第十三章その2 男たちの船出

「もう積み込みは終わってるよ!」


 立派な帆船から船着き場に軽々と飛び移りながら、船乗りの若者が立ち尽くす俺たちに答えた。米蔵が所狭しと建ち並ぶ大阪の港は既に夕日で赤く染まっている。


 彦根藩から依頼を受けて1週間、俺たちは急ピッチで九州進出の準備を進めた。


 まず藩主黒田家に贈る新鮮な牛肉を用意するため、彦根の牛飼い庄屋に指定した日に反本丸を作り、飛脚で走らせるよう手紙を送った。これは大名ご用達の特別な速達を使うので、陸路ながら船よりも速く届けることができる。


 その反本丸を準備している間に俺たちは船を手配し、さらに白石屋の扱う商品を載せられるだけ載せていた。川辺屋の棟弥さんに頼んで、古くなって大阪で放置していた船を一隻貸してもらったのだ。多少ボロいがまだ十分に使えるそうで、手の空いていた船乗りも呼び寄せてくれた。


 手代だけでは足りず、人足を雇って光琳さんお手製の日野椀や艾、信州野沢のアケビ蔓細工など今までうちで扱ってきた商品を運ぶ。ただ、おみくじ煎餅の鉄板は大きく運びづらいので、福岡で鍛冶職人を見つけて作ってもらおう。


 驚いたことにこの時代、京都(伏見)と大坂は運河でつながっていた。現在では干拓や埋め立てで多くは消滅してしまったが、当時の近畿地方には琵琶湖・淀川水系に沿って網の目のような水運ネットワークが張り巡らされていた。琵琶湖という水瓶から流れ出た川は農耕の恵みだけでなく、交通においても潤いをもたらしていたのである。


 重い荷物を運ぶのも京都までの辛抱で、あとは船が荷物も人も運んでくれる。半日船に揺られればもう大坂だ。


 海のような大きなものではないが、最大30石までなら積載可能なので八幡からでも荷物の運搬は思いの外楽だった。


 これで準備は整った。うまくいけば反本丸と俺たちの船が同時に到着でき、藩主黒田家に反本丸を献上しながら福岡の地で商売を始めることもできる。この好機を逃してなるものか!


「福岡は良き土地ですよ。魚は美味しいし、暖かい。長崎も近いので異国の品も簡単に手に入ります」


 船着き場から発着する多くの船を眺めながら、隣に立つ宗仁さんが呟いた。


「宗仁さん、福岡に行かれたことあるのですか?」


「ええ、以前もお話ししましたように、藩医の貝原先生は私の師でもあります。昔、医術を学ばんと各地を彷徨い歩いていたのですが、福岡藩には3年以上滞在し、貝原先生から朱子学や本草学を教授いただきました。今でも困った時には貝原先生のお言葉を思い出し、生きる指針としております。そういうサブさんは?」


「いえ、実はまだ行ったことが無くて」


 正しくはこの時代の福岡には、だが。


 元の時代では何年か前、スワローズとホークスの日本シリーズの際に試合を福岡ドームで観戦し、ついでに大宰府などを観光していた。久々の日本一がかかっているのだ、九州まで応援に行くのは根っからのスワローズファンとして当然だろう。


「うわぁでっけー船! それに……これが海のにおいか!」


 100石積みも可能な大舟を前に、目を輝かせて深く息を吸い込んでいるのは丁稚の吉松だった。彼も八幡から連れてきたのだ。


 普段は憎たらしく振る舞う彼の子どもらしい姿に、俺たちはつい吹き出してしまった。


「はっはっは、吉松君、あんなにはしゃいじゃって。遠くに来られたのがよっぽど嬉しかったみたいですね」


「ええ、吉松にはもっと広い世界を見せておきたいと思いまして」


 俺は吉松に目をかけていた。


 口は悪いが頭の回転はそこらの大人より早く理解力も高い。あの年齢で数学のような抽象的な物事を考えられるのは大したものだ。


 大学で教育学を齧っていた俺から言わせれば、発達心理学の大家ピアジェの発達段階でいう形式的操作期にあの年齢で到達していることになるのだが……まあここは省略しよう。


 ともかくも通常なら丁稚はまだ半人前にも及ばない扱いなのだが、吉松に関しては将来を見込んで特別に九州まで同行させることにしたのだ。いずれは吉松に店を任せることになるかもしれない。


「うっわー! 本当、海って琵琶湖とは全然違うのねー!」


 その隣に湖春ちゃんまでいるのは予想外だったが。


「湖春ちゃん、ここから先は大変だし、君には店を守っていてもらいたいんだ」


「ええ、そのつもりよ。だけどせめて見送りくらいならいいでしょ?」


 ぷいっと顔を背けながら言い放つ。確かに、ここから八幡までなら3日もあれば帰ることもできるのだが。


「ねえ湖春ちゃん、本当に良かったの? 俺を店主に迎え入れるということは――」


「いつかは結婚する、そういうことよね。いいわよ別に」


 こちらを振り返らず、湖春ちゃんは素っ気なく言った。


 え、いいの?


 あまりの即答振りに俺は言葉を返すこともできなかった。


 そんな風に戸惑う俺を吉松はちらりと見ると、空気を読んでかそそくさと宗仁さんの方に走り去る。


「私ね、あれから色々と考えたの。白石屋を繁栄させるにはどうすればよいか、とか。でもいくら考えても結局答えは同じ。サブさんを店主にすればいいって、たどり着いちゃうのね。だからそれが一番なんじゃないかって、そう思ってる」


 離れた吉松が宗仁さんに何か話しかけるのを見つめながら、湖春ちゃんは語った。


「それは店のことを考えて、だろ? 湖春ちゃん自身はどうなんだよ? 放浪の好きでもない男と結婚しても、それでいいのかい?」


「好きよ、私はサブさんのこと」


 またも時間が止まってしまった。だが心臓のだけが一際大きく鼓動する。


「ずっと不思議だったの。小さい頃から男の子とチャンバラしたり木に登ったりして遊んできたから、私は男の人と話したり仲良くすることに抵抗は無い。でもね、サブさんだけはどうも違うの。一緒にいると楽しいし、傍にいたいと思うこともある。で、それがどうも一緒に遊んでいた子たちとは違うというか、何て言うんだろ、嬉しいけど切ないというか……とにかく初めての感情だった。ちょうどほら、信州で私が切支丹キリシタンと間違えられたけど、サブさんが助けてくれた時くらいから」


 ここで湖春ちゃんはくるりと振り返る。頬が紅潮し、視線を忙しくあちこちに移しながらも、俺の顔に必死で向けようとしていた。


「でね、この前の会合で結婚という話を聞かされて、ようやく気付いたの。そうか、これが愛情なんだって。今まで源氏物語の中でしか見たことのない、揺れ動く心なんだって」


 何て言えば良いのやら、俺は適当な言葉が思いつかなかった。


 この時代に残って白石屋の経営を任されたなら、いずれはこうなる可能性もある程度予見できただろう。


 だが俺はそんなことは無いと思い込み、無意識の内に湖春ちゃんとの関係について深く考えることをブロックしていたようだ。


 そんな不甲斐ない俺の知らない間に、彼女は既に自分なりの決心を着けていたようだ。その点では湖春ちゃんの方が俺よりもよっぽど大人だった。


「というわけで、店のことは女将である私に任せてよ! サブさんたちは九州での販路拡大のことだけを考えていればいいわ。なぁに、結婚なんて今日明日で決める話じゃないんだから、気に病む必要は全く無いわ。あとでゆっくり考えればいいのよ!」


 どんと自分の胸に握り拳を打ち付け、湖春ちゃんは言い切った。まだまだあどけないとばかりに思っていたが、その姿は実に頼り甲斐あるように見えた。


「湖春ちゃん、ありがとう。行ってくるよ」


 そう言うと俺は湖春ちゃんに背を向け、出港準備の完了した船に乗り込む。甲板では既に吉松と宗仁さん、それに手代の若者5名が待っていた。


「どうです、夫婦水入らずでお楽しみいただけましたか……いて!」


 俺はにたにたと笑う吉松の頭を小突いた。


 ちらりと後ろを振り返ると、今にも泣き出しそうな顔の湖春ちゃんがこちらに駆け寄る姿が目に映った。




「うわぁ、本当に動いた!」


 もやづなが解かれて船が動き出すと同時に、吉松は歓喜の声を上げた。彼が近江から外に出たのはこれが初めて、無論海の上で船に乗るのも生まれて初めてだ。


「行ってらっしゃい! 体に気を付けてね!」


 湖春ちゃんは水際で懸命に手を振り、見送っていた。


 その姿が見えなくなるまで、俺たちもずっと手を振り返していた。


 俺たちは夕日に向かって真っすぐに進んだ。目指すは九州福岡藩、本州と四国に囲まれた瀬戸内海を西したその果てだ!

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