朝食を作り始める。





 どうして目が覚めてしまうのだろう。


 睡眠時間としては普段より短いはずなのに。せっかく解除したアラームも意味を成さないなんて。誠史朗さんに起こして貰う楽しみが一つ減ってしまった。かなり勿体ない。

 隣の部屋から聞こえてきたアラームの音。それも、すぐに消える。彼が止めたのだろう。少しの時間があってから「あああ!」と叫ぶような声が聞こえてドアが勢いよく開いた。


 咄嗟に目を閉じる。何が起こったのだろうと心配する気持ちと、突然の大声への驚き。

 勢いよく開いたドアも、閉まるときはゆっくりだった。音を立ててから私が寝ているのに気付き、はっと息を呑む誠史朗さんが安易に想像できる。彼の足音が洗面所に向かったのを確認すると私は少し目を開けた。どうやら時間も早いようで、辺りはまだ薄暗い。


 「こんなに早く起きてどうするつもりなんだろう」


 また少しして、洗面所のドアが開く音がした。私はもう一度寝たふりをする。

 リビングに誠史朗さんの気配は感じるのだが、起こしに来てくれない。どうしてなの。不意に部屋のドアを開けられても困るので、安易に目を開けていることも出来ない。その代わりに耳を澄ましてみる。


 やはり耳を澄ますだけでは分からない。視覚から得られる情報は膨大だ。情報がシャットアウトされると人は眠くなるのだろうか。昨夜はあんなに苦労して寝たはずなのに、うとうとし始めている。抗わずにこのまま二度寝してしまおうか。


 鼻で息をするとキッチンの方から味噌のいい香りがしてくる、そんな気がした。





 朝食を作り終えると僕は時計を見た。八時手前。


 「結構時間がかかってしまったな」


 効率よく作るにはどうしたものか、考え始めようとしてから我に返る。恵さんを起こさなければ。せっかくなら温かいうちに食べて貰いたい。


 彼女を起こすため、部屋に入る。恵さんはまだ寝ていた。すやすやと、どこか幸せそうな表情だ。

 そういえば、恵さんの寝顔をこうしてまともに見るのは二度目だろうか。初めて見たときは仕事が立て込んで、帰るのが遅くなってしまったあの日。部屋の明かりはついていたけれど、彼女のおかえりなさいを聞くことは叶わなかった。僕の帰りをソファーで待っていた彼女をどれ程愛おしいと感じたことか。


 「恵さん、起きてください」

 「んん……」


 ああ、可愛い。なんなんだ、この可愛い生物は。ああ、僕の彼女か。


 生物、というのはあまり宜しくない表現だっただろうか。可愛いの前では全面降伏だと前に彼女が話していたけれど、本当にそうだと実感している。語彙力の低下。彼女の可愛さを目の前にすると「ああ……」と降伏を示す溜め息しか出てこなくなる。それにしても、なんて幸せなんだ。





 完全に起きるタイミングを失ってしまった。

 素直に起きて置けば良かったと、後悔する。私は布団に顔を埋めて目だけをひょこりと出し、彼の方を見た。


 「すいません、起きてました」

 「起きていたんですか……!」

 「といっても、二度寝してたんですけどね」

 「そ、そうでしたか」


 彼はとても驚いていたみたい。けれど、すぐに「おはようございます」と爽やかな笑顔をくれた。

 そして頬におはようのキス。唇がそっと触れる。ただ、それだけなのに触れた場所から熱が広がっていくような感覚になる。


 「私は……ちゃんと、可愛い彼女でいることが出来ているでしょうか」

 「えっ?」


 私は先程聞いた彼の言葉が気にかかり、つい尋ねてしまう。


 「……誠史朗さんのひとりごと、聞いちゃいました。すいません」

 「あああ…っ!き、聞いてたんですか。あの、その、……忘れてください」

 「無理です。忘れられません」

 「……意地悪だ」

 「何とでも言ってください。私は可愛い誠史朗さんを見られて……いや、厳密に言えば聞いていただけで見てはいない。ああっ」

 「ど、どうしたんですか」


 突然大きな声を出した私に驚いたのか、彼は目を丸くした。


 「目を薄く開けていれば、誠史朗さんの可愛い顔まで見ることが出来たかもしれないのに!私ってば勿体ないことを……」

 「……薄くでも目が開いていたら気付くと思いますよ」

 「あ。確かに」


 彼は眉を落として、少し困ったように笑う。


 「それと、恵さんは可愛いですよ。……可愛すぎるくらいです」


 唐突な破壊力が私を襲う。鼓動が、いつにも増して速い。あんな風にさらっと可愛いだなんて言うものだから。


 誠史朗さんは、ずるい。


 心の準備なんていつもする暇なくて。いつ来るのかさえ分からない攻撃から身を守るなんてこと、私には出来ない。常に防御をしている訳じゃないのだから。

 熱を持つ頬を隠すように、視線を浮遊させればテーブルに目がいった。





 「そ、そういえば!」


 彼女は誤魔化すようにテーブルの上に目を向ける。


 「朝ご飯、誠史朗さんが作って下さったんですか?」

 「はい。恵さんみたいに上手に作れる訳ではありませんが、一人暮らしも経験があるので一応は」


 気恥ずかしくて、頬を掻いた。温かいうちに食べましょうと提案すれば、彼女はそうですねと頷いた。彼女が着替えて顔を洗うのを待ち、向き合って座る。


 「いただきます」


 日曜日の朝は、幸せだ。いや、毎日幸せではあるのだけれど。いつもにも増して幸せを感じる日だと思う。


 「のんびりですね」

 「はい、のんびりです」

 「午後は買い物にでも行きましょうか」

 「いいですね。誠史朗さんとお買い物」

 「嬉しいですか?」

 「とっても」


 昼食は外で食べようか。気になっている人気店がある。もしかしたら彼女も知っているかもしれないが、それはそれでいい。行列に並ぶのも、彼女と一緒であれば苦痛だと思わない。そう思ったのは、彼女と初めて食事に行ったあの時だろうか。久しぶりに、あの生クリームタワーを拝みたい気もする。そろそろ新メニューも出ているのではないだろうか。

 僕がそんなことを考えていると、彼女は不安そうにこちらを見つめていた。


 「誠史朗さんは違うんですか?」


 尋ねただけで、自分の気持ちを言い忘れていたようだ。思ったことは素直に言わなければ、相手には伝わらない。


 「僕もです。恵さんを独り占めしているようで、嬉しくなります」



 そう返せば彼女は頬を赤く染め、手のひらで顔を覆う。こんな風にゆっくりとした日曜日もいいですねと言葉を続ければ、彼女は僕の前で頷いた。


 味噌汁を啜る。彼女と同じ材料を使っているはずなのに、味が違うのは何故か。


 「美味しいです」

 「本当ですか?恵さんが毎朝作ってくれるものと味が違いますが、何故でしょう」

 「えっと。そうですね……出汁はとりましたか?」

 「出汁、ですか。いえ市販の顆粒出汁を」

 「きっとそれだと思います」

 「毎朝、鰹節でとっているんですか」

 「その方が美味しいと思って」


 早く起きるだけでも辛いのに、朝からこんなに手間のかかることを欠かさずにしていてくれたなんて。それを当たり前のように飲んでいた僕は、贅沢にも程がある。


 「あの、いつも美味しい味噌汁をありがとうございます。いえ、味噌汁だけでなく全て美味しいのですが、こんなに手間をかけてくれていたとは気付かず」

 「私が好きでやっていることですから。お礼、ありがとうございます」


 彼女は僕の作った簡易味噌汁を啜り、焦げはしなかったものの形の悪い卵焼きを頬張った。



 「誠史朗さんの手料理、美味しいですね」

 「……ありがとうございます」



 ああ、この平穏な日々が永遠に続けばいいのに。


 そう思ったのが自分一人だけでなければいいと願った、ある日曜日の朝だった。




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