夕日色とまと
―『今日は、おばあちゃんの家に行きました。』
ある夏休み。一言日記の最終ページには私とおばあちゃんの絵が描かれている。その両手には野菜が握られていて、二人とも嬉しそうに笑っている。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
電車に乗って二時間弱。町から外れた祖母の家は、少しだけ山を登ったところにある。いつも家族で訪れていた夏休みだったが、今年は一人で来た。一人でも出来ると証明したかったのだ。
ちょうど二週間前に私はお姉ちゃんになった。妹が産まれたのだ。母は産後に加え赤ちゃんの世話もあり、あまり遠出は出来ない。父はそんな母に付き添って居たいとのことだった。兄はサッカーの試合があるらしい。
「一人で行けるのか」
「うん、だいじょうぶ。だってお姉ちゃんだもん」
胸を張ってそう言えば、父と母は見つめ合って微笑んだ。
出かけることが決まってから、父は私に封筒を渡してきた。中には写真が入っている。私の、妹の写真だ。
「お父さんとお母さんが行けないから代わりに渡して来てくれるかい」
「わかった」
電車の窓から見える景色が見慣れたものから除々に山や田んぼが増えていって、乗客もぽつりぽつりになってきた。
終点で降りなさいと言われていたものの、その終点というものがいつなのか分からない。しばらく座席に座って次はいつ動くのだろうと足をぶらぶらさせていると車掌さんがやってきた。
「お嬢ちゃん、終点だよ。おばあちゃんの家に行くんだってね。気をつけるんだよ」
おじちゃんは私の目の前にしゃがみ、帽子を取った。
きっと母が心配して話をしておいたのだろう。さすがは母だ。私は「ありがと、おじちゃん」と頭を下げてから走り出そうとしていたが、呼び止められた。リュックを忘れていたのだ。
「えへへ」
「ほらほら大丈夫かい」
おじちゃんは心配そうな顔をしていたけれど、全然平気。だって、何度も通った一本道だもの。
おばあちゃんの家が見えるとリュックの重さも、この夏の暑さなんかも吹き飛んで一目散に走り出した。あと少し。あと少し。
玄関の前にある少し高めの石階段を一段ずつ上る。両手で扉を横にずらせばガラリと音がした。玄関の鍵は開いている。私は靴を雨や曇に散らかして、そろえる暇もなくおばあちゃんを探しに行く。
「おばあちゃん!」
「おお、早かったねえ。疲れたろう」
おばあちゃんはゆっくりとした足取りで、こちらに歩いてくる。久しぶりに会った私は嬉しくなって、勢いよく抱きついた。
「よく来たねえ」
額に張り付いた前髪と汗をてぬぐいで拭いながら優しい視線を私にくれる。
「まあまあ、麦茶でも飲みんさい」
ガラスのコップにこぼさぬよう半分くらい麦茶を注ぐと、ことんとちゃぶ台に置いてくれた。
「ありがとう」
ごくり、ごくりと飲み干す。ひんやりとした麦茶が汗を引かせてくれる。
「そうだ、おばあちゃんに持ってきたの」
「ん、何をだい」
「写真!」
リュックから数枚の紙を大切に取り出して、それをおばあちゃんの手に渡す。
「これね、私が撮ったの。こっちはお父さんね」
少しだけピントが合っていない写真が一枚。自分で撮ったものだ。
「あら、美人さんだねえ」
「でしょう」
少し得意気になる。けれど、同時に寂しさも覚えるのだ。
「あのね、お母さんもお父さんも赤ちゃんばっかりなの」
「そうかい、そうかい」
おばあちゃんは全て見透かしたように、それでいてあえて口に出そうともせずに私の背中を皺くちゃの手で撫でた。
「ばあちゃんとたくさん遊んでおくれ」
「うん!」
少し休むとおばあちゃんがビニール袋を持って「ちょいと出かけよう、おいで」と手を差し出してきた。私はその手を取り、ゆっくりと歩く。
「どこいくの?」
「まあまあ、そう慌てずに。すぐ分かるよ」
おばあちゃんはそう言うと、少し曲がった腰で山の方へと歩いて上っていく。
ミンミンミン、と。どこからともなくセミが頭の中にまで響く昼。空には真っ白な雲が浮かび、まるでお祭りの綿あめのようにふかふかして見える。去年はおばあちゃんに浴衣を着せて貰ってお祭りに行ったっけ。あの時の綿あめはおいしかったな。もしかして、あの雲も食べたら甘いのだろうか。
「ここだよ」
「……わぁ」
連れて来られたのは、畑だった。おばあちゃんの畑だ。
夏野菜が青々と生えている。
「これ、全部おばあちゃんが作ったの?」
「そうだよ」
私はあまり野菜が好きな訳では無かったのだけれど、それでも心惹かれるものがあった。
真っ赤に燃えるようなトマト。トゲトゲがまるで威嚇しているかのように思える、きゅうり。紫の曲線が魅力的なナス。そして、緑色の皮をむいて出てきた柔らかい黄色の粒に驚かされたとうもろこしだ。
「……すごい」
圧倒されていた私は、ひたすらに畑を走り回っては野菜たちを眺めていた。
日が暮れ始め、おばあちゃんは家に帰ろうと言った。もう少しここに居たい気持ちもあったのだが、蚊に刺された手足が痒い。さっき刺されたばかりの手の甲をもう片方の手で掻きながら、私はおばあちゃんの背中を追った。何度も畑を振り返りながら元来た道を下っていく。
家へ帰るとおばあちゃんはその野菜を裏庭の方へ流れる川へと持って行った。
「これ、どうするの?」
大きなザルの中にトマトときゅうりを入れて、よいしょと腰を持ち上げる。
「こうやってねえ、水につけておくと冷たくて美味しいんだよ」
「……へえ。誰かに盗られたりしないの」
「どうだろうねえ、ここは田舎だから。それに盗られたら盗られたさ。その分誰かの腹を満たしたってことさ」
おばあちゃんは元気よく笑った。
「じゃあ、そろそろ晩ご飯の準備でもしようかね」
「私まだここにいる」
「そうかい、あんまり暗くなったら家の中に入るんだよ」
「分かった」
私は、その川の流れを目で追う。と言っても、水はとめどなく流れていく訳で自分がどこからどこまでを追えているのかなどそんな明確なことは分からない。透き通る水に指を少しだけ沈める。冷たい。
ひんやり、よりもキンと冷えているという表現が合う。この夏の暑さに負けないというのか。とても、不思議だ。
私は指をひっこめて、またその流れを見つめる。まるで、その速い水の流れに吸い込まれて。いや、もっとだ。飲み込まれてしまいそうになる。ぶくぶくと意識が水に飲まれ始めて、はっと我に返った。
「……は、あっ」
息をするのも忘れていたらしい。夕日に照らされて、トマトが一層輝いて見える。ほんの出来心で、私は水の中のトマトに手を伸ばす。そうすればもう、それは簡単に。当たり前であるかのように口へ運んでいた。
ぷつっと、皮がはじける。じゅわっと口の端からこぼれてしまいそうになるが、それすら勿体無い。甘く、それでいて酸味がほんのりとある。種のつぶつぶがちゅるりと喉を走り、流れ込んだ。両手のひらで大切に包み込みながら、夕の光を存分に吸収したトマトを頬張る。
「そろそろ家に入りんさい」
少し遠くから、おばあちゃんの声がする。はっとすれば、辺りは既に暗かった。きっと台所にいるのだろう。ああ、晩ご飯のいい匂いだ。
「今行く」
私はそう返事をして、最後の一口を放り込んだ。
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