第六章その1 漬物語

 木曽路はすべて山の中、とはよく言ったもので、中山道はその大半が険しい山道だ。


 それでも日本アルプスの脇の比較的なだらかな道を拓いて進んでいるのであるから、街道が未整備の時代は山々がいかに障壁になっていたかが嫌と言うほどよくわかる。


 彦根で積み荷を降ろし、予め用意しておいた荷車に積み替え、俺たちは中山道を上った。


 東海道より大回りではあるものの、道中俺たちは武士や商人とひっきりなしにすれ違った。江戸と上方を行き来する際に雨が降れば待ちぼうけを食らう大井川などの難所を嫌って、こちらのルートを取る人も多いそうだ。


 だが大荷物に女の子を伴う俺は相当珍しいようで、会う人会う人皆がこちらを必ず一目見るのには笑ってごまかすしかなかった。


 特にいかにも偉そうな風貌のお侍がすれ違いざまに一度んんっとガン見し、さらにすれ違った後も振り返って様子を見ていたのには本当に参った。なんだか誘拐犯にでもなった気分だ。


 途中まで、具体的にはゆるやかな道の続く加納かのう宿、つまり現在の岐阜市のあたりまではそれほど苦労はしなかったのだが、次の宿場である鵜沼うぬま宿から先は峠越えが必要だった。


「これで峠を越えるのは……うん、無理だ!」


「まさかこんなにしんどいなんて、行商舐めてたわ」


「大坂までは逢坂山おうさかやまさえ越えればあとは平坦だったのに、やっぱ中山道はわけが違うよ」


 重い荷物に辟易していた俺と湖春ちゃんの決断は早かった。道中でも少しずつ売り歩いていた漬物のほとんどを、加納の町で売ることにしたのだ。


 かつては織田信長も治めていたこの地は当時、加納藩として譜代7万石の松平家が治めていた。宿場町にして城下町という立地の良さのおかげで、中山道の数ある宿場の中でも大いに栄えたという。


 俺たちは城下の食料品店を訪ねると、小柄で人の良さそうな顔つきの店主は持ってきた樽を覗き込むなり歓声を上げた。


「珍しい漬物がこんなに! 是非買わせていただきましょう!」


 店主は即決し、俺と湖春ちゃんはほっと胸を撫で下ろした。


 現代は品種改良が進んで全国的にも均質の野菜が生産できるが、この時代はそれこそ土地ごとの気候や土壌の差が大きく、ある地域では栽培できても別の場所ではできないといった地場の野菜が非常に多かった。京野菜などはその名残である。


 ゆえに遠隔地ならではの野菜を風味豊かに食べられる漬物は、食道楽の金持相手には多少高値でも喜ばれるそうだ。


 店主が特に喜んだのは日野菜ひのな漬けと水茄子みずなすのぬか漬けだった。


 日野菜は琵琶湖東部の山林に自生するカブの一種で、梅酢(梅干しを作る際に出る汁)に漬けこんで作るさくら漬けは上品な味わいが自慢だ。


 そしてもうひとつ、水茄子は大坂南部の泉州地域、現在の岸和田市や貝塚市で栽培される水分豊富な丸い茄子だが、このぬか漬けは普通の茄子よりも優しい味になる。


 いずれも栽培方法が広く知られておらず、その土地以外での栽培も難しいことから味とともに希少性を評価し、すべて買い占めてくれた。行き帰りの経費もペイできるほどで、少なくともこの距離までなら漬物を売り歩いても黒字が出る。


「水茄子のぬか漬けはそのまま食べるとだいぶ酸っぱいから、刻んで水洗いしてよく絞ればいいわよ」


 湖春ちゃんのアドバイスを聞きながら、店主は樽の中から取り出した水茄子の漬物を今にも頬擦りしそうなほど見つめていた。


「いやあ、ぬか漬けは本当にありがたいよ。ここらじゃ珍しいからね」


「ぬか漬けが珍しいのですか?」


 意外に思って俺は尋ねた。ぬか漬けなんて現代じゃあまりにメジャーすぎて、珍しさも何も無いじゃないか。


 だが店主は俺の一言に驚いた。


「当然だよ! 江戸や大坂みたいな大都市じゃないと米は精米されないからな」


 現代でこそ全国に広がっているぬか漬けだが、その製造には精米後の余剰な米ぬかが必要で、白米よりも玄米を食べていた地方では作ることも難しかった。


 旅籠で食べてきた米も多くは玄米だったように、白米は都市の住民と一部の金持ちしか食せない贅沢な逸品だった。庶民は米ぬかの原料である精米前の米を食べていたので、そもそも米ぬかが得られなかったのだ。


「ねえ店主さん、この店はぬか漬けは取り扱っていないの?」


 湖春ちゃんが何気なく訊くと、店主は振り返り照れ笑いした。


「あれば扱いたいんだけどねえ。俺、ぬか床の作り方よく知らないんだ」


「じゃあ教えてあげよっか? ちょうど水茄子に付いてきたぬかもあるから、これを種にすればすぐできるわよ」


「本当かい、お嬢ちゃん!?」


 店主の目の色が変わり、湖春ちゃんの足元にひれ伏さん勢いで駆け寄る。


「いいわよ、死んだお母ちゃんに教えてもらった白石屋秘伝の方法よ」


 腕をまくる湖春ちゃんに、店主は「ははぁ!」と跪いた。結構ノリいいな、ここの店主。


 それにしても湖春ちゃん、秘伝の方法をそうべらべらとしゃべってもいいのか?




「そう、次にこの野菜の切れ端を入れるのよ」


「ほうほう」


 早速米ぬかを調達してきた店主は打って変わって真剣な顔つきで壺の中のぬかに手を突っ込んでいた。湖春ちゃんのレクチャーを一言も聞き洩らさないぞと気迫に溢れていた。


「あとはぎゅっぎゅって表面を押し固めるの。5日くらいしたらぬか床からこの野菜を出して、洗ってからまたぬか床に戻すのよ。それを何回か繰り返せば完成よ」


「結構複雑なんだなぁ」


 横から見ていた俺はお茶を飲みながら呟く。


 ここで紹介するには冗長になり過ぎるので割愛するが、普段何気なく食べているぬか漬けも、一度では覚えきれない複雑な工程で作られている。これを最初に思いついた人はよっぽどの幸運か天才か暇人のどれかだな。


 一通りの作業を終えた店主は俺たちを奥の座敷に上げ、満面の笑みで名物の外郎ういろうを振る舞ってくれた。


「ありがとう、これでうちも自家製のぬか漬けを売ることができる。白石屋さんには感謝の言葉じゃ言い表せない恩を買っちまったよ」


「こちらこそありがとうございます。今後ともご愛顧よろしくお願いしますね」


「当然だとも、また珍しい漬物を売りに来てくれよ!」


 豪快に笑う店主。


 持ってきた商品のほとんどをここで使ってしまったが、もしかしたらと俺は尋ねた。


「ところで店主さん、この街道沿いの町でもぬか漬けは珍しいのなら、もっと山間の土地でもぬか漬けは喜ばれるでしょうか?」


「もちろん喜ばれるだろうね。食材にも限りがあるから、ぬか床があれば重宝されるだろうよ」


 この店主の一言で決心がついた。俺は湖春ちゃんに向き直り、強く言った。


「湖春ちゃん、俺ひらめいたよ!」


「まさか直接漬物を売るんじゃなくて、ぬか床の種と作り方を広めて回る、て言うんじゃないでしょうね?」


 お茶をずずーっとすすりながら湖春ちゃんは答えた。そのまさかそのまんまの指摘に、俺は「よくわかったね」と萎んでしまった。


「今の流れなら当然でしょ」


 湖春ちゃんは湯呑を置いて外郎を一口放り込む。口の中に広がるほのかな甘みに、少女の顔はとろけた。


「いいわよ。私がいないと誰が作り方を教えるのよ。サブさん知らないみたいだし」


「湖春ちゃん、ありがとう。あとでお菓子屋で好きな物買ってあげるよ」


「よっすぁあああ!」


 よっしゃあ、と言っているんだな、多分。


 当初の予定とは変わってしまったが、俺は新たな切り口を見つけたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る