第十一章その1 江戸支店の陰謀

 俺が案内されたのは隅田川沿いの立派な茶屋だった。二階の座敷からは多くの荷物を載せた船の行き交う川を眺めることができ、いつまでも飽きずに見ていられる。


「俺たちの考えをそのまんま言い当ててしまうとは、あんたには恐れ入ったよ! 人を疑うことを知らない連中よりも、あんたみたいな人間の方が100倍信用できる」


「その誉め言葉はあんまり嬉しくないなぁ」


 取り巻きの男たちに囲まれながら、俺は狐目の店主から注がれた酒に口を付けていた。寒い冬でも熱燗を一口飲めば体の芯から温まった気分になる。


 惜しむらくは遊女でもいれば華やかになるのだが、今この部屋にはむさ苦しい男しかいないのが残念だ。


「いやいや、商売人は人が好いだけじゃやっていけねぇ、特に俺たち川辺屋のように金貸しもやっている者はね。踏み倒されないようまずは人を疑うことから入らなきゃな」


「川辺屋って、どこかで聞いたことある名前だね」


 とぼけて俺は訊き返す。


「そりゃあ兄さん、川辺屋とは近江が商都八幡の誇る名商家だぜ。俺は江戸支店を任されている升衛門ますえもんというんだ。あんたの名は?」


「ああ、俺は……吉松よしまつ相模さがみの国から来た吉松て言うんだ」


 とりあえず適当に思い出した名前を名乗る。相模出身というのもでたらめだ。


 白石屋も同じ八幡の店である以上、商売敵とこうも酒を飲み交わすなど絶対にできない。何の利害関係も無い庶民の方が、敵の懐にまで忍び込めるものだ。


 しかし吉松、勝手に名前を使って本当にごめんよ。お土産に何か買ってきてやるから許しておくれ。


「ほう、吉松さんか。仕事は何を?」


「今は何も。勤めていた店が潰れてしまって、仕事を探しに江戸まで来たばかりなのさ」


「なるほどね。じゃあ吉松さん、単刀直入に言おう。俺たちと組まないか?」


 店主の狐目が妖しく光る。俺は口に付けようとしていたお猪口をピタリと止めた。


「組むって、借金の取り立てでもやれってか?」


「それもいいが、もっと大きなことだ。俺は将来、川辺屋本家を継ぐ」


 俺は耳を疑った。


 本家を継ぐだって? あの肥満体店主の実の子の棟弥さんではなく?


「本家を? 今の店主はあんたの親父さんかい?」


 棟弥さんの名を出さず、俺はそれとなく聞いた。


「いいや違う。八幡の店主は俺に商売のいろはを叩き込んだ師匠みたいなもんで、その教えを俺はずっと守っている。だがその息子はどうも人が好すぎてな、あれじゃ将来騙されて店を潰しちまう。今までは変わってくださるかもと思って待っていたが、結局何もわかっちゃいねえ。これ以上は放っておけねえ、もう店から出ていってもらうしかない」


 にたにたと笑う店主に、取り巻き立ちも頷く。


 なるほど、棟弥さんは以前自分はお人好しゆえ父親から商売に向かないと言われていたことを告白したが、周囲からも同じように思われていたようだ。


「随分と大それたことをやるもんだね。そんな大切なこと、俺にばらして大丈夫か?」


「大切なのはここからだよ。その息子に二度と商売の世界に戻ってこれないような罪を擦り付けるんだよ」


 背中を悪寒が走る。


 だが俺は感づかれないよう、酒を流し込んですぐに尋ね返した。


「つまりありもしない嘘をでっち上げると?」


「そうだよ、やはり吉松さんは読みが鋭い。うまくいけば吉松さんにも良い働き口を用意しよう」


 悪魔のように笑う男たち。人間もここまで汚くなれるものか。


 だが俺も彼らに劣らぬくらいに汚れた笑いを向けてやったのだった。


「食いつなぐのにも困っていたところなのに、とんだ幸運じゃないか。いいねえ、何をすればいい?」




「サブさん! ご無事でしたか?」


 日が沈んでから宿に帰ると、白石屋の手代の若者たちが部屋から駆け下りて俺を出迎えた。


「みんな、遅くなってごめん。それと申し訳ないんだけど、江戸を発つのはもう何日か遅れるよ」


「いえ、それはよいのですが……一体どんな話を?」


「すごい情報をつかんだ。うまくいけば川辺屋をずっと黙らせることもできる」


「どういうことです?」


 きょとんと眼を丸める手代たち。


 酒が回っていた俺は少し足取りをふらつかせながらもその脇を通り過ぎると、ちょうど女将が酔い覚ましに持ってきた水を受け取った。


「善良なだけでは商売は難しい……でも!」


 俺は腰に手を当て、湯呑の水を一気に流し込む。


 熱くなった体が一気に冷え込むが、胸の奥から沸々とたぎる熱さだけはどうしても収まらなかった。


「善人が報われないのは間違っている! 俺は徹底的に戦うぞ!」




 翌日、俺は浅草の長屋に囲まれた小さな酒屋を訪ねた。


「いらっしゃい!」


 頭に手ぬぐいを巻いた初老の店主がぺこぺこと頭を下げながら店先に姿を現す。


 老夫婦が経営するこの酒屋は扱う商品の量は少ないものの、長屋の住人たちに酒を良心的な価格で提供している。


「やあ、上方から新酒は届いているかい?」


 にこにこと明るい口調で俺は店主に訊いた。


「ええ、今朝店に入って来たばかりですよ」


「そうか、じゃあそれを一升、これに入れてくれ!」


 俺は手にしていた陶製の大型の徳利をすっと差し出す。店主は丁寧に受け取ると、壁際に置かれた樽の上に置かれた升を手に持った。


「あ、そこの手前から2番目の樽に入っている酒を入れてくれ」


「はい?」


 店主は首を傾げながらも言われた通りの樽を開け、慎重に量りながら透き通った酒を俺の徳利に移していた。


 升衛門の計画はこうだ。


 川辺屋は棟弥さん指揮の下、頻繁に上方から名産品を載せた船、つまり菱垣廻船で江戸まで商品を届けている。これは川辺屋にとっても主要な収入源のひとつとして重要視されているそうだ。


 特に冬は日本酒にとっては新酒の季節、灘や伏見から急いで江戸へと運びこまれたできたばかりの酒は身分を問わず多くの人々に愛され、


 先日仙台へ向かった棟弥さんも、江戸にいる間に到着した船から積み荷が降ろされる様子を見守っていたらしい。


 升衛門はここに目を付けた。つまり廻船事業で不正をでっち上げ、棟弥さんに責任を押し付けて川辺屋から追い出すのが魂胆だ。


 具体的にはこの酒屋を利用する。川辺屋がこの酒屋に卸した新酒の酒樽は3つ、その内ひとつを去年から倉庫に残っていた古酒とすり替えていた。その樽にはあらかじめ一見ただの傷にしか見えない目印が付けられており、他の酒樽と並んでもすぐに区別がつく。


 酒も生物なまものと比べて遅いとはいえ劣化はする。特に江戸時代は保管方法が現代と異なるので酒樽の木の香りが酒に浸透したり酸化したりと思った以上に劣化が早かったらしい。


 そんなねた酒を川辺屋は昨日の内に用意して、今朝早くにこの店に届けていた。そして客として俺がその古酒を買い、飲んで中身がおかしいと文句を言う。それを酒屋が川辺屋まで苦情を入れればあとは店主の思惑通り、棟弥さんが安い古酒を新酒と装って売り裁いたと偽装するのだ。


 さらに新酒は酒の販売許可の下りていない者に売りさばく。こうして棟弥さんは自分の知らない間に商品の偽装と酒の密売の罪を押し付けられ、店を去らざるを得なくなるという算段だ。


 この計画の協力者にはヤクザや身内と無関係の人間が必要であり、それにどういう因果か俺が選ばれたのだった。


 だがあの親父が悪事を働くのは息子の将来を想ってのことであり、最終的に店を自分の息子に継がせるのは確定的だった。そんな意図に明らかに反する彼らの企みは、師匠であるあの店主でさえも蔑ろにする行為、絶対に許されるものではない。


 この悪巧み、俺が踏みにじってやる。棟弥さんのためにも白石屋のためにも、俺は決意を固めていた。

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