第十四章その4 井の中の蛙

「は……はい?」


「吉松君のこと、私は大変に気に入りました。子のいない私にとって、まるで孫ができたようにさえ思うのです」


 貝原先生は目を真っ赤にして懇願した。一方の俺は「頭を上げてください」と返すのも忘れるほど思考が止まっていた。


「吉松君の才覚は非常に優れています。学者として大成する素質は有り余っておりますし、この子の能力を最も発揮するにはそれが一番でないかと思います。ですがそのためには武士でない彼にはいささか不利です。悪いようにはしません。是非我が家にどうか!」


 予想外の出来事に頭がオーバーヒートしてしまいそうだったが、ようやく俺も状況がのみ込めてきた。


 だが実際のところは突然頭を殴られたようなショックを受けていた。ゆくゆくは吉松に店を任せようとさえ思っていたのに。


「栄三郎さん、私からもどうかお願いします」


 吉松も頭を下げる。顔つきは今までにないほど真剣だった。


「吉松、君は……」


 親御さんはどう言うかな?


 そう言いかけて俺は口を閉ざした。以前聞いた話では、彼の両親は既に亡くなっているそうだ。2年ほど前に吉松が白石屋に奉公に来た直後、流行り病に倒れたらしい。


 実家という寄る辺の無い吉松にとって、面倒を見てくれる大人は白石屋だけだ。白石屋の先代店主を本物の父親のように慕っていたのも無理はない。


 つまり今、吉松の親代わりとなるべき者は必然的に俺になる。吉松を養子に出すか否かは俺の一存にかかっている。


「吉松、君はどう思う? 本当に学者になりたいと、思うかい?」


 つい感情的になってしまいそうだった俺は、なるべくゆっくり話して平静を保った。


「はい、白石屋の皆様にはご恩を仇で返すような形になるやもしれませんが、私は学問の道を志しとうございます」


 普段なら絶対にしないような眼差しを俺に向け、礼儀正しくきっぱりと言い放つ。これは本意と思って間違いないだろう。


 確かにこの子なら商人としてよりも、学者として活躍する方が性に合っているかもしれない。


 だが、やはりどうしてもイエスとは言えない。


 俺だって吉松に愛着はあるし、人材としても今後店のためには手元に残しておきたい。そもそも今まで何かと優遇していたのも将来を見越しての早期教育の意味もあった。


 後継者最有力候補が突如いなくなってしまうのは白石屋にとって痛手になることは間違いない。


「うん、ちょっと……この話は急すぎます。しばらく考えさせてください」


 俺はふたりとは顔を合わせないように顔を逸らし、足早に部屋を出た。


 今なら息子に対する父の想いというものが、なんとなくわかる気がする。




「栄三郎さん、どうなされたのです?」


 宿泊客全員が肩を並べて昼食にあり付く中、隣に座る手代がご飯をもぐもぐと噛みながら尋ねた。


「別に、ちょっと食欲が無いだけだよ」


 俺は苦笑いとともに箸を置いた。


 吉松の件がずんとのしかかり、昼ごはんもろくに喉を通らない。炊き立てほかほかの白米でさえも、今の俺には何の魅力も感じられなかった。


 吉松と先生は屋敷で返事を待つことになり、今この宿にはいない。だが俺は他の者に吉松を養子に出すかどうか、相談しようとは思わなかった。


 彼らは店の人間だ、その答えは「店に残しましょう」の一点張りだと、なんとなく予想がついたのだ。


 この時代は基本的に親の職業を子も継ぐのが一般的だった。職人の子は職人に、商人の子は商人になるのが大多数だ。まして武士でもない丁稚の子が学者になるなど、前例はあっただろうか?


 心配そうに覗き込む手代の視線が痛く、そそくさと席を立つ。


 その時、賑やかな食堂にひとりの男が姿を見せた。


「栄三郎殿はおられるか?」


 その声に俺は振り返る。宿の女将に連れられて現れたのは、高砂屋の店主だった。


 俺と高砂屋の店主は宿の一室を借り、話し合いの場を設けた。午前中にも貝原先生、吉松と話をしたあの部屋だ。


 座敷に座った店主は煙管きせるを口に当て、ふうと煙を吐き出す。


 そして向かい合って座る俺に話し始めたのだった。


「受け取った品々、俺は阿蘭陀オランダの商人にしかと見せたよ。品の受け渡しは決してしないという条件で、特別にな」


「反応はいかがでしたか?」


 俺は身を前に乗り出す。果たして俺たちの商品は外国人にどう評価されたのか、心臓はバクバクだった。


 店主は再び煙管を吹かすと、苦笑いを交えて答えた。


「そりゃあもう、舐め回すように見ていたさ。自分たちの知らない日本の品が、まだこれだけあったのかって」


「そ、それは良かったー!」


 ほっと胸を撫でおろす。まだ良い反応をもらえたというだけだが、売り手にとってはそれだけでも大きな喜びだった。


 安心する俺をよそに、店主は懐から小さな包みを取り出した。そして丁寧な手つきでそれを解き始める。


「で、連中は俺にこんな物を渡したんだ。本当は受け取るのは良くないんだがな」


 風呂敷から現れたのは、白地に青い花の絵が施された小さな皿だった。小振りだが高級食器として観賞用にも使われそうな、そんな気品を漂わせる逸品だ。


「あんた、これ、どこで作られたと思う?」


 店主は小皿を手に取ると、ずいっと俺に突き出す。


 俺は受け取った小皿の表面に指を滑らせる。つやつやの手触りが冷感を伴ってなんとも心地よい。


「見た感じ磁器のようですね。となると有田でしょうか?」


「いいや、違う」


「それでは清しんですか?」


「それも違う。実はな、これは阿蘭陀人が見様見真似で作った陶器なんだよ」


 陶器だって?


 この薄くて滑らかな肌触り、磁器にしか思えないのに。


 俺は窓辺に寄って太陽の光に皿を透かせる。磁器ならば光が透過するので、うっすらと皿の高台の形が映り込むはずだ。


 だがこれはただ一様の白地だけで、何の変化も見られない。間違いなく陶器だ。


 それにオランダ人が作ったというのも信じられなかった。どう見てもアジアの風合い、中国の景徳鎮けいとくちんで云々と鑑定士が今にも語り出しそうな見た目なのに。


「阿蘭陀ではこれは『でるふと』と呼ばれているらしい」


 絶句する俺に、高砂屋の店主は煙管の煙を吹きつけながら話す。


 そこで俺は思い出した。デルフトという名、確かテレビの紀行番組で聞いた覚えがある。


 デルフトとは世界的な港湾都市ロッテルダムにほど近い町だ。そしてヨーロッパ有数の焼き物の産地でもある。


「これは阿蘭陀の商人から聞いた話だが、異国では日本や清の陶磁器は人気があり、高値で売買されている。そして自分たちでも同じような物が作れないか、実際に窯を開いたというわけだ」


 店主はそう言いながら煙管をひっくり返して吸い殻を竹筒の中に落とす。そして新しく煙草を詰めると、再び火を点けて吹かし始めた。


「だが磁器の製法は秘伝中の秘、簡単に真似はできない。だから連中は陶器でも真っ白の釉薬を均一に塗りつける技術を生み出し、さらに絵付けまでできるようになった。連中は日本の物を真似する内に、次の次元へと技術を高めてしまったんだよ」


 オランダのデルフト焼きの人気は国内だけでなく、ヨーロッパ全土に広がった。後にドイツで磁器の製造に成功したのが現在も続くマイセン窯であるが、そちらも東洋白磁への憧れがあってこその執念だったと言えよう。


「阿蘭陀人は俺以上に分かっていたんだ。俺が普段何気なく使っているモノの良さを」


 ため息とともに店主は煙を吐き出した。そして自虐的な目を俺に向けるのだった。


「井の中の蛙大海を知らずとは言うが、俺は自分の井戸がどれほど良い水を湧き出しているのか、気が付いていなかったみたいだ。すぐ傍にあっては気付けない、他人に見られて初めて知る価値もあるんだって」


 店主のその言葉に俺は胸を突き刺された気分だった。


 他人からどう評価されているのか、それは実際に他人に見せなければわからない。そうした過程を踏んで評価された物が広く知られ、より良い物へと磨かれてゆく。


 それは商品だけじゃない、吉松も同じだ。


 白石屋という店の中で学問に励んでも、それだけでは市井の人として一生を終えるだけだろう。彼の本分を評価してくれるだけの人々のいる場に立つことで初めてその才覚も発揮できるというものだ。


 それが本人にとって最も望むことなら、後押ししてやるのが親の役目ではないのか。


 そうだ、俺がするべきことは吉松を大海に送り出すことだ。そこで揉まれ鍛えられ、いつか立派な学者として大成するのを応援するのが俺の役割なのだ。


 単純な答えじゃないか。


 心が晴れて解き放たれた気分に浸っていた俺は、ぼうっと上を向いたまま黙っていた。


 だが店主がすっと手を伸ばすのを見て、慌てて正気に戻る。


 それは握手。江戸時代の日本では珍しい、西洋風の親愛の表現だ。


「どうか無礼を許してほしい。それから次の貿易から白石屋の商品をうちに卸してほしい。全国各地とつながりのある白石屋の商品をうちが買い、長崎から海の向こうへと送り出そうではないか」


「ええ、こちらこそ」


 俺は店主の手を強く握り返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る