第八章その2 蒲生氏の遺産

 日野ひのは近江の国の南東部、現在の蒲生がもう郡にあたる。


 琵琶湖からやや離れた平地であるこの地域は、戦国時代には蒲生氏の居城である日野城の城下町として発展した。


 しかし江戸時代に入り蒲生氏の庇護が無くなると、楽市令など商人の優遇政策が撤廃される。これを受けて日野の商人は全国各地へと行商に赴き、成功して帰ってきたのだった。戦国時代から活躍した八幡商人より後発となるが、小さな店を各地に出店することで着実に販路を拡大し、日野商人は全国に名を轟かせたのである。


 一言で近江商人と言っても活躍した時代と地域によって、その中でもさらに細かい区分が存在するのだ。


 俺たちにとってここに来ることはある意味、敵の本拠地に乗り込むようなものだった。


「八幡の白石屋さんが何の用です?」


 八幡に比べると小規模ながら、商家と蔵が建ち並ぶ日野の街並み。この町の漆職人を訪ねるには、まず最初に日野の盟主である大葦屋おおよしやの店主に話を通す必要があった。


 立派な座敷には松の木の描かれた屏風。その前に座る大葦屋の店主は、まるで大名のような風格を漂わせていた。36という若さで日野の町を束ねるこの男は、商人にしておくにはもったいないほどの胆力にみなぎっている。


 白石屋の店主と俺、そして光琳さんの三人は、皆言いようのない威圧感に完全に委縮していた。


「この方は京の画家で尾形光琳殿と申されます」


 店主の紹介で光琳さんは頭を下げる。一応は良家の出という身のためか、作法は完璧でいつもとは違う気品も漂っている。


「光琳殿は蒔絵にも優れ、やがて江戸にもその名を知らせることになるでしょう。そこで私たちは光琳殿と日野の漆職人の技術を合わせ、江戸に新たな商品を売り出したいと思い今日ここを訪ねたのです」


「八幡の大商人様も落ちぶれたものです、このような田舎にまで頭を下げに来るのですから」


 大葦屋の店主の嫌味にも、白石屋の旦那は笑って堪える。


 権力者の力をうまく利用した八幡商人は南蛮貿易の時代から活躍し、江戸時代に入れば蝦夷への北前船も開拓したことで全国でのネットワークを形成した。


 一方で遅れて出てきた日野の商人は江戸幕府の設立以降、隙間産業を開拓しながら少しずつ力をつけてきた歴史がある。時代の後押しで一気に富を築いた八幡商人を横目に、地道に行商を重ねて蓄財してきた日野商人はあらゆる面で違っていた。そこに嫉妬の感情は無いことはなかった。


「いいえ、この日野の町には腕の良い職人がおられます。彼らの力をお借りしてこの光琳殿の蒔絵を売り出せば、一大流行も起こせるでしょう」


「そんなにすごいのですか、その御仁は?」


 白石屋の店主の言葉に大葦屋は反応する。


 さすがは商人、良いものは良いと評価するだけの公平さも持ち合わせているようだ。


「はい、どうぞ」


 俺は持っていた箱や風呂敷を次々と開けた。


 花模様の金粉が施された漆器の箱、色鮮やかに雉きじを描いた扇子。いずれも丁寧な仕上げで、大名の家に並べられても遜色ない出来だ。


「これらはすべて私の作品です」


 光琳さんが胸を張って言い放つ。自信のない作品でも堂々と対応するように、と予め伝えた時、彼はそんな作品ならとっくに捨てていると笑って返していた。


 そんな光琳さんの言葉を聞いているのかいないのか、大葦屋の店主は作品を一点一点手に取り、上から下からとあらゆる角度から眺めていた。


 そして見れば見るほどその表情が崩れていくのだった。


「良い出来をしている。これは確かに各地の大名も欲しがるかもしれないですね」


 これ以上に無い最高の褒め言葉だ。


「でしょう、いかがです?」


「ですがこれは京の漆器。日野の物と相性が良いか、それは試してみなくては分かりません」


 そう言って店主は蒔絵の漆箱をそっと丁寧に両手で持ち帰ると、静かに立ち上がった。


 そして席を離れ、「ついて来てください」と俺たちを外に誘うのだった。


 案内されたのは少し離れた工房だった。この町は商家街と職人街でふたつのエリアに分かれていた。


 そんな町中で看板を出す一軒の工房に入ると、これまた精悍な顔つきの若い男が黙々と椀に黒い漆を塗っているのだった。


誠蔵せいぞう、今日も精が出るな」


 大葦屋の店主がにこやかに話しかける。


 男はちらっとこちらを見るが、それだけでまた作業に戻った。寡黙な人のようだ。


「こいつは漆職人の誠蔵だ。不愛想だが腕は確かだ」


 店主は俺たちに苦笑いを向けた。


 この地域ではかつて蒲生氏が木地師と塗師を招き、椀物を作らせていた。その後蒲生氏が会津に渡った際には一度衰えるが、日野商人が行商に地元の椀物を売り歩いたおかげで再興し、日野椀としてこの時代には上方では広く流通する商品になっていた。


 日野椀の特徴は厚手で、高台が高いことにある。硬く丈夫で、高級感もありながら普段使いにも十分耐えうる高品質が売りだ。


「誠蔵さん初めまして、八幡の白石屋という者です」


 白石屋の店主と俺が頭を下げると、ようやく誠蔵さんは「よろしく」と呟くように返すのだった。


 それでも目は作業中の手元から一瞬たりとも離さない。なんだか悪いタイミングに入ってきちゃった気もするな。


「この方は尾形光琳さん、京の画家だそうだ」


 大葦屋の店主が光琳さんを手で示す。


 ちょうど壁に置かれた作品を目を輝かせて見ていた光琳さんは自分の名が出たことに気付き、ずかずかと作業中の誠蔵さんの傍らまで駆け寄ったのだった。


「あんた、すごい丁寧な塗りだね。京でもこれほどの職人はなかなかいないよ」


「……用件を手短に伝えてくれ」


 うっとうしいなという表情ひとつ見せず、誠蔵さんは淡々と尋ねた。


「これは光琳さんの作品だ」


 大葦屋の店主は手にしていた光琳の漆箱をそっと作業場の近くに置いた。誠蔵さんは最初、それを横目でちらりと見ただけだった。


 だがその箱を目にした瞬間かっと目を見開くと、作業を中断しその箱にとびついたのだった。


 そしてあらゆる角度から、光をよく当てて食い入るように作品を見つめる。


「これは……見事な蒔絵だな。あんたが作ったのか?」


「ああ、塗りは職人に任せたけど、蒔絵の部分は俺だ」


 驚嘆の表情で尋ねる誠蔵さんに、光琳さんは嬉しそうに答える。


「……良い作品だ。だが塗りが甘い、ムラもできている。目の肥えた者なら満足はできない」


 そう言いながらも誠蔵さんの顔は晴れやかで、頬も紅潮していた。未知の技術と出会い、新たな道が開けたような。そんな気分だろうか。


 すべてを見越していたかのようににやっと笑いながら、大葦屋の店主はここで一際声を大にする。


「光琳殿の蒔絵と誠蔵の塗の腕はどちらも一級品だ。そこで俺からの提案だが、ふたりで力を合わせてひとつ最高級の漆器を作り上げてみないか?」


「元からそのつもりだ。誠蔵さんには誰にも負けない塗りの技術がある」


「私もだ、お前の蒔絵、俺がより輝かせてやろう」


 二人は即答だった。そして互いに視線を合わせると、全く同じタイミングで頷いたのだった。


 芸術家と職人、分野は違えど通じ合う何かがあったのだろう。


「決まりだな」


 大葦屋の店主は工房を出て、俺たちも後に続いた。


「では白石屋さん、これから取り分の話といこうか」


 そして庭先で振り返ると、先ほどの熱い表情とは違いなんとも軽妙に尋ねるのだった。


 やはり同業者、ちゃっかりしている。




 光琳さんを日野に残し、俺たちが八幡の町に戻った時には既に陽は沈みかけていた。


 その帰り道、夕日に染まる日牟禮八幡宮に立ち寄ると、宗仁さんが神社の一室を借りてちょうど授業を開いていたのだった。


「あれ、こんな時間に?」


 子どもたちの授業はもう終わっているはずなのにおかしいな?


 境内から覗いてみると大人たちが並んで熱心に講義を聴いているのだった。


「この三角形に内接する円の半径を甲とします。そうなるとこの小さな円の半径は甲よりも小さくなるのは当然ですが……」


 げげ、これは算術の講義だ。


 俺は一応暗算ができる程度には数には強いが、だがそれは算数の話。高度に論理的な思考が必要とされる数学となると、ちんぷんかんぷんに陥ってしまう。


 高校の頃は数学が苦手なのに理系コースに入ったおかげで散々な目に遭った。


 そんな嫌な思い出が頭をよぎっているところ、隣を歩いていた白石屋の店主が声を上げる。


「おや、随分と小さな子も混じっているのですね」


 確かに、大きな大人たちの中にひとつ、小さな背中が見える。男の子だろうか、まだ髷さえも結えない短い髪の毛がぴんぴんと跳ね上がっている。


「ああ!」


 俺と店主は声を上げて驚いた。


 あいつ、うちで丁稚をしている吉松じゃないか!


 まだ10歳かそこらの彼は大人たちに混じり、彼は熱心に宗仁先生を食い入るように見つめているのだった。


「そういえば吉松は算術が得意でしたな。算盤を教えるとすぐに使い方を覚え、九九も一日で覚えてしまった」


「え、それってかなりすごくないですか?」


 もしかして……彼は天才か?

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