第三章その2 いざ行商へ!

 翌日、帰ってきた俺が見慣れぬ男を伴っているのを見て、白石屋の人々は目を丸くして驚いた。


「この方は医者の出水宗仁さんです」


 俺を間に挟みながら、奥の座敷で宗仁さんと店主が向かい合って頭を下げる。


 そこに女中の葛さんが煎茶を淹れて持ってきたので、丁度良いやと俺は気になっていたことをひそひそ声で尋ねた。 


「葛さん、他の皆さんは?」


「女中ふたりは新しい店を見つけて出ていきました」


 すらっと背の高い女中はやや腰を曲げてこれまた小声で返す。


 何も言葉が浮かばず、俺はただただ固まった。


 葛さんはぷいっと俺に背を向けて、座敷を後にする。


「ところで栄三郎さん、商機というのは一体?」


 白石屋の店主が俺に訊く。


「そうです、こちらの宗仁さんは伊吹山の麓で医者を開いておられます。で、この方のやいとは驚くほどに効果覿面なのです」


 宗仁さんは再びゆっくりと頭を下げた。そして手元に置いた木箱を開けると、中には鍼灸の道具一式が収められている。


「どれ、おひとついかがですか?」


 店主は顎に指を当てて俺をチラと見た。俺は無言で頷き返した。


「うん、最近背中が痛くての、是非お願いしましょう」


 そう言って店主は羽織を脱ぎ始めた。




「ううん、これは本当によく効く、今まで据えた灸の中でも一番だ!」


 骨の浮かび上がった背中に置かれた艾の小山。そこからは一本の白い煙が立ち昇り、つんと鼻につくもののずっと嗅いでいたくなる不思議なにおいを部屋中に広げていた。


「喜んでいただけて光栄です。患者さんが治る姿を見られて医者冥利につきます」


 そして一通りのお灸を据え終えると、店主もすっかりと店のことを忘れたような明るい顔になり、改めて宗仁さんと向かい合った。


「体が軽くなった気分だ。伊吹山の灸は大昔は栄えていたと聞いたことがあるが、まさか製法が残っていたとは驚いた」


「そうでしょう? で、本題なんですが……」


 口を開いた俺に、店主は満面の笑みを向けた。


「栄三郎さん、言われなくともわかりますよ。大手柄です」


 店主はうやうやしく治療具の中に詰め込まれた艾もぐさに手を伸ばし、それを骨ばった皺だらけの指に摘まむ。


「この艾は本当に良いものだ、欲する者はいくらでもいましょう。是非ともこの白石屋、出水様とともにこの艾を全国に届けたいと思います」


 指先で柔らかい感触を楽しみながら、はしゃぐ子供のように店主は話していた。


「それで多くの方が助かるのでしたら私も本望です。ですが白石屋さん、おひとつよろしいでしょうか?」


 ずっと穏やかだった宗仁さんの声が、一瞬にして緊張する。


 だが店主は相も変わらぬ表情で「はい、何でしょう?」と答えた。


「私は決して金儲けをしたいのではありません。より多くの人々に使われるのならと艾を提供するのです。なので絶対にこれを使って行き過ぎた営利活動はしないと、約束していただけますか?」


 宗仁さんは真剣だった。


 医者である彼にとって人を治すのが最重要であり、儲けは最低限やっていけるだけあれば十分だ。たとえ生活が厳しくなろうともそれを変えることはできない、いわば医者としてのプライドがかかっていた。


 要するにこの人は清々しいまでのお人好しなのだ。


 だがそんな宗仁さんに店主は暖かい笑みを向ける。


「出水様、それは私も同じですよ」


 店主はゆっくりと立ち上がると、床の間の地袋から巻物を取り出して広げた。


 古いものだが傷みは無い。ずっと丁寧に扱われてきたのだろう。


「これは白石屋に代々伝わる家訓です。商人としての心得が書かれています」


 そう言うと店主は広げた巻物を丁寧な手つきで畳の上に置く。


 横から覗いてみると『世間のために商いをすべし』など多くの言葉が項目ごとに記されている。


「私たち近江の商人には守るべき大原則があります。『売り手よし・買い手よし・世間よし』の『三方よし』。私はこれを幼い頃から毎日暗唱し、言葉に込められた意味を考えてきました」


 店主の言葉に俺も、宗仁さんもじっと聞き入っていた。


「売り手である商人も商品を買うお客様も、そしてその商品が広まることで世間全体もが良くなれ、というものです。単に大きな利益を追求するだけでは私は得をしてもお客様も、それに世間も満足はできないでしょう。私はこの艾を必要としている方に、その均衡を保てる値でしか売りつけるつもりはありません」


 そう言い切る店主の顔はとても晴れやかだった。とても傾いた店の主とは思えない。


 宗仁さんに医者としての誇りがあれば、店主にも白石屋として譲れないものがある。


「白石屋さん、そのお言葉、信じてもよろしいのですね?」


 宗仁さんが改めて尋ねる。


「もちろんです。先祖代々で守ってきた家訓、私が破るわけにはいきません」


 医者の顔がほころび、彼は「これからもよろしくお願いします」と深く頭を下げた。


 商談成立の瞬間。俺は心底ほっとした。


 店主も「今後ともごひいきに」と答えるが、安堵する俺の顔を見るなり顔つきが変わった。


「まだ終わりではありませんよ。この艾を買ってくださる方を探さないといけません」


 当然だ。供給源を確保しても需要が無ければ意味は無い。


 つまりは灸を据えたいと思っている人の多い所を探して売り込め、ということだ。


「お灸の売れる場所か……」


 俺は考え込んだ。お灸を据えたいのはどんな時だ?


 俺はクタクタになっているところであのお灸を据えられ、とても気持ち良かった。疲れも吹っ飛んで、またあの熱さを楽しみたいとさえ思ってしまう。


 つまりは疲れた人の多い場所、ということになるが……そうだ!


 思い付いた俺ははやる気持ちを抑えて店主に尋ねた。


「店主さん、この付近の街道で最も歩き疲れる場所はありませんか?」


「歩き疲れる場所? それはもちろん峠を越えて……そうか!」


 答えながら店主もポンと手を打つ。


「はい、峠のある街道沿いの宿場には歩き疲れた旅人もたくさんおられましょう。そこでなら良質な灸を売ることができるかもしれません」


「名案ですな、それなら……」


 店主はまたも地袋に手を突っ込むと、今度は手帳サイズの冊子を取り出した。


 中身は地図のようで、山や川の絵に宿場の名が記され、街道で数珠のように繋がっている。


 店主はその和紙の製本をペラペラとめくり、あるページで止まった。


「ここです、鈴鹿峠すずかとうげ。東海道では東の箱根、西の鈴鹿と並び称される難所です」


 その名は俺も聞いたことがある。


 江戸時代になって東海道が日本の大動脈として整備されても、やはり山越えには苦労したのだ。


 鈴鹿峠は滋賀県と三重県を分断する鈴鹿山脈で最も低い場所のことだが、それでも標高は357メートルあり、西に東海道五十三次49番目の土山つちやま宿、東に48番目の坂下さかした宿が置かれている。


 この2か所でなら、艾もぐさを買ってくれる人もいるかもしれない。


 俺は俄然やる気を奮った。


 自分のアイデアが受け入れられ、実行されようとしている喜びと、成し遂げなければという責任感に満たされる。


「そうとなればぼーっとしてはいられません。出水様、行きましょう!」

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