ふたつに割れる
子供の頃、遊園地で貰った風船が割れて大泣きした。それなら空高く飛んで行った方が綺麗で切なくて良かったなんて未だに思う。高校生の頃には一番仲の良かった親友に裏切られた。一方的な信頼だった。一ヶ月前、半年以上付き合った彼と別れた。性格が合わないとわざわざ誕生日に言われた。今まで貰った中で、最高のプレゼントだった。そして昨日、お気に入りのマグカップを割った。散らばった破片を見つめ、ああ、呆気ないと思った。
割れる。壊れる。消える。この三つは私がどうしても恐れたことだった。関係も時間も、物も。全ては一瞬にして消えてしまう。ぱりんと音を立てて、それはもう簡単に。音を立てればまだいい方なのだろうか。静かに壊れていくのは余計につらい。
朝だ。外で子供たちの声が聞こえる。そろそろ登校の時間か。元気な声とは裏腹に、私は頭が重い。久しぶりに飲んだビールが良くなかったのだろうか。一気に嫌なことを思い出せば、逃げたくもなるもの。アルコールで全てを流してしまおうと、普段飲まないものに手を出したあたり自分も嫌に大人になってしまったのだと実感した。年齢確認をされなくなったのは、いつからか。
食欲もない。毎朝飲んでいるコーヒーも、今日は飲む気になれなかった。否、飲もうとはしたのだ。食器棚に手を伸ばしたあと定位置に何も置かれていない現実に、マグカップが割れたことを思い出して小さく肩を落としてやめた。ああ、気分が乗らない。幸い今日が休みだったことが唯一の救いだろうか。仕事なんてものだったら手に付かず一日無駄な労力を使っていたであろうことが目に見えている。
付けっぱなしにしていたテレビの音がうるさくて、リモコンを手に取ると投げ捨てる様に電源を切った。
「ああ、もう」
髪の毛をかき上げ、ぐったりとソファーに腰を下ろす。大きく溜息を一つ。冷蔵庫を開けて見たが、調味料と牛乳、ビールが二本入っているだけだった。しまったと思いつつも家を出る気にはなれない。ビールは期限前に飲み切るだろうか。そんな風に考えるも、当分飲みたくはない。知り合いが来た時にでもあげてしまおう。勿体無い気もするが捨ててしまうよりいいだろう。良く耳にもすることだが、気分が落ちている時に買い物をするのは良くない。無駄なものまで買ってしまう。冷蔵庫を閉めてソファーに戻る際、コンビニの袋がかしゃかしゃと音を立て私の心を逆撫でした。
ずるずるとパジャマの裾を引っ張りながらソファーの上で小さく丸まっているとインターホンが鳴った。誰か人でも訪ねて来たのかとも思ったが、それは考えにくい。ああ、何かのセールスかと居留守を決めようと思った時。
「すいません、宅急便です」
そんな声と共にもう一度チャイムが鳴らされた。
「あ、あ。はい」
のそりと体を起こして玄関のドアを開ける。チェーンをつけたまま。わずかに開かれた隙間から、箱を持った男が見える。
「宅急便です。
母からの荷物だった。
「ハンコかサインお願いします」
「あ、はい」
チェーンを外してボールペンを受け取り、名前を丸の中におさめると箱を受け取る。男は帽子を脱いで一礼すると走り帰って行った。
『割れ物注意』
シールが貼ってある。何だろう。私はテーブルの上へとそっと置くとダンボールを開けた。卵だ。ずらりと並んだ卵。三つに並んだものが四列。
「あ……」
一つだけ、ひびが入っていた。
これも、か。
また、割れるのか。全く、注意って貼ってあったじゃないの。母から届いた突然の荷物に驚き、沈んでいた気持ちを忘れたのも束の間、すぐにまた私の心は割れそうになる。とりあえずこの卵をどうにかしなければ。その割れた一つを手に取ってキッチンへと足を向かわせる。そしてボウルを取り出して中に割り入れた。
「……ん?」
思わず、二度見した。ボウルの中には二つの目が。こちらを見つめてくる。違う、そんなに恐ろしいものではない。卵が。黄身が二つあるのだ。ダンボールの中をもう一度見れば一枚の紙が入っており、開くと母の字がそこにあった。
『双子ちゃん卵です。びっくりするわよ。少しだけれど、お裾分けです』
思わず嬉しくなって携帯を手に取る。カメラでぱしゃり、それを撮った。懐かしい色。今では珍しい、黄に近い黄身であった。近頃は赤っぽい橙色が食欲をそそるなどと言われているらしいが私の中での卵の色と言ったらこれである。
ぷくり。弾力のある黄身。とても新鮮そうだ。
「あ、」
そう言えば。小麦粉があったはずだ。砂糖は切らしていないはず。何だかとても嬉しくなって、にたりと思わず笑みがこぼれた。棚のガラスに映った自分はまるで悪戯を思いついた小さな子供のような顔をしている。
冷蔵庫から牛乳、棚から幾つか使えそうなものを取り出しボウルの横へと置いた。普段は面倒で抜かしてしまうが、今日はなんとなく小麦粉をちゃんとふるいにかけてみる。そして、ぐるぐると。熱したフライパンにバターを放り込めば一気にジュワっと溶け始める。生地をおたまで一杯半ほど掬って流し入れるとまあるい円を描いた。弱火でじっくりと。透明な蓋をしておけば中の様子を眺めることが出来る。ぷつぷつと膨らんでいくそれを見ていると段々と食欲を刺激されてくるような気がして、お腹が鳴った。
「よしよし、あと少しよ」
自分のお腹に声をかけてから蓋を取る。くるり、ひっくり返せば程よいこげ色が顔を見せた。待ち切れず、皿を用意し焼き上がるのを待つ。そろそろいいだろうかともう一度ひっくり返してから皿の上に乗せた。火を消して、小走りにテーブルへと着く。バターは焼き立てのホットケーキの熱でとろりと溶けた。はちみつをたっぷりかけて一口。
「いただきます」
ふわふわと優しい卵の甘さが口の中に広がった。母もこんな風に作ってくれたっけ。素朴な味。決して華やかさはないけれど、大好きなおやつだった。
換気扇を回すのを忘れて、部屋に甘い香りが漂う。まあいいか、嫌いじゃないし。フォークで切り分ければふかりと沈み、小さく割れた。
「次は何を作ろうか」
二口目を口へ運ぶ頃には不思議と心が弾んでいた。
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