第一章その2 白石屋の人々
俺が湖春ちゃんに連れてこられたのは、のれんに『白石屋』と書かれた家だった。
「お父ちゃん、お堀でこの人助けたんだけど、上げていい?」
のれんをくぐった俺たちを出迎えたのは、ちょうど淡い彩色の反物を眺めていた湖春ちゃんの父親だった。
白髪を後ろで結びいつも笑ったような顔のおじさんだが、病的に頬がこけていた。痩せるというよりやつれていると言った方が正しい。
だが声には威勢があった。
「犬猫と同じように人を扱うな! と、本当にずぶ濡れじゃないか。さすがにそれではお辛いでしょう、どうぞごゆっくりおくつろぎください」
俺は「お邪魔します」と靴を脱いで部屋に上がった。
ここは商家のようで、土間に面した部屋には番台が置かれ、気難しそうな顔をした男がそろばんを弾いている。
その後ろには商品を収納しておく箪笥や木箱、壺などが所狭しと並んでいた。
「申し訳ないね、なんだか」
「いいのよいいのよ。お父ちゃん新しい知り合いができるのが何より嬉しくって、あれで喜んでいるんだから。あ、番頭の権六さんよ」
「……どうも」
番台で書類に向かっていた男がちらっとこちらを見て、一言だけ返した。
接客の要なのに随分と不愛想だな。
奥の座敷に通されると、湖春ちゃんはどこからか薄い浴衣を引っ張り出して俺に突き出した。
「ほら、服脱いで。着替えにこれ使いなよ」
「わ、わかったよ……恥ずかしいからあっち向いててくれるかな?」
俺は店の奥の庭を向き、シャツのボタンをはずし始めた。
蔵や増築された家屋も見える庭はちょうど青々とした木々が茂り、しぶとくセミも鳴いている。
「まあ、なんて不思議なふんどし! これどうやって腰で止まっているのかしら? それに変わった帯ね、南蛮の衣服も進んだものね」
俺がジーパンを下ろすなり湖春ちゃんが駆け寄ってきた。
俺は思わず身をひねってしまったが、そういえば街中には裸に近い格好の男もいるので、あまり男の裸に変な感情を抱くことは無いのかもしれない。
「一応日本製なんだけどね」
そう付け加えるが、湖春ちゃんは俺の脱いだばかりのジーパンの生地に興味津々で、手に持ってその硬さを楽しんでいる。
「
湖春ちゃんが外に向かって言うと、家屋の陰から大きなたらいを抱えた17歳ほどの女の子が顔を出す。そこらの男よりも背の高い、着物姿の映えるすっとした美人だが、その娘は俺を見るなりはあとため息を吐いた。
「湖春様、また変な男を連れ込んで。この前も道で飢えていた坊主を連れ帰ってきたところじゃないですか」
結い上げた髪の上から手ぬぐいをかぶり、藍色に染めた着物の腕をまくった腕は水に濡れていた。この家の女中だろう。
「別にいいじゃない、人助けよ、けちけちしてても仕方ないわ。それに人に喜ばれたらそれがいつか自分たちにも帰って来るってものよ」
「ふう、実際動くのは私なのですから、こっちの身にもなってくださいよ」
女中の葛は俺の着ていた服一式を受け取る。
「すみません、なんだか悪くて」
俺は申し訳ない気分で言うと、葛はこちらを向いてにかっと笑顔を見せてくれた。
「あんたは気にしなくてもいいよ。代わりにうちの商品を買っておくれ」
そう言ってまたも家屋の陰に戻る。あそこに井戸があるのだろうか。
「待ってて、今お茶用意するわね」
湖春ちゃんがそそくさと部屋を出て、お湯を取りに土間に降りる。座敷には俺一人になってしまった。
さて、流れでこの商家に上がり込んでしまったが、これからどうしたものか。
どういうわけか俺は300年以上前の江戸時代の近江八幡にタイムスリップしてしまった。原因はわかるわけがない。
心当たりと言えばあの妙な声と石碑だが、あれは一体?
「お待たせ!」
そうこう考えている内に湖春ちゃんが湯呑を載せたお盆を持って帰ってきた。苦みの中に甘味を隠した、温かい煎茶だ。これはありがたいと俺はずずっと飲み干してしまった。
そんな俺の飲みっぷりを眺めながら、不意に湖春ちゃんは口を開いた。
「そういえば名前まだ聞いてなかったわね。私は白石屋の湖春よ」
「ああ、俺は伊吹栄三郎」
「伊吹なんて苗字、もしかしてあの伊吹山の麓から来たの? 南蛮服だからてっきり長崎から来たのかと思ったわ」
「そ、そうなんだ。親父が外国の物好きでね、息子の俺にも南蛮服を着させたがるんだ」
とりあえず適当に話を合わせる。300年後の未来から来ましたと馬鹿正直に答えて、誰が信じようか。
「異国のことに詳しいの? ねえ教えて、世界にはどんな国があるの?」
「そ、そりゃあ俺だって行ったことは無いからわからないけどさ、もっと暑くて雨の多い国には、そりゃあここらで見られる猿よりもっと大きくて尻尾の長いものがいるらしいよ」
「へえー、一度でいいから行ってみたいなぁ。異国って」
感慨深げな顔を向ける。
ふと湖春ちゃんは立ち上がり、床の間の地袋から小さな木箱を取り出すと、慎重な手つきで蓋を外した。
中から現れたのは少し灰色がかったものの、美しい乳白色の茶碗だった。素朴ながらも丁寧な仕上がりで、高級感が漂っている。
「これは60年以上前の貿易が許されていた頃、その時の当主が大越から持って帰ってきたものなの。今はだいぶ落ちぶれちゃったけど、この店も昔は八幡の町で一、二を争う名店だったみたい。だけど異国との貿易が禁じられて、さらに大坂から江戸まで船で商品を運べるようになったから琵琶湖の水運も激減して、あれよあれよとこうなっちゃったの。でもいいなぁ、私のご先祖様も大きな海を渡っていったように、私も誰も行ったことの無い場所に行ってみたいわ」
彼女はその陶器をうっとりと眺めていた。大越といえば現代のベトナムのことか。
日本人がそこまで航海を行っていたのかと、俺は素直に感心した。
だが一方で非常に気になることがある。
さっき聞こえたあの不思議な声。この娘の声はあれとそっくりだった。
そしてなんとか読めた『石』と『春』という字。この娘は『白石屋』の『湖春』だ。
もしかしたらあの碑はこの娘の……考えるだけで胸が締め付けられる気分だった。
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