第二章その1 悪徳商家川辺屋

「ねえ、どうしたの?」


 俺の頬をぺシぺシと温かい小さな手が叩く。


「え、あれ?」


 正気に戻ると夕焼けの境内の中、心配そうな目で俺を見つめる湖春ちゃんがいた。


「ぼーっとして、大丈夫?」


「いや、大丈夫だよ」


 どうやら突っ立ったまま硬直していたらしい。比売神様と話をしている間も時間は流れていたようだ。


 どうやら俺の申し出を聞き入れた比売神様によって、俺は現代でなく江戸時代に留まることができたらしい。


 それならばせめて、目の前の可愛らしい少女だけでも悲しい目に遭わせたくはない。俺は意を決して改めて本殿に向かって歩いた。




 この町は治安も良く、探せば仕事はいくらでも見つかるそうだ。


 しかしこれからここで生活するとなれば、先立つお金が必要だ。


 幸いショルダーバッグの中身をいくつか持ってきていた。何か換金できる物は無いものか。


「湖春ちゃん、ここら辺に質屋ってあるかな?」


「ええ、そういうことなら川辺屋かわなべやがいいわ。あそこは一般のお客向けにも質屋を開いてるわ」


「川辺屋……」


 聞くなり俺は黙ってしまった。


 先ほどの女神様との会話の中で、その名を既に聞いていたのだ。




「比売神様、その悪い店の名は一体?」


「川辺屋。普段愛想は良いけど裏では悪どい商売ばかりしている上に、賊まで使って他者を蹴落とす、本当にどうしようもない当主が仕切っているのよ。あ、でもここの跡取り息子だけは良識があってハンサム顔なのよ。何せうちの神社にも――」




 息子について話すときの嬉しそうな顔。その息子まで当主のあくどい商売に巻き込まれたのだとしたら、少し可哀想だ。


 少し歩いたところに川辺屋はあった。


 大通りに面しながら巨大な間口を構え、馬を十頭以上つなげる馬場まで備えている。白石屋と比べるまでもない大商家だ。


 中に入ると何人もの男が帳簿をにらみながらそろばんをはじき、さらに油だろうか壺を抱えた若い男が忙しく歩き回っている。


「いらっしゃいませ。お、湖春ちゃんじゃないか、相変わらず元気そうだね」


「おじさんも若々しくていいね!」


 奥の座敷から出迎えた肥満体の羽織袴の男に湖春ちゃんは無邪気に答える。


 この男こそ悪徳商人の当主だ。普段は愛想よく振る舞っているが、白石屋当主の死後に本心をさらけ出して湖春を死に追いやる張本人。


 そんな先入観のせいでこの肥満男に変な視線を送ってしまったためか、男は俺を見るなり目玉を丸くした。


「おや、見ない顔だね。うちに何か用ですかい?」


「俺は伊吹栄三郎。少し金が必要で、今持っているものを質に入れたいんだ」


「そうですか、当店をご利用くださりありがとうございます。どうぞおかけください」


 店主はにこにこと満面の笑みで床に座り込むと、その横を軽くとんとんと叩いた。


 俺は店主の隣に腰かけ、懐に手を突っ込む。


「これなんかどうだ?」


 俺はネックレスを取り出した。金属のチェーンがついたシルバーアクセサリだ。


「何ですこれは?」


「こうやって首にかける異国のおしゃれさ」


 俺は自分の首にネックレスをかけ、得意げに見せつける。


 大学生ならおしゃれグッズのひとつくらい持っているもので、俺も例に漏れず通学や遊びの際にはこれを首から引っ提げている。


 旅行中は歩き回るのでショルダーバッグにしまっていたのだが、換金のために持ってきたのだった。


「わ、きれい!」


 湖春ちゃんはぱあっと明るい顔で俺の胸元に垂れ下がったアクセサリを引っ張る。


 この時代では珍しい道具だ、さぞ高値がつくだろう。


 だが店主は「うーん」と顔をしかめる。


「そんなの他に付けたがる客がいませんよ。切支丹キリシタンと間違えられるかもしれませんし」


 予想外の反応。俺は慌てて付け足した。


「いや、でもこれは銀ですよ? 本物の」


「それじゃあなおさら無理ですよ。お触れで金銀細工は質屋で取り扱ってはならないのです」


 残念そうなため息を吐く店主。湖春ちゃんも「えー?」と納得いかない様子だ。


 思い切り当てが外れた。


「じゃあ……これは?」


 他に良さそうな物なんか持ってないぞ。ダメ元で俺はハンカチを放り投げるように渡した。


 何かの貰い物で、紺色チェック柄の男物だ。デパートでいくらでも売っている。


 だがその時、店主の目が一変した。


「この肌触り……絹ですか?」


「はい、そうですけど」


 店主はじっと生地を見つめ、その感触をじっくりと確かめている。


「これはすごい、絹にこんな鮮やかな模様。小さいけれどもこれは欲しがる人もいるでしょう。質に入れるなんて言わず、是非うちに買い取らせてください。銀30もんめ出します!」


「ええ、30匁!?」


 俺は素っ頓狂な声を上げた。


 たしかどこかで聞いたことがある。金1両=銀50匁=銭4貫文(4000枚)の価値があると。


 1両が4万円ほどだと聞いたことがあるから、この貰い物のハンカチ一枚におよそ2万4000円の値が付いたことになる。


「絹は高級品よ、もっと高くてもいいと思うわ」


 湖春ちゃんが一言はさむ。なるほど、この時代庶民の衣料品は主に綿や麻だ。それらも現代と比べてはるかに高額であろう。


 そうか、それならもっとふっかけられるかもしれない。


 俺は心の中でにやっと笑う。バイトリーダーとして揉まれ続けた経験の賜物か、ハッタリにはそれなりに自信がある。


「店主さん、これは良い絹です。長崎の知り合いの伝手でオランダ人からもらった物なのですよ。この染め方も日本のものとは全く違う、私にだってわからない技法です。そんな珍しいものにたったの30匁じゃあこちらとしても納得できませんね。1両ならどうです?」


 今まで歴史の授業で習ってきた単語をつなぎ合わせ、それっぽいことを言ってみる。これなら説得力も増すだろう。


「1両? いくら絹でもそれはちょっと。40匁でどうでしょう?」


 だが店主も強気だ。


「いいですか、これはこの国ではほとんど出回っていない品ですよ。商品があるのは今この国で唯一、この川辺屋だけなんです。だからどうです?」


 単に値を引き下げるのは芸が無い。希少性をアピールして相手を納得させてやろう。


「この国で唯一……」


 店主もぼそぼそと言葉を反芻する。そしてついに口元が緩み、広げたハンカチをたたんだ。


「45匁。これ以上はさすがに無理ですよ」


 まあこれならいいか。


「負けましたよ、川辺屋さん」


 俺はわざとらしく笑ってぽんぽんと店主の背中を叩いた。


「いえいえ、これからもごひいきに」


 店主は丁寧にハンカチを座敷の小さな机に座っていた男に渡すと、男は漆塗りのきれいな箱からお金を取り出した。


 こうして俺は銀の塊である丁銀3本と小さな銀の塊を3玉、受け取った。丁銀一本で14匁だそうで、これでちょうど45匁らしい。




 川辺屋を出た後、街中を並んで歩いていた湖春ちゃんが俺の顔を覗き込んだ。


「すごいわね、絹の手ぬぐいなんて見たこと無いわ」


「うん」


 ただもう使い切っちゃったからなぁ。あのシルバーアクセサリーもこの時代では無価値だし。


「これ、あげるよ」


 どうせ使い道が無いのならと湖春ちゃんにネックレスを渡す。彼女はさっきこのアクセサリーをきれいと言ってくれたのだし、大事にしてくれるだろう。


「いいの?」


 彼女の顔は紅潮した。やっぱりこう無邪気に喜ぶ女の子は良いものだ。


「うん。でも切支丹に間違えられるから、絶対に他人に見せないでね」


「分かった、ありがとう!」


 湖春ちゃんはすぐさま懐に銀色のチェーンをしまいこんだ。物わかりの良い子らしい。


 ふと見てみると魚屋や米屋、さらには饅頭屋と様々な店が集まっている。今日の夕飯にと慌てて買い物に来ている女もいた。


「そうだ、助けてくれたお礼に、何か買ってあげるよ」 


 これも何かの縁だと俺は湖春ちゃんに声をかけた。


「わあい!」


 本当に無邪気に喜ぶ女の子だ。見ていて俺も嬉しくなる。

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