第六部 はるかなる北の大地

第十六章その1 最北のフロンティア

 俺が元禄時代にやって来てから、もうすぐで丸3年が経とうとしていた。


 白石屋は順調に拡大を続け、今では八幡の本店に江戸、福岡、大坂、丸亀、広島、長野、駿河と西日本を中心に支店を展開している。


 そして支店を拠点にしながら各地で名産品や優れた工芸品を見つけては販路に乗せ、品によっては長崎の高砂屋を通じて海外にも送り出していた。


 職人たちも普段接する人々だけでなく、見ず知らずの遠くの人々にまで自分の商品が届くと思うと俄然やる気が出るようで、さらに良いものを作らんと努力している。


 おかげで短期間の間で飛躍的に技術を向上させた産業もあり、白石屋の名は広く知られることとなった。最近では職人自ら店に売り込みに来ることもある。


 これからは東日本への進出を念頭に、新たな商売を切り開こうと方針を固めていた皐月さつきのある晴れた日のことだった。


「サブさんはおられますか?」


 川辺屋店主、棟弥さんが白石屋を訪ねてきたのだ。


「やあ棟弥さん!」


 ちょうど番頭と帳簿を眺めていた俺は顔を上げた。


 一昨年、堺から嫁を迎えて先日ついに男の子を授かったばかりの新米パパは微笑んで答えた。その手には折り畳まれた書状が握られている。


 俺は最高の友にして最大の商売敵を座敷に上げた。今年張り替えたばかりなので芳醇ないぐさの香りがまだ残っている。


「ついにやりましたよ、北前船の権利をようやく獲得できました」


 棟弥さんは畳の上に書状を広げ、俺に見せつけた。そこには草書体で文章が記されているが、末尾には『蝦夷松前藩主・松前矩広』と署名がされている。


「妻の実家を介して頼み込み続けた甲斐がありました。これで白石屋と川辺屋、ともに蝦夷えぞに進出できます」


 珍しく興奮した様子の棟弥さんだが、俺もきっと同じような顔をしていただろう。


「やりましたね、蝦夷の品を直接、より安い価格で扱えますよ!」


 蝦夷、つまり現在の北海道への進出は予てより俺たちの悲願だった。


 当時、蝦夷の地は幕府の支配の及ばぬ荒涼とした地として扱われており、調査が進んでいるのも沿岸部に限られていた。それも島の形状すら地図に描き起こすには不明確なほど、未知にあふれた大地だった。


 しかし温帯気候区の本州や九州とは違い、蝦夷は冷帯気候区。日本の中でも特に植生の特異な地域で、得られる産物も本土では珍しく高価なものばかりだ。さらに以前までは松前藩とその家臣によって現地に住むアイヌとの交易も制限されていたが、近年はそれも緩和され商人の裁量権も大きくなりつつある。その機に乗じ、一攫千金を夢見た商人たちはこぞって蝦夷を目指した。


 しかし蝦夷への進出には莫大なコストがかかり、さらに商船仲間や蝦夷を治める松前藩からも許可を受けなくてはならない。近江商人でも蝦夷に踏み込めている者はほんのわずかだ。全国を歩き回ってきた棟弥さんでも、蝦夷の土を踏んだことは無い。


 白石屋と川辺屋は共同事業として新たに会社『日牟禮ひむれかい』を設立し、ようやく蝦夷進出の権利を得ることができた。


 会長は白石屋と川辺屋、数年ごとに交代で勤めるなど共同経営者同士が揉め事を起こさないよう、またもしもの時にはどちらの意見を優先するかなどを会則として明文化している。


 だがその最初に書かれているのは『売り手よし、買い手よし、世間よし』だった。これは近江商人として死んでも守り通さねばならない信念だ。


「ふたりとも、まぁた新しい商売の話なんかして」


 茶と菓子を持ってきた湖春ちゃんが呆れたように言った。出会った頃よりも背が伸びて顔つきも大人らしくなったが、天真爛漫な性格だけはまったく変わらない。


「そりゃあ前人未踏の地は男の憧れだよ。木材や毛皮は高値で取引されるし、奥州への足掛かりにもなる。それに美味しい海産物がザクザク獲れるから、売る分はもちろん食べる分も毎日海の幸を楽しめるよ」


「海の幸!?」


 途端、湖春ちゃんが目を輝かせた。


 近江には湖はあっても海は無い。新鮮な海産物などめったに口にすることができず、せいぜい祭りの日に若狭わかさ湾で獲れたサバが食べられる程度だ。それもコンガリ焼いたり酢でしめたりと、加工されているものばかり。


「そうだよ。昆布、ウニ、カニ、サケ、ホッケ……みーんなうちで扱うんだ。どうだい、いいだろ?」


「いい! ホッケて何のことか知らないけど」


 そう言って何度もコクコクと頷く。同年代には嫁入りも済ませている友達もいるのに、この娘は本当に変わらないままだ。


「ではここからも近いので、敦賀つるがから船を出しましょうか? 途中、新潟や村上で休みながら松前を目指しましょうか?」


 棟弥さんが提案する。敦賀は現在の福井県にあり、近江からも山ひとつ越えれば出られる日本海沿岸の良港だ。


 だが俺は「うーん」と首をひねった。


「いえ、ちょうど異国に売るため福岡に送ろうとしていた品が大坂に集まっています。下関を通って九州までそれらを運んで、そして敦賀まで北上して我々も乗り込めば無駄がありませんよ」


 日本海には南から北へと対馬海流が流れており、沿岸の町は多くの商船が出入りしている。


 航海技術の乏しいこの時代には海流に逆らうのは非常に困難であったため、目的地にたどり着くためにはその方向に風が吹くのを一月以上待つこともあった。だが海流は常に同じ方向に流れるため、非常に安定した航路として利用されていた。


 現代の大都市は軒並み太平洋沿岸部に集中しているが、江戸時代は日本海が海上交通の大動脈であった。今でも山形県の酒田市や新潟県の村上市などは往時の面影を残している。


 棟弥さんも納得した様子で頷いた。


「そうですね。そうなると大坂を出てから敦賀まで順調にいっておよそ半月、それまでに私たちも準備できます。今の季節は海も穏やかなので、持てる荷物は持てるだけ積み込みましょう」


「ええ、そして蝦夷の地にも白石屋と川辺屋の名を刻み込もうではありませんか!」


 今までに無い大きな商機を控え、俺たちはさらに具体的な話を詰めていったのだった。

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