第四章その5 清涼寺の地獄絵図

 清凉寺は彦根の中心街の北東、佐和山さわやまの麓に建てられた寺院だ。


 歴史好きならば佐和山と聞けば胸が高鳴るだろう。かの石田三成を城主として迎え入れ、彦根城の完成までは井伊家の本拠地でもあった佐和山城は、かつてこの山に聳えていた。


 そしてここに建つ清凉寺もまた井伊家の菩提寺であり、藩内でも格式高い寺として扱われている。


「ええ、確かに庄屋さんはよくここに来ておられます」


 庭先を掃除していた清凉寺の若い僧は、剃り上げた頭をこくこくと縦に振った。


「こと最近は庄屋さん自ら仏様の前に座って、長い時間ずっと経を唱えておられるのです。あれは単に祈願というよりも、まるで何かにすがり付いているような、すさまじい気迫を感じますよ」


「こら、サボっていないで真面目にせんか!」


 遠くからの和尚の一喝に、若い僧は「はい、ただいま!」と掃除を再開した。


 きれいに刈り込まれた庭園を横切り、俺たちは本堂に上がる。


 香が焚かれ心安らぐ匂いの立ち込める中、鎮座する観世音菩薩像の前に俺たちは座り込んだ。


 こういう場所に来ると心が凛とする。俺は無意識の内に手を合わせていた。


「おや、あの絵は?」


 白石屋の店主が天井近くの壁に掛けられた絵を見て驚く。そこには地獄絵図が描かれていた。


 閻魔大王が監視する中、火で焼かれる人々、針山を歩かされる人々。デフォルメされた日本画ならではの表現でなければ、思わず吐き出してしまいそうな悲惨な光景。


 そんな阿鼻叫喚な地獄の様子を、仏様がじっと見下ろしている。


「こういう絵っていつ見ても怖いですね」


「いえ、そうではありません。ほら、寄贈者が」


 店主の指先は絵の隅っこ、余白のスペースを示していた。


 そこに書かれていたのはあの庄屋の名前だった。


「地獄絵を奉納するなんて、まるで本当に死を恐れているみたいですね」


 店主の一言は実に深みがあった。この人ももう長くは持たない。史実ではあと2か月も経たずに病死してしまうのだから。


「店主さん、これは庄屋さんをもう一度訪ねてみるべきでないでしょうか?」




「何度言えばわかる、お前のバカ加減にはほとほと呆れるわ!」


「うるせえこの糞親父! せっかくの機会をみすみす逃すバカはどっちだってんだ!」


 庄屋の屋敷から聞こえる男二人のののしり合いに、俺たちは開け放たれた門の前で立ち尽くしていた。


「これは今入っていける雰囲気ではないですね……」


 苦笑して店主と顔を見合わせたその時だった。


「二人とも、くだらない喧嘩はやめて!」


 娘の千代乃ちゃんの声の直後に、岩石が砕け散るような破壊音が響く。


「「ぎゃー!!!」」


 男二人の情けない叫び声が上がると、それまで止むことの無かった喧嘩もしんと静まり返ったのだった。


 しばらくすると庭先に右手をぷらぷらと振り回しながらため息を吐く千代乃ちゃんが姿を現した。


「本当に男ってバカばっか……あら、白石屋の方でありませんこと?」


 俺たちの姿を見るなり顔を赤くした少女に、俺はぺこりと一礼した。





「また来られたのですか」


 座敷に通された俺たちを迎えた庄屋さんは、なぜか濡れた手ぬぐいを頭に巻き付けていた。


 そして隣には同じく頭に濡れた手ぬぐいを載せた息子の段平さんが、むすっとした表情のまま父親から顔を逸らせて座っている。


 そんな俺たちを千代乃ちゃんはお茶を持ってきたお盆を抱きかかけたまま部屋の隅っこで見守っているのだった。


「昨日うちのバカ息子にお会いになられたのでしょう? 期待させて申し訳ありませんが、これの言うことなど絶対に信用なさらない方がいい」


「いえ、お話はそれだけではありません」


 俺が口をはさむと庄屋さんはぴくりとこめかみを動かし、そのまま顔を背けた。


「何度頼まれても無理なものは無理ですよ。私は大々的に反本丸を売ろうとは思いません」


「地獄絵図を奉納されたのは庄屋さんですね?」


 店主の言葉に庄屋さんは目を開いたまま静止する。


 そしてゆっくりと驚いたような顔をこちらに向け、「清凉寺に行かれたのですか?」と尋ね返した。


「ええ、つい先ほど」


 俺が頷くと、店主は続けた。


「あれほどの絵を寄贈されるなんて、まるで何か思い詰めておられるようです。私も病を患い余命幾ばくも無き身、墓に入るまで黙っておりますので話していただけませんか?」


 庄屋は肩の力が抜けたように息を吐いた。


 そして観念したようにぽつぽつと話し始めたのだった。


「3年前のことです。牛を屠殺場に連れていこうと引っ張っていていたところ、それまでおとなしかった牛が突然暴れだし、私は後ろ足で蹴飛ばされたのです」


 庄屋は着物の胸元をはだけ出した。その胸にはえぐれたような痛々しい傷跡が残されており、目にするなり俺は身の毛がよだった。


「3日後に私は意識を取り戻しましたが、それまでの間私は長い長い悪夢を見ていました。牛になった私は殺されては生き返り、再び殺されては生き返りを繰り返すのです。それはまさに……永遠の責め苦を受ける地獄の亡者のようでした」


 息子も娘も、目を丸くして父の話に聞き入っていた。


 同じ屋根の下で生活する彼らも、初めて聞いたことなのだろう。


「あれほどまで死というものに直面したことは後にも先にもありません。そこから思うようになったのです、今まで多くの牛を育ててはその肉を食らってきた私は、死後本当に地獄に落ちるのではないかと。牛たちの怨念が私を未来永劫解放しないのではないかと、不安に思うようになったのです」


 庄屋の身体はぶるぶると震えていた。


 ずっと頬を膨らませていた段平さんも「親父……」と呟いて身を寄せている。


「死期を感じると人間思いもしなかったことを考えるようで、それ以降私は反本丸を作る自分が恐ろしく感じるようになってしまったのです。我が家が代々続けてきた反本丸を絶やすことはできません。しかしそのためにはこれからも多くの牛を殺さねばならない……」


「庄屋さん、私は反本丸が大好きですよ」


 突如場を包み込んだ白石屋の店主の陽気な声に、一同は固まってしまった。


「それだけではありません、鶏肉も卵も、牡丹肉も大好きです。魚だって毎日のように食べています」


 庄屋がぽかんと口を開いてこちらを見ている間も、店主は一方的に話し続けた。


「特に大量の小魚を飴煮にしたものは大好物です。あれは堪りません」


 何を言っているんだ、この人は? 俺は頭を抱えた。


 だが店主はにこやかな笑顔を庄屋に向け、ゆっくりと諭すのだった。


「まあつまりですね、私たち毎日のように生き物を食べているのです。それも数えきれないほどの命を。私が行商の度に踏みつける虫だって、立派に生きているのですよ。何も殺さず生きていける人間などいません、むしろあなたは本来なら私が食べる牛を代わりに殺してくれているのです。あなたが地獄に落ちるのだとしたら私とて同罪です。それならばいっそのこと皆で仲良く地獄に落ちようではありませんか」


 なんとも場違いなまでに明るい口調。


 息子たちは唖然としていた。


 だが庄屋さんだけは違った。店主の話に耳を傾けながら、袖で目頭を拭っていたのだった。


「白石屋さん、ありがとうございます。おかげで少し気が晴れましたよ」


 ゆっくりと立ち上がり、すたすたと縁側に向かって歩き始める。そして背中をこちらに向けたまま、こう言い放った。


「段平、お前に任せる。白石屋さんの言うことをよく聞いて、反本丸を世に広めなさい」


「お、親父!」


 段平さんは立ち上がり、父に駆け寄った。

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