第八章その3 すごい人たち

「ええと、この小円の半径と正方形の中心点から見た角までの線との和が大円の半径になるわけだから……ここで勾股弦こうこげん(三平方の定理)を使って求めれば……」


「吉松さん、どうしたんです?」


 昼下がり、庭でしゃがみこんでいた吉松に俺は声をかけた。


 見ると吉松は地面に木の棒で四角形や丸を大量に描き、さらに数式を書いていた。そして手には宗仁さんから借りた算術の本を持っている。


 ばつが悪そうに絶句する吉松に、おれは微笑みかけた。


「吉松さん、算術がお好きなのですね」


「けっ、悪いか!?」


 吉松は乱暴に足で図形と式を消した。


「いや、そんなことはありませんよ。算術は商売だけでなく物作りにも応用できますから。将来が楽しみですよ」


「ああ、せいぜい期待しておけよ」


 本当に意地っ張りだなあ。


 先日、俺は算術の授業を終えたばかりの宗仁さんに密かに尋ねていたのだった。


 当然、吉松のことだ。


「本当に物覚えの良い子で、特に算術の才能は目を見張ります。私が何ヶ月もかけて読み込んだ算術の書を、あの年にしてほぼ理解できているのですから」


 彼は興奮したようにそう言った。宗仁さんにしてみても教え甲斐のある生徒なのだろう。


 もし吉松が現代に生きていたら、数学オリンピックの代表選手になれるだろう。そして目指せフィールズ賞、てか?


「何笑ってんだよ、気味悪いな」


 むすっと膨れ面の吉松。


「いえいえ」


 この子なら会計のことを早めに教えてもいいかな?


 そんなことを考えていた時だった。


「あああああ! やってられっかああああ!」


 店に響く男の声に、俺も吉松もびくっと跳び上がった。


 店にいた他の者たちも異常な声にすぐに駆け付け、俺たちも店頭に走る。


 そこにいたのはぜえぜえと息を切らしながら顔を真っ赤にした光琳さんだった。ここまでノンストップで来たのか、頭が湯立っているようにさえ見えた。


「どうしたんですか光琳さん!?」 


 俺は冷えたお茶を湯呑に注いで差し出した。


 光琳さんはそれを奪い取ると一気に喉に流し込み、一息ついてから叫んで答える。


「あの誠蔵って野郎、俺の蒔絵に散々ケチ付けやがる。純金だけでなく真鍮も使わないと質感の違いが表せないってのがわからないのかねぇ!?」


 店にいた者全員が固まってしまった。


 漆器職人の誠蔵さんと初対面した時にはあんなに意気投合したように見えたのに。芸術家と職人、互いに譲れないものがあったのだろう。


「光琳さん、お気持ちはわかります。ですが日野椀に関しては漆の専門家の誠蔵さんにお任せした方が」


「違う、そういう意味じゃない! 俺の言う通りにしないと完璧な作品はできないんだよ!」 


 光琳さんはまたも興奮して顔を赤くする。


「これは難しいところですね」


 いつの間にやら店主も駆けつけていた。手にはお茶請けにお菓子を持っている。


「光琳さん、言いたいことは分かります。ですが誠蔵さんは誰よりも漆のことを理解していますし、ここは一旦引き下がって……」


「そんなことできるか! それは完成しても俺の思い描く作品とは別物だ」


 俺が何を言っても今の光琳さんは聞き入れそうにない。


 光琳さんは漆器をひとつの芸術作品として世に送り出したいと思っている。観賞用として美しさの極限に挑みたいのだ。


 だが誠蔵さんが今まで作ってきたものは実用に適した食器だ。美しさよりも機能性を優先する。


 こだわりの強いふたりが出会ったら、こうなることは十分予想できたのに。作り手だけに任せず最初に何を作るべきか、店主同士で話し合って方針を定めれば回避できたかもしれないのに。


 大葦屋おおよしやの店主もこれまでにない上客を得るチャンスとあってかなり乗り気だった。


「とりあえず落ち着きましょうよ。お金が必要なんでしょう? 私たちも行きますから、もう一度大葦屋に戻りましょう!」


 俺は頭を下げて懇願する。せっかく持ち直しつつある白石屋に、尾形光琳という才能との出会い。この機会を逃すのは惜しい。


 だが光琳さんは決して首を縦に振らなかった。金という言葉が出てきても一向にうんとは言わない。


 周りの者たちも呆れた目を向けながらそれぞれの作業に戻る。


「まあ光琳殿、そう頑なになっていては作れるものも作れませんぞ。まずはお菓子でも食べなされ」


 店主はお盆に急須と盛り付けた外郎ういろうを、そっと畳の上に置く。


 この提案に光琳さんも多少は氷解したようで、口を尖らせたまま座敷に上がり込んだのだった。


「俺は美しい漆器を作りたいんだ。使える、使えないの問題じゃない。100人が見れば100人が泣き出すような作品を作りたい」


「それは当然でしょう、美しさを求めるために妥協はできませんからね」


 店主はお茶を注ぎながら答える。そして新しいお茶を光琳さんに突き出すと、光琳さんは頭を下げながら受け取った。


「ああ、だがあいつは違う。日野椀はあくまで日用の品で、生活の中で使えなければ意味が無いと言い張るんだ」


 そう言って光琳さんはぐいっと一気に飲み干す。


 そりゃあ誠蔵さんは芸術家という自覚は持っていないからな。職人としてストイックに日野椀を追求している。彼にとって日野椀は庶民の生活に根差した日用品なのだ。


 だが店主は否定することも主張することも無く、ふんふんと頷くだけだった。


「誠蔵さんについて、光琳さんはどう思われます? 彼の言い分について、どう思われますか?」


 そして不意に尋ねた。


 光琳さんはしばらくの間黙り込んだままだったが、やがて静かに口を開いた。


「それについてはわからなくもない。でもあの誠蔵の腕は本物だ。あいつなら一切のムラ無く漆黒を表現できる。俺の蒔絵を添えれば必ずや最上の漆器ができるはずなのに、もったいない」


 そう言って光琳さんは外郎に手を伸ばし、ひと口かじる。


「本当にもったいない」


 そしてまた呟くのだった。


 しばらくの間、光琳さんは外郎を食べ続けた。店主も無言で外郎を食べていた。


 そしてちょうど店主が外郎を食べ終わり、お茶を飲んでふうと一息ついた時だった。


「それでしたらいっそのこと本音を伝えてみてはいかがでしょう?」


 ようやく店主が口を開いた。


「誠蔵さんが譲れないのも互いに自分の腕に自信を持ちながらも互いのことを認め合っているからです。ですが残念ながら話し合いが十分でなかったゆえに、自分の作品を作りたいという思いが強くなって不和が生じてしまうのです。今はこの段階なのです」


 光琳さんは何も言い返さず、じっと聞き入っていた。強く言い返されたわけでもないのに、まるで素直に聞き入れる小さな子供のようだった。


「ですからまあ、お互いの本音が分かれば落としどころも自然と見えてきますよ。まずは腹を割って話し合ってみてはいかがでしょう?」


 にこっと微笑む店主。


「仕方ねえな……金のため背に腹は代えられないからな」


 光琳さんはため息を吐きながらも強がって言った。


 やはり病の身とは言え、この白石屋は店主で持っているようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る