第六章その2 善光寺の出会い
すっかり荷の軽くなった俺たちは山間にもかかわらず今までより速いペースで進んだ。
ぬかに麩などの商品は俺が背負い、湖春ちゃんは背負い葛籠に草鞋など旅の道具を詰めて二人そろって高木立ち並ぶ山道を歩いていた。
そしていよいよ
「店主さんに聞いたんだけど、信濃でも北に行くほど雪深くなるらしい。だからとりあえず、信濃の最北端の野沢を目指そう」
峠を越えた先の
荒涼とした土地でも栽培できるので、山奥では蕎麦は貴重な栄養源だった。
「せっかくの旅なんだから、もっとゆっくりしていきたいのに」
「気持ちは分かるけど仕方ないよ。これは行商だよ」
「つまんないの」
湖春ちゃんは口を尖らせながら蕎麦湯に口を付けた。
信濃の国は山がちであっても、街道沿いは結構にぎわっている。民家や商家が建ち並び、市も開かれていた。
しかし険しい峠道となれば全く別だ。本当に街道かと疑う壁のような坂道が続き、しかもそれがぐねぐねと褶曲している。
足を踏み外せばそのまま真っ逆さま、という絶壁を通ることもあり、なるほど今まで漬物売りが全国に広まらない理由を実感した。こんなとこ大きな荷物を抱えて通れるわけ、あるか!
先々でぬかを少量ずつ分け与えてぬか床の製法を伝授しながらお金を稼ぎ、数日かけて俺たちは
この街道は
いくつかの峠を越えてこの街道も攻略すると、ようやく信仰の本場である善光寺に到着する。目的地はここからもう少し歩くが、今日はこの国内屈指の寺院にお参りして、ここまで来れたことに感謝しよう。
京都や日光にも負けない荘厳な造りの山門に見上げるほど巨大な本堂、そして町中に点在する小さな寺院に宿坊。
まさに寺による寺のための門前町が山間の盆地に広がっていた。
「これから行く野沢には温泉があるみたい、楽しみだわ」
門前の茶屋で甘酒を飲みながら、湖春ちゃんは楽しそうに話す。
「温泉かぁ、久しぶりにザブンと浸かりたいなぁ」
そういえば野沢温泉って有名だな。野沢菜漬けもあるし、白石屋に持って帰る新商品が見つかるかもしれない。
「そうよ、早く行きましょうよ!」
湖春ちゃんがすっと立ち上がったその時だった。
「おい、どっかの藩のお殿様が参詣に来ているらしいぜ!」
「本当かよ、見に行ってみようぜ!」
すぐ近くで若い二人組の男が駆け出し、その肩がちょうど立ち上がった湖春ちゃんとぶつかったのだ。
「きゃっ!」
「おっと悪いねお嬢ちゃん!」
背中から地面に倒れる湖春ちゃんを振り返ることもせず、男たちはそのまま走り去ってしまう。
「湖春ちゃん、大丈夫!?」
慌てて駆けつける。幸いにも湖春ちゃんは無傷だった。背中の葛籠がクッションになったらしい。
「ええ、平気……ああ!」
だがさすがに人間一人分の衝撃がかかってしまったせいか、葛籠はその角を無惨にもへこませていた。
せっかくの白石屋の屋号が描かれた背負い葛籠が、痛々しい姿に変わり果ててしまった。
「あーあ、お嬢ちゃん可哀想になぁ」
そんな俺たちの様子を若い男が覗き込んでいた。背中に巨大な籠を背負い、中からは竹や植物のつるが飛び出している。汚れてつぎはぎだらけの服を着てはいるが、純朴そうな瞳からは悪巧みをするようには思えない人だ。
「すみません、こういうの直したり新しいのを買える店ってありますか?」
「ああ、知っているけど……これくらいなら俺でも直せると思うぞ」
男がしれっと言ってのけるので、俺は「本当ですか?」と訊き返してしまった。身なりはお世辞にも小奇麗とは言えない農民なのに。
「ああ、俺の村じゃあ男は誰でもこれくらいできて当たり前だからな。どれ、見せてみなよ」
男は背負っていた籠の中から植物の蔓を何本か取り出した。
湖春ちゃんは「ええ」と背中から葛籠を外して男に差し出す。
茶屋の前に座り込んだ男は葛籠を形どっていた折れた竹を器用に抜き取ると、その隙間から植物の蔓を差し込む。よくしなりながらも頑丈なのか、木質化した蔓は竹の間を縫って開いた隙間を埋める。
そしてあっという間に葛籠は元の形に戻ったのだった。
「とりあえずこれでしばらくは持つ。ただ応急処置だから、近いうちにしっかりした店で直すか新しいのを買うんだな」
「ありがとうございます。これをどうぞ」
俺は懐から金をいくらか取り出す。だが男は手を突き出して拒んだ。
「いいってことよ、好きでやってるんだからさ」
「ですがもらいっぱなしというのは良くない。商人としては等価交換が原則なので」
「じゃあそうだな……飯、おごってくれよ!」
この人は野沢の農民で、名を田助と言った。
「俺の村じゃ冬は雪に閉ざされて、外に出るのもままならねえ。だから家の中でアケビの蔓を編んで籠や玩具を作って稼ぐんだ。漆を扱うことも焼き物を作ることもできねえ俺たちにゃ、山で採れるこいつだけが冬のお供なんだよ」
飯屋でご飯をもりもり食べながら、田助は床に置いた籠をポンポンと叩く。
信州は山に囲まれ交通では苦労するが、その分木材や山菜など山ならではの産物に恵まれている。
ゆえに工芸品の分野では日本有数のブランド力を誇っている。実際に1998年の長野オリンピックで選手に与えられたメダルには地元の漆塗りと蒔絵、七宝焼が施され、その精緻な技術を遺憾なく世界に見せつけた。
「すごいんですね、アケビって」
俺がぼそっと言うと田助は驚いたように言い返す。
「当り前よ、実はおやつに、葉や根は薬に、蔓は編み籠にと捨てるところはまず無いぜ」
彼らの目には使い捨ての現代生活は異様に映るだろうな。
それにしてもアケビって、テレビで見たことはあっても実際に見たことは無いなぁ。
山に自生する果実で、大きなそら豆の果実がぱっくり割れて中から甘い果肉に包まれた種子が見えるというあれだが、しっかりと栽培されていないので季節が限られている上に需要が少ないのでスーパーでも売っていることはまず無い。
「特に野沢のアケビは他じゃ無いくらいに丈夫だ。しっかり編み込んだ葛籠なら100年は軽く持つ」
「ひゃ、100年!?」
俺も湖春ちゃんも身を乗り出した。気を良くしたのか、田助は得意げに話し続けた。
「何も葛籠だけじゃねえ、こうやって乾かしたアケビの蔓も高く売れるんだ。今日も1年間よく水気を抜いたこの蔓を町の職人に売りに来てたんだぜ」
植物の蔓を編んで籠などを作ることは全国で普遍的に見られた。特に雪深い地域では農民の冬場の副業として、大きく発展したのである。
だがそういった蔓細工は漆器などの富裕層を対象とした商品とは異なり、あくまで庶民の日用品という位置づけだった。
現代ではその素朴さや通気性などが評価されて高値で売買されることもあるが、この時代はありふれた商品のひとつだった。
「ねえ田助さん、そのアケビ蔓細工は江戸にも売り出したりしているのかしら?」
すかさず湖春ちゃんが尋ねる。
「いいや、ここら辺だけだよ。木の蔓なんて全国どこでも探せば見つかるからな」
そう、彼らが作っているのはあくまで日用品だ。全国に売り出そうなんて考えもつかない。日常に接しているからこそ、その素晴らしさに気づかないのだ。
だが現地人の自覚が無い分だけ、異邦人にはより魅力的に映る。
「ねえサブさん、これってうまくいけば商売に繋がるんじゃない?」
「そうだね、一度調べに行ってみよう!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます