会議室B
「ちょっと君」
「はい」
会議終わり、部屋の片付けをしている時だった。
「次の土曜なんだけど。昼食の用意頼めるかな」
「あ、はい。分かりました」
「会議室Bに用意して欲しいんだ」
「Bですね」
「椅子とかテーブルの用意は別の人に頼むからそこは心配しないでいいよ」
「はい」
なんだ、お昼の用意か。てっきり、次のプレゼンのチャンスかと思った。期待した自分が馬鹿だった。がくりと分かりやすく肩を落としてテーブルを元の位置に戻す。余った椅子を壁面収納の中に立て掛けるように片付ければ、気分を変えようと屋上へ向かった。
ここは人が少なくて穴場だ。他部署の人をたまに見かける程度で、気をつかうことなく休むことが出来る。俺は自動販売機で買ったホットコーヒーを手に持ちベンチへと腰掛ける。開けると飲み口から細く湯気が出てきた。
「こんなところでサボりか」
声を掛けられ、丸まっていた背筋がぴんと伸びる。
「……あっ。いえ、少し休憩を!」
振り返ると、右斜め前のデスクの先輩が立っていた。これは怒られると心の中で早々に白旗を振る。
「それをサボりって言うんじゃねえの」
「す、すいません」
「まあ、気にすんなよ。俺も人のこと言えないし」
先輩は俺の隣に断りもなく座ると、数十秒前の自分と同じように缶コーヒーを開けた。確かにここに居るということは、この先輩も仕事をしていない訳だが入社一年目の俺が口出しすることではない。気まずくて、コーヒーをぐっと飲んだ。口の中と喉がひりひりする。火傷をしたようだ。
「そう言えば、今回はお前が担当なのか」
遠くのビルでも見つめているのか、視線の先には特に目ぼしいものは無い。俺には先輩がどこを見ているのか分からなかったが、こちらを振り返ることなく独り言のように言った。どうやら俺に話しかけているらしい。
「なんのことですか」
「土曜の昼食当番のことだよ」
「あ、はい。そうです」
そうして、会話が途切れる。気まずい。この人の考えていることが良く分からない。黙っているのも良くないかと思い、話を繋げてみようとする。
「それにしても当番なんてあるんですね」
「ああ」
また途切れる。そう思ったが、今回はそうではないらしい。
「普段は役職関係無く当番が回って来る。ただ、この時期は新入社員が入って来るから担当に選ばれる。毎年恒例になっているが、今年はお前がトップバッターか」
「そう言われると、ちょっと荷が重いです」
「まあまあ、そんな気張らずに。でも皆楽しみにしているから気は抜くなよ」
「はい」
応援されているのか、はたまたプレッシャーをかけられているのか。微妙なところだ。
「俺も初めての当番の時は緊張したもんだよ」
「お昼の用意に緊張ですか」
「人数分足りなかったりしてな、ははは」
「それって笑い事で済まされるんですかね」
「今となりゃあな」
先輩は懐かしむように笑う。先輩にとっては良い思い出の一つなのだろうか。
「そう言えば、この当番って誰が考えたものなんですか」
「部長らしいぞ。直々に任命されたんだからな、頑張れよ」
「……はあ」
昼食当番をどう頑張れというのか。先輩は人数を間違えたらしいから、個数管理だけはしっかりとしておこう。発注前に再度確認しよう。そこを怠らなければ問題は無さそうだ。
先輩はいつの間にかコーヒーを飲み終えていて、伸びながら立ち上がった。慌てて自分も飲み干して、缶を捨てる。
午後の仕事も残り僅か。数時間後には家だ。俺はデスクに戻ると一番最初に付箋を取り出し、パソコンのふちにそれを貼った。
『土曜日の昼食当番 人数確認をしておくこと』
「もしもし。あ、はい。分かりました。今受け取りに行きます」
土曜日。何事も無く弁当は届いた。たった今、弁当配達の業者から携帯電話に連絡が入ったところだ。エレベーターで降りて、迎えに行く。会議室Bは奥まった場所にあり、分かりづらい。
「お待たせしました、こちらです」
何にしようかと散々悩んだ挙句、花の舞弁当にした。この辺では有名な和食の料亭で、昼には弁当もやっている。予算ぎりぎりではあったが、注文数が多くなった為か少し値引いてくれた。
黒い重箱風の弁当箱に金色の紐が巻かれている。高級そうな見た目であるが、中身も劣ってはいない。インターネットで調べて決めたのだが、何より色鮮やかだったのだ。華やかで、春らしい。煮物に菜の花の和え物、海老や山菜の天麩羅は特製の塩で食べるそうだ。ご飯もただの白米ではない。おこわや赤飯が食べやすそうな俵型になっている。鰆の幽庵焼きも、これがまた美味しそうなのだ。思い出すと腹が減る。
席に一つずつ弁当を置いていき、時間内に終わった。そろそろ来る頃だろうか。会議室のドアを開けるとぞろぞろと入って来る。俺に昼食当番を頼んだ部長も、少しして来た。
「用意は出来たのかな」
「はい、完璧です」
「そうかそうか今日は何かな」
部長は会議室の中を確認してから、もう一度俺の顔を見た。
「あー……そういうことじゃなかったんだが」
「えっ、何か違いましたか」
「いやいや、気にすることはないよ。僕も説明が足りなかったからな。それにしても、高かっただろう」
部長は俺に気を使わせないためか笑顔だった。空いている席に座り、俺の用意した弁当を食べ始める。
「あちゃー、知らなかったか」
「あ、先輩」
「土曜日の昼は手料理って決まってるんだよ」
「え」
会議室で昼食の用意をして欲しいと言われた俺は、疑うこともなく弁当の用意だと思っていた。だがそれは間違っていたようだった。求められていたのは豪華な弁当などではなく、手作り。
「俺、包丁とか握ったの中学生の家庭科が最後ですよ」
「上手い下手を見られている訳じゃないんだよ。勿論、美味しければ尚のこと良いけどね」
俺は会議室が静かになってから一人で昼食を済ませた。腹が減っていたはずなのに、目の前にある弁当は味がしなかった。随分と時間も経って、冷えている。俺は居ても立っても居られずに会議室を飛び出した。
「部長」
「ん、どうした」
「来週の土曜日。もう一度チャンス頂けませんか」
「いいよ。気にしなくても」
「もう次の人に声を掛けてしまったとかですか」
「いや、それはまだだけど」
「それなら是非」
「分かった分かった。頼むよ」
「ありがとうございます!」
俺は会議室に戻り、残りをかき込んだ。塩をかけすぎた天麩羅はしょっぱかった。
「部長。あいつ来ましたか」
「ああ、今さっき」
「やっぱり」
「分かっていた口ぶりだな」
「部長だって分かっていたんでしょう」
「どうしてそう思う」
「もう一度やらせて欲しいとあいつが来ることを願って、来週の当番は声を掛けていなかったんでしょう」
「なんだ、ばれていたのか」
「ここまでが毎年恒例ですからね」
「そうだったかな」
「自分もそうだったので」
自分から願い入れたものの、不安だけが残る。何を作るのか、時間はどのくらいかかるのか、一人で五十人分の昼食を作ることなど可能なのか。課題は山積みだ。自宅で予行練習をしたいところではあるが、五十食を作ったところで消費も出来ない。
また、インターネットに頼るか。いや、それよりも。
「もしもし、久しぶり。ああ、大丈夫だよ。寝坊もしてない、飯も食ってる。そうじゃなくて俺が電話したのは」
実家の母に電話してみた。上京して二か月。ろくに連絡もしていなかった自分が悪いのかもしれないが、電話して早々質問攻めに合う。それをなんとか終わらせて、本題に入った。息子の俺が言うのもおかしいかもしれないが、母は料理が上手かった。
どうせ何も分からない素人だ。覚えるのなら食べ慣れた味がいい。そう思って今に至る。
「そうなんだ。俺が一人で作れそうなものがいい。母さんだから知ってるとは思うけど、全く料理なんかしないから簡単なものが有り難いんだ……うん、うん。え、それって本当に俺でも作れるの」
大量に作る。料理が不慣れな俺にも作れるもの。そして、温かみのある家庭料理。母に出したリクエストはこの三つ。何より、簡単さを念押しして決めた。
仕事帰り、引っ越してきて初めてスーパーに寄った。カゴの中に入って行く材料を見て、実家暮らしの頃を思い出す。まだ数か月しか経っていないというのに、なんだか懐かしい。子供の頃は買い物を頼まれて嫌々行ったっけ。少し安い物を見つけて、おつりで自分の好きなお菓子をこっそり買ったりして。レシートを見れば一目瞭然ではあるけれど、子供の頃の俺はバレていないと思っていた。
じゃがいも、人参、玉ねぎ。豚肉はこれかな。
家で作った試作品は母の味がした。これで土曜日もいけるはず。
「あれ、今日もお前が担当なのか」
「あ、先輩。そうなんです俺から部長にお願いして」
「先週は嫌そうな顔してたのに」
「そうですかね。心配で見にきてくれたんですか」
「まあ、そんな感じ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと作るんで」
会社にあるキッチンは意外にしっかりしている。こんな場所、どこに隠されていたのかと思ったが会議室Bからそう遠くはない。会議室Bを出て右、突き当たりを左に曲がった奥にある。自分に関係はないだろうと認識していなかっただけなのかもしれない。人間の脳とは実に都合よく出来ているものだ。
俺は手を洗い、買ってきた材料を袋から出した。玉ねぎの皮をぺりぺりと剥き、他の野菜も水で泥を洗い流す。母には人参の皮を剥かずに使っていいと言われた。手間も省けるが、野菜には皮にも栄養素が詰まっているのだとか。一石二鳥だ。その代わりしっかりと汚れを落とすことが衛生的にも必要不可欠ではある。じゃがいもだけはピーラーでなんとか全て剥き、少し大きめに切ってボウルに入れた。
「野菜切るだけでこんなに疲れるなんて」
山が三つ。肉は最初から細かく切られているものを購入しておいた。研いでセットしておいた炊飯器がしゅうしゅうと音を立てている。俺は寸胴鍋を取り出して火をつけ、油を薄くひいた。パックの肉を入れる。焼けていく匂いが空腹にはつらい。それから玉ねぎと人参、じゃがいもを入れてかき混ぜた。少し炒めてからしらたきと水を加える。そう、肉じゃがを作るのだ。俺の好物でもある。
全てが順調だった。
正午まであと十五分。会議室Bには昼食を待つ人が大勢いる。
「どうだ、進み具合は」
「先輩!」
丁度いいところに来てくれました。
「これ、どうしたらいいですかね……」
「あちゃー。やっちゃったね」
つい、数分前まではすべてが順調に進んでいたはずだった。どうしてこうなってしまったのか、普段料理をしない自分には分からない。
「作り直す時間も材料も無いし……このままこれを捨ててしまうのは勿体無くて。どうしようかと」
「こんなこともあろうかと思ってな」
先輩から袋を渡される。
「ほら、これ入れちまおう」
「これは……」
「ほらほら、ラストスパート!もたもたしてると間に合わないぞ」
先輩はどこからかエプロンを取り出して、慣れたように後ろで結ぶとワイシャツの袖を捲り上げた。
「おお、今日はカレーか」
「はい」
「面白いね。しらたきが入ってる」
肉じゃがは見事にカレーライスになった。俺もしらたき入りのカレーライスなんて、食べるのは初めてだ。カレールウ、恐るべし。最終兵器かもしれない。先輩曰く、ある程度の物はカレーに出来てしまうのだとか。横並びで食べるカレーライス。味はまあまあ。とびきり美味いとは言い難いが、部長はおかわりをしてくれた。
帰り際、色々な人からごちそうさまと言われた。何だかくすぐったい気持ちになった。
土曜の昼食当番。ミスをしてもそれをカバー出来るような対応力を養っていくのだと言う。料理を通じて学び、一緒に食事をすることで結束を強くする。同じ釜の飯を食べた仲というやつだ。経験者は次の当番の手伝いを買ってする。どれだけ大変かを知っているからだ。そして、そこから人脈の輪も広がって行く。
来年のトップバッターは誰になるのだろうか。男でも、女でも。俺は見守って、何かあったら助けるのだと思う。そのためには料理をもう少し出来るようにしておかないといけない。先輩に聞いてみようか。あの手際の良さは、きっと上手い。
「先輩」
「なんだ」
「このカレーライス美味いですね」
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