第十三章その3 福岡までよーきんしゃった

 流れゆく絵巻物のような島々の風景を横目に、俺たちは瀬戸内海を突き進んだ。


「いやあ、年中穏やかなこの海でも冬場は多少荒れるものだが、あんたたち本当に運が良いね。これは予定よりも早く着きそうだ」


 風を受けて膨らむ帆の綱を引きながら、船乗りの男が話しかける。


「ええ、何せ旅立つ前にうちの八幡様へお参りしましたので」


 波を掻き分ける船の先頭に立ち、はるか彼方西の水平線を見つめながら俺は答えた。


 鎖国下のこの時代、外洋に出ることは禁じられており、航海に関しても和船わせんと呼ばれる日本独自の造船技術が発達した。


 竜骨を備えて巨大化した外国の船とは違い、その必要性の無かった和船は外板を張り合わせて作られた小型のものがほとんどで、基本構造は古代のカヌーと変わらなかったという。


「ほう、航海の神様でもおられるのかい?」


「はい、それはもう効果覿面で」


 苦笑いとともに思い出す。簡単には信じてもらえないであろう、海の神様との嘘のようなやりとりを。




「聞いたわよ、あなた福岡へ行くのですって?」


 雪積もる日牟禮八幡宮の境内にて、女神は俺にぐいっと顔を近づけた。


 今年は喪に服しているからと神社に参詣するのは湖春ちゃん共々控えていたのだが、さすがに航海の前だからと安全祈願に来たところ、またしてもこの神様空間に放り込まれたのだ。


「そうですけれども……どうしたのですか、福岡に思い出でも?」


「思い出も何も、私は宗像三女神、つまり玄界灘の女神よ。あそこは私のホームタウンみたいなもの、地元パワーで神通力も普段の3割増しだわ!」


 野球みたいに言うな。


「そうですか、それならお土産に陣太鼓でも買って来ましょうか?」


「それは熊本名物! いやいや、そうじゃなくてあなたたちの航海の安全を私が保証してあげるわ。少なくともあなたたちが海の上にいる間は、雨も雪も降らず、穏やかな風だけを起こし続けてあげるわ」


「できるのですか、そんなこと!?」


「私は海の女神よ。それくらいテレビ見ながらでもできるわ」


「野球観戦のついでみたいな扱いで天候をコントロールするのですね……」


「そりゃあねぇ、天候は思い通りになっても野球の結果だけは私にもわからないもの。秋のドラフトだって、まさかあんなことになるなんて思いもいなかったし……」


 航海の安全を保障してくれるのは嬉しいのだが、この女神のパラメータ配分は色々とおかしいようだ。




「あれが福岡の港ですよ!」


 身を乗り出しながら宗仁さんが指差すのは、陸地を埋め尽くす瓦屋根の家々といくつも突き出た桟橋。そして大型小型も関係なく、忙しなく港を発着する船で常時混雑する波揺れる海。


 それらを見守るは小高い山を取り囲む石垣と漆喰に塗られた城壁にやぐら


 これが石高52万3000を誇る福岡藩の一大市街地と、荘厳な福岡城の城郭だった。大坂と比べても遜色ない光景に、船の上の吉松はぽかんと口を開いたまま固まっていた。


 船を桟橋に横付けし、船乗りが綱で係留する。これで俺たちは三日ぶりに船を降りることができる。


 沸き立った俺と吉松は船から飛び降りると、草鞋で港の土を踏みしめ、「九州の地に一歩!」と叫んだのだった。


 これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、白石屋にとっては大きな一歩である、なんちゃって。


「何しているのですか?」


 そんな呆れ顔をこちらに向ける宗仁さんの後ろから、風呂敷包みを抱えた男が手を振りながら近付いてくる。


「おおい、あんたたちが近江の白石屋かい?」


 腰には刀を差していた。港を管理する下級武士のようだ。


「今朝、飛脚からこの荷物を渡してくれって預かってね。まさかピッタリこの日にやってくるなんて、本当に運の良い人たちだよ」


 どうやら肝心の反本丸も無事に福岡まで届けられたようだ。


 航海の楽しさですっかりそのことを忘れていた俺たちは、大きく慌てた後すぐに安堵した。




 船の積み荷を手代たちに任せ、港に降りるなり俺と宗仁さんはひとまず福岡城へと向かった。


 この城は海と川に挟まれた小高い丘に建造されており、非常に広大で海と陸からの敵に常に目を光らせている。


 しかしいくら探しても日本の城のシンボルである天守閣は見つからない。というのもこの周辺は風が強く、先の時代に取り壊されたとからだと宗仁さんは語った。


 そんな福岡城の一室、立派な衝立と襖絵で絢爛豪華に彩られた座敷に通された俺たちを迎えたのは老練の武士だった。


「遠き近江の地よりよくぞ来られた。彦根藩井伊家と、そなたら白石屋には大きな恩ができてしまったな」


 男は黒田家大老、黒田くろだ一貫かずつらと名乗った。つまりは藩主に次ぐ福岡藩のナンバー2、普通の人生を送っているならば直接会話できるような人物ではない。


 武士の身分ではないものの、俺たちはいわば彦根藩の命を受けた譜代大名井伊家のメッセンジャーでもある。ぞんざいな扱いはできない以上、町人身分としては最高の待遇を受けているのだろう。


「早速これは我が主、黒田くろだ綱政つなまさ様にお渡ししよう。しかしこの反本丸、薬効もさることながら実に美味であるとも聞いている。もしも綱政様が病でなければ、私がくすねてしまうところだった」


 大老は苦笑いしながら、受け取った反本丸の入った重箱にそっと手を添える。近江に暮らしていると気が付かないが、牛肉を食せるのは本当に限られた身分の者か地元の人間だけなのだ。


 上級武士の冗談に俺たちはぷっと吹き出したが、これはチャンス。すぐさま最初に渡した重箱とは別に、別の風呂敷包みをそっと差し出した。


「はい、畿内の大名様も同じようなことをおっしゃられます。なので、この白石屋としても反本丸を一人でも多くの方に召し上がっていただけるよう、綱政様とは別に一貫かずつら様の分も用意いたしました」


「な、何!?」


 目を見開き、大老一貫が身を乗り出す。


 俺が今しがた突き出した風呂敷の包みを解くと、竹の曲げわっぱが現れる。


 さらにその蓋も外すと、そこには鮮やかな赤身の牛肉が味噌に絡められてびっしりと埋め込まれていた。部屋に漂う味噌のほのかな香りが空腹を刺激する。


 こちらは彦根藩が用意した肉ではなく、別件で白石屋が用意しておいたものだ。こういう時にはこれを見せればかなりの効果があることを、大津代官など近隣の武家との交渉で学んでいた。


「黒田家の重鎮とこうやってお話ができるのも何かの縁、お近づきのしるしにどうぞ」


 現代の倫理で言えば賄賂に当てはまる行為だろう。だがこの時代の商人にはよくあることだったそうだ。川辺屋の親父もこれでのし上がったわけだが、彼の場合は様々な悪事の帳消しを頼むなど完全に利己に走ったものだ。他者に取り入る際にも誰も不幸にならないよう、十分に配慮するのが近江商人のプライドというものだ。


 箱の中の赤い宝石に完全に見とれていた大老一貫はふと正気に戻ると慌ててわっぱに蓋をし、おほんと咳払いする。


「うむ、これは見事な牛肉。どれほどの味なのか実に楽しみだ。しかしこれではこちらがもらいっぱなしになる、何か礼を用意せねばな」


「いえいえ、お心遣いだけで十分でございます。ただ私たちも商人です、この福岡でも商売ができれば白石屋としても大変喜ばしいかと」


 俺が頭を下げながら返すと、大老の眼が光った。


 この町で商売をする権利、それを得るのが目的であると見抜いたのだ。いや、この百戦錬磨の大老のことだ、既に見抜かれていただろうが、ようやく本性を現したなと確信したのだろう。


 だがほんのわずかな時間、険しい顔を向けた大老はすぐさま先ほどの好々爺の顔に戻る。そして反本丸の入った曲げわっぱをそっと自分の隣に置くと、こう言ったのだった。


「うむ、わかった。白石屋の福岡城下での商売を認めるよう手を回しておこう。後日正式な許可証を渡しに使いの者を寄越すので、それまでどこかの宿で待っているとよい」


 最高の結果。俺たちは「ははあ!」と時代劇でよく見るようなお辞儀をした。


 自分で言うのもあれだが、すげーな牛肉外交。

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